できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

土田光子『子どもを見る眼』から

2012-12-24 20:25:36 | インポート

昨日、所用のために、明石へ出かけました。その往復の電車のなかで、土田光子『子どもを見る眼』(解放出版社)を読みました。その中にでてきた次の一節が印象的。次年度の「生徒指導論」の参考文献にこの本、入れることにしました。どこかの一節を取り上げて、受講生に読ませようと思います。

◎学校で二度子どもを傷つけないために

例えば、いじめという事象と向き合うとき、いじめられる側にも問題があると考えるのは、自分なら跳ね返せるという立ち位置からものを考えるからだろう。しかしそういう位置にいる子どもは、いじめられないものだ。 いいか悪いかではない。事実として、死にたくなるほどの深い悲しみを抱えながら、思いを口に出すこともできず、じっと一人で耐えている子どもがあなたの目 の前にいるのだ。その哀しみに思いを馳せ、傍らに寄り添い、ともに涙を流し、しかしはっきりと、「あなたは決して悪くない」と、「あなたが悪いからいじめられたんじゃない」と、そう言い切ることもせず、被害者である子どもの発想や考え方を正そうとしたとき、子どもは、いじめを受けた傷以上の深い傷を負うことになる。

助けてくれるべき人から受けた、無理解という肩すかしや、「君にも非がある」という逆攻撃は、子どもを二度傷つけ、自尊感情を木っ端みじんに打ち砕く。

だからこそ、チームがある。教員同士が互いの個性を活かし合いながら、自分とは違う感覚をもった同僚たちと手を携えて、かけがえのない子どもたちと、丁寧に向き合いたいものだ。自分の自分らしさを武器に、しかしそれが独断と偏見に結びつくことがないよう、多様な角度から子どもたちを見つめながら、チームのなかで情報を交換し合い、ともに「子どもを見る眼」を鍛えあっていくことが求められている。

安心と協働の場である学校で、友人関係に傷ついた子どもが、教員によって二次被害を受けることだけは、細心の注意を払って食い止めなければならない。(p.137138

子どもを見る眼: 先生たちへの応援歌 子どもを見る眼: 先生たちへの応援歌
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2012-12-03


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