ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 福島原発事故独立検証委員会著 「調査・検証報告書」 ディスカバー21

2013年07月19日 | 書評
民間シンクタンクによる独立検証委員会が見た福島原発事故の真相 第10回

検証結果(7)


第8章 安全規制のガバナンス(1)
 原発の安全規制の建前は、事業者が安全の第一義的責任を持ち、原子力安全・保安院が電気事業者を監督し、原子力安全委員会は安全規制の指針を作ることである。しかし現実は事業者は安全規制の当事者としての責任を十分にはたさなかったし、原子力安全委員会は有識者の集まりであったが、十分な法的権限と調査分析の資源をもたないサロンにすぎず、原子力安全・保安院事業者に対して専門的な安全規制をする能力はなく、技術資源が圧倒的に劣っていた。電気事業者の追認機関に甘んじていた。この原因を作ったのは、日本の原発推進体制が、文部科学省の原発開発と通産省の商業炉建設と電力供給に別れていたために、推進と規制のの区別があいまいになったことであり、決定的な原因は2001年省庁再編により文部省管轄の科学技術庁が実質解体され、新設された原子力安全・保安院が経産省に組み込まれたために、規制担当が推進担当の下になり安全規制のガバナンスが空白状態「無責任体制」が生まれたことによる。福島第1原発事故が起こった遠因には、日本の原子力安全規制のガバナンスが機能してこなかったことがある。安全規制のガバナンス(管理監督)のアクターである、電気事業者、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、原子力行政省庁の歴史的な背景を検証する。日本が原子力発電に向かった政治・社会的経緯は山岡淳一郎著 「原発と権力」(ちくま新書 2011年)に描かれている。原子力行政は1955年に「原子力基本法」が成立し、総理府(翌年科学技術庁に再編)に原子力局が生まれ、1956年総理府に原子力委員会ができ、原子力技術開発をになう科学技術庁が発足したことからスタートする。科学技術庁と原子力委員会が安全規制にも責任をもつガバナンスの仕組みとなった。こうして「国策民営」路線が生まれ、国産原子力技術開発を科学技術庁が、商業炉導入を通産省と電力事業者が推進するという原子力二元推進体制となった。原子力発電所の設置建設は通産省が責任を持つ「電力事業法」、原子炉の運転や検査は科学技術庁が責任を持つ「原子炉等規制法」の二本立ての安全規制となり、責任があいまいとなった。商業炉は100%外国メーカーの原子炉の輸入であったため、外国の安全基準を維持すれば安全は保証されるという認識であったという。

 1961年に成立した「原子力損害賠償法」では、民間の損害賠償額に上限を設け、それを超える場合は民間事業者の賠償を国が援助をする」ということになり、ここで事業者の「モラルハザード」となり、安全規制に対する責任の所在が曖昧になった。「原発が国策であれば、事故の損害賠償は国が援助をすべきだ」という暗黙の了解が関係者に生まれたようである。大蔵省は賠償の第1義的責任は事業者にあると主張したので、この点も曖昧にされた。1978年原子力船「むつ」の放射能漏れ事故を契機に、原子力委員会から「原子力安全委員会」が分離され、原子力安全に責任を持つ専門組織が出来た。また科学技術庁は1976年に原子力安全技術センター(現在は原子力安全基盤機構)を設置した。原子力委員会が原発推進の旗振りをし、原子力安全委員会とは違う見解を示すなど「二元審査体制」の軋轢が目立つようになった。1973年以降伊方原発裁判を受けて、安全規制の検査がエヴィデンス重視の安全点検となりやたら書類重視の官僚主義傾向に終始するようになった。1999年のJOC臨界事故の反省においても2001年「原子力の安全基盤の確保について」という報告書が出されたが規制の見直しにはならなかった。2001年原子力安全・保安院が資源エネルギー庁に新設されたが、文部科学省の予算確保のため原子力安全事務局が新設され原子炉規制などの権限は残された。このため一層規制行政は複雑化しただけになった。原子力安全より官僚機構の保身策の方が優先した小泉改革であった。科技庁のもとには、原研、動燃、核燃料サイクル、原子力安全技術センターなる機関があった。2005年には原研と核燃料サイクル機構は公益法人原子力研究開発センターJAEAに統合された。経産省のもとには原子力安全基盤機構JNESが設立された。これが原子力安全・保安院の技術業務を補佐する任務を期待されていたが、実質は仕事の85%は外注する事務機関に過ぎないようである。この二元安全機構法人も、科技庁系列の原子力安全基盤機構JAEAと経産省系列の原子力安全基盤機構JNESが並存することが縦割り行政の弊害の典型である。この間に「安全性審査」が落ち込んでしまった。

