このところ、学校での事故・事件に関する研究動向を見ていて、正直なところ「いかがなものか」と思っていることを、この際、少し書いておこうかなと思います。
この内容は昨日、CAPセンター・JAPANの総会記念講演会でもお話したことと重なるのですが・・・。
また、これはあくまでも「私の目から見て」の話でしかないのですが。
要するに「子どもを守りたい」とか「子どもの安全・安心の確保を」といいつつ、実は「それって、おとなの不安の解消」とか「おとなの不信感の緩和」のためにやっていて、「肝心の子どもそっちのけ」の話になっていないか、ということが、時折、子どもの安全・安心確保策についての議論に見受けられるんですよね。
たとえば、次のようなパターンの議論を見かけたときに、私はこのところ、「それって、おとなの不安感や不信感の緩和のための議論じゃないの?」と思うのです
(1)そもそも、子どもたち自体を「危ないこと」から遠ざけておく。そうすれば事故・事件は防げる。
⇒どこで子ども自身が身を守る術を学ぶの? 子どもが成長する上で貴重な体験を得る機会はどうなるの?
(2)たとえば「暴力をふるう」などの「他人に危害を加える子」は、学校から排除しておく(あるいは、そういう行為があれば排除する)。
⇒「学校安全・安心ルール」なるものをつくる自治体もある。あるいは、障害のある子どもなどの分離・別学を望む声もある。
さらに、そもそも「問題行動を起こさないような子どもに家庭が育てるべき」だと考えたら、「家庭教育支援法案」なども出てくる・・・。
(3)そもそも「学校で子どもどうしが濃密に関わる機会」がなければ、問題も生じない。
⇒どこで子どもの仲間関係を育てるの?
(4)そして、GPSケータイと監視カメラで子どもの登下校や学校生活の「すべて」を把握しておきたい。
⇒それでおとなは安全・安心かもしれないが、一方で監視社会・管理社会を創り出すことにもなる。
ざっと、こんな感じですね。
以上の(1)~(4)のような環境で、確かに子どもの安全は守られるかもしれないし、子どもとかかわるおとな(たとえば保護者とか)も安心かもしれない。
もちろん、「隅々まで誰かが子どもを監視・管理してくれているほうが、子ども自身もおとなの側も安全・安心」という発想もあるわけですが・・・。
しかし、これって見ようによっては、子どもに対するおとなの「善意」による「支配」、あるいは子どもに対する「監視・管理社会」の構築ですよね。
それでほんとうに、いいのかな?
あるいは、これって正直なところ「いかがなものか」とか思ったりするんですよね・・・。