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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

私たちの研究体制自体を組み替えないと

2010-03-06 10:32:51 | 受験・学校

このところ、青少年会館(青館)条例廃止後の大阪市内各地区の子どもや保護者の状況に関して、3年近くにわたって調査活動を続けてきたことの「まとめ」にあたる文章を、いろんな文献を読みながらまとめている。そのときに読んだある本のなかに、次のような文章が出てきた。

子どもの成長・発達にとっての「教育」「福祉」「文化」「地域づくり」の営みを、総合的・統合的に捉えるためには、〈子どもの権利保障〉の視点に立つことが不可欠である。少なくとも、「児童憲章」(1951年5月)や日本政府も批准している「子どもの権利条約」(1989年11月)の理念と規定を基本軸に据えて、子どもの発達環境の総合性を捉え、常に子どもの最善の利益を軸にして考える子ども観をベースに置いて検討していかないと、諸分野・諸領域の連携は難しいだろう。(増山均「地域の子育てと『放課後子どもプラン』」、全国学童保育連絡協議会編『よくわかる放課後子どもプラン』ぎょうせい、2007年、92ページ)

ここの文章については、「そう、そのとおりなんです!」と私も思う。

ただ、残念ながら、何かにつけて学校での「学力保障」に傾斜しがちな大阪の解放教育・人権教育系の議論において、このような視点にたった研究は、きわめて弱い。もちろん、それが不要だとかダメだとかいう気はないのだが、今の大阪市内の各地区の子どもや保護者の様子を見ていると、どうも、「それだけでは研究が足りないのではないか?」という思いが強い。

この文章が載っていたのは学童保育関係の本である。そのことにひきつけていえば、たとえば子どもの放課後活動とか学童保育とか、児童館や青少年会館の果たすべき役割など、教育と児童福祉の「谷間」というべき領域に関しては、大阪の解放教育・人権教育系では、過去はさておき、最近では私たちの仲間くらいしか発言していないのではないだろうか。学校関係についての情報発信量に比べてみると、ほんとうにわずかしかないのが実情である。

あるいは、この本には次のような一節もある。

重要なポイントは、「子どもの成長・発達にとっての地域社会が持つ意義」を大切にするという視点、すなわち〈地域の子育て〉〈地域の教育力〉の再生・強化の視点を見失わないことである。

子どもの成長にとっては、同年齢集団を基礎として、教師による教科指導や生活指導を通じて学びあう学校教育だけでは十分ではない。異年齢集団での学び合い、若者や親たち、そして高齢者との人間交流が保障される地域社会での学びが不可欠である。それはいうまでもなく、学校での学びを支える幅広い体験の基盤でもあるし、コミュニケーション能力を豊かにする上でも欠かせない。それらは〈地域の教育力〉といわれてきたが、それは異年齢・異世代の中で練り上げ・継承される力であり、地域社会の文化・伝統・風土を通じて醸し出される力である。(同上、88~89ページ)

ここもまた、私としては「そのとおりです!」と思う。大阪市内で近々発足する「市民交流センター」もまた、こうした理解のうえにたって、旧青館と人権文化センターで取り組んできたことをうまく結び合わせて、「地域の教育力」を高めるための世代間交流の活性化をはかっていかなければ、所期の目的を達成できないのではないだろうか。

それこそ、「学力保障」に向けて、学校内外の「社会関係資本」(ソーシャルキャピタル=「人と人との豊かな繋がり」)の充実への総合的支援が必要であるというのであれば、大阪の解放教育・人権教育は今後、上述の「異年齢集団での学び合い、若者や親たち、そして高齢者との人間交流が保障される地域社会での学びが不可欠」という部分についても、積極的な提案とその裏づけとなる研究が必要なのではないだろうか。

そして、この本には、「放課後子どもプラン」に対する批判として、次のような文章がある。

そこには、明らかに「学校(勉強)中心主義」があり、常に子どもは「生徒」としてとらえられており、「小さな住民」「小さな市民」としてとらえる子ども観が欠落している。「学校」が終わった後は単なる「放課後」ではなく、「地域社会」の中で住民・市民の一人として自由時間を過ごす権利があることが見失われている。将来、市民として生き、市民としての権利と義務を果たすことになる子どもの育ちにとって、「地域社会」の中で生活する時間を増やし、異年齢の子どもと交わることによって社会性を広げ、さまざまな大人世代と交流して文化を継承する機会が不可欠なのである。(同上、87ページ)

いま、子どもの安全・安心が奪われているのは、地域における住民同士のつながり・かかわりが薄れ、地域の親たちがそこに住む子ども一人ひとりの顔や名前を知らず、地域社会の空洞化が起こっていることに根本的な問題がある。子どもを狙った犯罪は、その弱点を突いて起こっているのであるから、「子どもの居場所」を「学校」に収斂して安全管理をまかせてしまう方向ではなく、親自身が地域住民として地域のさまざまな団体・人々と協同して、安全・安心のための〈地域づくり〉を担い、子育てのための〈地域の教育力〉の再生・強化を追及することが不可欠な課題なのである。(同上、88ページ)

ここで指摘されていることは、おそらく、大阪市内の「放課後いきいき事業」についてもあてはまる課題なのではないだろうか。その事業の運営を通じて、校区内に暮らす地域のおとなたちの連携がどれだけ深まったのだろうか。「地域の教育力」の再生・強化は、どこまですすんだのだろうか? あるいは、そもそも、「学校への囲い込み」で「安全・安心な居場所」を用意しておけば大丈夫、という発想でこの「いきいき事業」ははじまったのだろうか?

いずれにせよ、そろそろこの「放課後いきいき事業」も、その成果と課題を「検証」する段階に来ているように思うのだが、しかし、大阪の解放教育・人権教育系の側には、その準備が何もできていない。今から私たちの仲間で、大急ぎでその準備をすすめなければいけないような状態である。

このように、恥ずかしながら、大阪での子どもの人権保障だとか、あるいは、解放教育・人権教育の取り組みに関して、今の私たちの研究体制は、ある特定領域にはものすごく力を持っているものの、それ以外の領域では弱い。このような私たちの研究体制自体を組み替え、今の時代や社会の情勢にマッチしたものに仕上げていかないと・・・・。ほんとうにそのことを、このごろ、痛感する。

そして、私たち子どもの人権に関する研究に携わる者は、いま、これまでの議論や取り組みのなかで生じている私たち自身の課題、弱さを克服しつつ、新たな子どもの人権保障の仕組みと実践づくりに乗り出さなければいけない時期にさしかかっていると思うのである。

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