できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「学力」とひとことでいうけれど

2010-03-18 18:23:52 | いま・むかし

今日は通勤電車のなかで、最近出たばかりの白井善吾『夜間中学からの「かくめい」』(解放出版社、2010年)を読んでいた。大学に通う道中で一気に読めてしまった。なかなか、面白い本だった。

タイトルからもわかるとおり、この本は大阪府内を中心として、夜間中学のこれまでの取り組みや現状、今後のことなどをまとめた本である。著者は長年、府内の夜間中学の教員をされてきた方。また、この本の書き出しは、橋下知事就任以来の大阪府の行財政改革のなかで、夜間中学の生徒さんたちへのさまざまな支援措置が打ち切られることに対しての、生徒さんたち自らの抗議活動の様子などがまとめられている。

文中に繰り返し出てくる「武器となる文字とコトバ」という表現、あるいは「学ぶことが運動に結び付き、運動することで学びが広がり、深まる」(p.43)とか、「学びを創造することは結局運動を創造することに結びつく」(p.43)、「夜間中学を必要としない社会を求めて」(p.43)の表現には、あらためていろんなことを感じさせられた。「こういうことこそ、反差別や人権尊重の教育・学習活動において、もっともっと、大事にされなければいけないことではないのか」と思ったのである。

とりわけ、p.127からの次の文章には、私もとても共感した。以下、引用しておきたい(青じ部分が引用)。

 夜間中学で追求している学びを文字にすると、「奪いかえす文字やコトバは、明日からの生活をかちとる智恵や武器となるものでなければならない。地域を変え、社会を変えていく力となる学び」ということになる。それを次の六点にまとめてみると、

  1. 自らがおかれている立場を表現する力
  2. 自らがおかれている歴史認識ができる力
  3. 現代社会の諸問題に対し、人権・権利の主張と行動ができる力
  4. 民族の自文化を大切にする力
  5. 自然が発しているさまざまなシグナルを受けとることができる力
  6. 生命系全体の共存を展望し実践する力

となる。(以上、『夜間中学からの「かくめい」』p.127~128から引用)

どうだろうか? こんな課題意識を持って学習活動を進める中で磨かれる力は、おそらく、受験競争に備えて学校や塾で磨かれる力とは、何かが決定的に異なっているのではないだろうか。

この違いは、今ある社会秩序の中に順応し、自らの能力を企業側などに高く評価してもらう(=就職や進学等に有利な)「学力」ではなくて、自分自身と自分の暮らす環境(主に社会的環境)を見つめ、そこをよりよく変えていくための「学力」の違い、とでもいえばいいだろうか。

少なくとも私としては、私たちが人権教育だとか反差別の教育という立場を重視するのであれば、本来、後者の「学力」イメージの追求が必要なのではないかと考えている。しかし、昨今の人権教育関係での「学力」関係の議論を見ていると、どうもこの両者を明確に区別して、整理したうえで論じているというよりは、性質の異なるものをあえて「いっしょ」にして論じているような雰囲気を感じてしまう。

もしかしたら、このような人権教育系の議論のなかには、前者のイメージに立つ形で、各地の教育行政などが推進している「学力」向上策にうまく便乗しながら、その枠内で後者の「学力」イメージに立つ実践を潜り込ませようとしている、そんな立場もあるのかもしれない。また、その立場の人々には、いろいろと切り崩されようとしているこれまでの取り組みを、なんとかして守ろうという「善意」があるのかもしれない。

しかし、私はその一方で、「ちがうものはちがう」とか、「私たちの目指すものは、こういうものではない」と、あえてはっきりと言ってしまうという道もあるように思うのである。

世の中のすべての人が、有名進学校を目指すかのような受験競争にのって、そこで前者のような学力を競って身につける必要はない。

しかし、自らがこの社会の中でどのような位置に置かれ、どのような人々とともに生きていくのか。また、そのために、この社会をどのように変えていく必要があると自分は思うのか。こういったことを冷静に見つめ、アクションを起こしていけるような力は、どのような人にとっても必要な力なのではないだろうか。

こういう発想の転換を行わない限り、今、大阪府や府内各自治体で進んでいる数々の行財政改革の動きに対して、きちんと対峙できるような人が育ってくる教育・学習運動など、到底、できっこないと思うのである。

「学力、学力」と簡単にいうのだけれど、自分たちの目指している学力と行政サイドから持ち込まれる各種施策でいう学力の両面について、その中身をしっかり吟味して、「なんのための学力なのか?」という次元から、きちんと教育・学習運動の側が自らの価値観を磨いておかないといけないのではないだろうか。

そんなことを、この本を読んで、今日はあらためて実感した。

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