できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「しあわせ運べるように」に寄せて~忘れたくても、忘れられない。いや、忘れてたまるか~

2022-01-17 09:58:08 | 私の「仲間」たちへ

以下の内容は昨日のお昼頃、ツイッターに連続で投稿した内容に少し手を加えたものです。○印1個分がツイート1個分です。まあ、フェイスブックとかブログだと毎年この1.17の頃に書いている話なので、何度も読んでる人がいると思いますが…。ツイートしたのは初めてかもしれません。ということで、こちらのブログにも転載しておきます。

<以下、昨日のお昼頃の連続ツイートの内容>

○あしたで27年目やね。あの震災のこと忘れたがっている神戸市長と市議、兵庫県知事と県議の前で、思いっきりこの歌をうたってやりたい。忘れたくても忘れられるものか。私の生まれ育った町内だけで何人亡くなったか。

https://www.youtube.com/watch?v=LDngfGdrYjk (「しあわせ運べるように」川嶋あい)

○27年前の1.17は、私の修論提出日。当時は大阪市内で下宿生活していたから、私自身は無事、修論も出せた。でも神戸・東灘の実家は、あと1mほど家の前にあった電柱が傾いて倒れていたら、家族みんな即死だったはず。もちろん実家のある近辺は、木造家屋の倒壊率9割越えて壊滅状態。火災も起きた。

○その倒壊した木造家屋の下敷きになって、近所の八百屋さんはじめ、何人もの方が私の実家近辺で亡くなった。そして修論出したあと、震災発生2日目に歩いて実家に帰って、なんとか半壊状態でのこったで我が家で後片付け中の父と姉の無事を確認。続いて小学校(母校)へ先に避難した母と弟の無事を確認。

○家族の無事が分かったところで、父母から「お前はここにいてもしょうがない。帰れ」と言われ、泣きながら乗り捨ててもいい自転車に乗って、大阪の下宿まで戻った。で、大阪でボランティアの仲間募って数日後、今度は被災者支援のボランティアとして現地に入った。その都度、実家に顔出したけどね。

○あの震災2日目の夜、大阪市内で当時かかわっていた不登校の子どもの居場所で、そこに普段集まっていた子どもたちの安否確認を全部終わらせたあと、ご飯食べてて…。昼間見た実家のこと思い出し、「自分一人だけ、ここでうまいメシ食っていていいのか?」と、他のスタッフを前に泣いてしまった。

○でも「お前はここに居てもしょうがない」と言って、私を大阪に戻らせた父母の思いは違った。「我が家は我が家でなんとかする。お前はここから自由に動け。その分やりたいことやって、他の人たちのことを助けたらそれでいい。親として今、お前にできることはそれだけ」って。それが父母の思いだった。

○だから、そこから先27年ほど。私は実家のことには一切かまわずふりかえらず(せいぜい正月とか親戚の法事くらいのかかわりだけして)、他の子どもや家庭、そして学校や不登校の子どもの居場所のこと、子どもオンブズのこと等々でひたすら突っ走ってきた。でも震災2日目に見たあの光景は一生忘れない。

○だってさあ自分の母校に、自分の家族も含めて大勢の人が暮らす場所なくして避難してる。その避難してる教室に毛布にくるまれただけで、荼毘の順番を待つ亡くなった方が安置されてたんだよ、あの日。そのご遺体の脇に、亡くなった方の遺族がずっと寄り添っていたんだよ。そんな光景一生忘れられないよ。

○だから、忘れたくても忘れられない光景をあの震災の時に見た私は、なんだかんだと口実つくっていま、あの震災を忘れようとさせてくる神戸市長や市議、兵庫県知事や県議を、とにかく許せない。向こうは復興施策に区切りつけて次に行きたいって思ってるんだろうけど。こっちは一生忘れられない。

○あの震災のときの小学校の教室で、亡くなって荼毘を待っていた方と、その方の脇でずっと寄り添っていた遺族のことを思い出して見ろ。冷たい教室の床で、まともな食事もとれず寝ていた家族のことを想像して見ろ。いまの神戸や兵庫の政治家(特に復興やめたがる大バカな政治家)には、それを言いたい。

○今の新型コロナ禍でもそうだけど…。自分の身近にいる大事なだれかが、どんな状態であっても、とにかく生きていてくれることが、どれほどありがたいことか。亡くなったときに手厚く弔ってもらえること、遺族がその後も周囲の人々に大事されることが、どれほど大事なことか。政治家にはそれがわかるか。

○そういう「人間として大事にすべきこと」のスジがわからないような政治家は、政治家なんてやめちまえ。これは研究者や専門職、行政職も同じ。こういう「人間として大事にすべきこと」のスジがわからない研究者や専門家、行政職も、さっさと別の仕事に転職してしまえ。ヨソへ行ってくれ、この際、

○ついでにいうと「これからは学校防災とか、学校の災害対応とか、子どもの命を守る教育の営みとか、そういう取組みがいる」と私が直感的に感じとったのも、あの1.17の震災のときに見た光景あってのこと。だからあの震災がなければ、『新しい学校事故・事件学』書いた研究者としての私も生まれてない。


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