(つづく)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年07月19日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第69回 最終回

155) かたわもの
アンデルセンは「貧乏人の境遇は救えない、貧乏人は死んで初めて幸せなれる」という奴隷根性の持ち主でした。「マッチ売りの少女」がその典型です。この「かたわもの」の話はちょっと違うアンデルセンです。神様は貧乏人も救ってくださるという風に変わっています。現代では貧乏という社会格差は、社会制度の変革や福祉・教育の向上によってある程度是正することができるという認識です。新自由主義の考えでは、本人の努力と能力の結果が格差であり当然だという認識です。社会制度論と新自由主義は話がさかさまになっているだけです。アンデルセンの童話に戻りましょう。ある裕福で善良な貴族の屋敷の召使いの間でクリスマスの集いが開かれ、村の貧しい子供と母親が招かれ、貴族の夫婦から食事やプレゼントをいただけました。その屋敷には庭働きのケアスデンとオーレという夫婦が住んでいました。5人の子供がいましたが、一番上の子供はハンスという足に障害を持つ寝たきりの子でした。そのクリスマスパーティでは4人分の子供服をいただきました。ハンスは外へ出られないので服は必要ないのです。ハンスには服ではなく本をいただきました。ハンスは手先が器用で編み物が得意でしたが、もともと利発な子で本を読むのが好きでした。ハンスはその本から「木こりとその妻」という話と、「苦労と不足のない男」という二つの話を読んで、両親が生活の不満を言うたびにこの二つの話を聞かせてやり、他人の生活に好奇心を持つことはろくなことではないとか、つらい仕事をしなければならないのは自分だけではないということを親に教えました。そして両親は目の前のかすみが取れたような楽しい生活が送れるようになりました。これを聞いた校長先生は暇ができた時はハンスのベットに来て、お話をしていろいろな知識を与えたり、勉強の力になってやりました。校長先生がお屋敷の夫婦の午餐に呼ばれハンスのことをお話しすると、感銘した奥様がハンスに小鳥の入った鳥かごをプレゼントしました。ここから奇跡が起きるのです。べット脇のタンスの上に鳥かごをおいて、ハンスは鳥の歌声を聴いてそれは幸せな気分になっていました。そこへ猫が鳥かごを狙って飛び掛りました。絶体絶命の鳥かごを救うためハンスはベットから転がり落ちて、鳥かごを胸に抱きました。なんと両足でハンスは立っていました。ハンスの足は治ったのです。お話の本はハンスの両親の迷いを覚ます光明となり、鳥かごはハンスの足に奇跡を起こしました。「森の少女ハイジ」の話のようです。奇跡は起きることを信じようというお話です。ハンスはのちにラテン語学校に入ることができました。神様は貧乏人の子供のことまで考えていらっしゃったのです。

156) 歯いたおばさん
ある学生が小さいころ、ミレおばさんから甘いジャムやお菓子を貰いました。ミレおばさんは若いころ醸造家ラスムッセン氏のプロポーズを受けたのですが、返事をしないうちに年が経ちラスムッセン氏は亡くなりました。ラスムッセン氏の葬儀の後、「きっとコウノトリはラスムッセン氏を連れてくるよ」と学生がいうと、ミレおばさんは僕の空想にびっくりして「きっとこの子は大詩人になるよ」といいました。こうして僕にとってミレおばさんは詩人の空想と歯痛の悩みの元になったのです。学生(僕)は詩人になる空想に取りつかれ、地獄の魔女(歯痛夫人)に襲われました。ミレおばさんは地獄の魔女だったのです。

(完)