tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

下北半島を巡る旅 -4-

2014-05-27 18:34:08 | 日記
5月27日(火)
夜半からの雨も嘘のように上がり初夏の日差しが眩しく感じられる朝でした。

今日は大学のお稽古でした。
新入生もほぼ固まり、挨拶や帛紗(ふくさ)の扱いなど少しずつ勉強してもらおうと考えております。
高校生の時に経験しております子が多く、それも流儀が違うため教える方も教わる方も大変ですが、誰もが「頑張ります!」という元気な言葉が帰って来ました。

すんなり覚えてもらえるか、お互いに難儀をするかこれからです。
それでもいやにならないように考えなくてはなりません。

今日も、昨日の続きで下北半島を巡る旅です。

      

   円通寺

斗南藩の藩庁を置いた円通寺ですが、禅寺らしい雰囲気を持った大きな寺院でした。
前回書いたように、この日はお通夜が行われるようで人の出入りが激しく、ゆっくり拝観はできませんでした。

それでもお参りをさせて頂かなくては本堂に入れませんので、庫裏に挨拶に行くと、頭に手拭いを巻いた雲水さんが仕事の最中でしたが、お参りをしたい旨伝えると、私の方を見ないで「どうぞ」と一言、仕事の手を休めることなく返事をしてくれました。

   

   円通寺本堂

本堂に入って見ると、畳の敷き方が違う広々とした本堂でした。ここで斗南藩の重役方が政務をとったのか・・・あれほど立派なお城から、お寺を借りての新しい藩のスタートとなった場所です。

藩の仕事と日新館という勉学の場所でもあったのです。

   

   招魂の碑

境内には招魂の碑が建ち、この地で苦しんだ会津藩の人々の霊を慰めております。

こんな重苦しい雰囲気を後に、斗南藩史跡地に向かいました。



   

   斗南藩史跡地

途中今晩泊まる、ホテルを見ながら16時50分に到着。

ここは斗南藩の人達が「斗南の丘」と名付けて、自分たちの新しい街づくり着手したところです。
前から住んでいた人達すら開墾をしなかった不毛の地でしたから、中々計画通りにはいかないのが当たり前で、ましてや、鋤や鍬など握ったことのない人達の集団ですので、思うように進まず、脱落してこの地を去って行った家族も多かったといわれております。

藩士とその家族は、円通寺周辺の民家に間借りをしての生活だったそうで、下北での過酷な生活が余儀なくされておりましたので、どうしても自分たちの家屋敷を形成して行かなくてはならなかったのです。

   

   僅かに残る土塁跡

藩士には1日一人3合の米が支給されたそうですが、それすら口にしないでお金に換えて、生活を維持していたそうです。
そして、斗南藩では、いつまでも刀を腰にしていては、周辺住民と溶け込めないと考えて、廃刀令を出して、刀を腰にさすことを禁じたそうです。
それほどの覚悟がなければ生活ができなかったのでしょう。

当然藩士の反発もありましたが、藩の命令に従ったといいますが、そのあと、新政府から正式に廃刀令が出されております。
この一件だけでも会津人の先を見る目の確かさを証明しております。

今はわずかに残る土塁だけが往時を偲ばせております。

ここから1キロくらい離れたところに、斗南藩士の墓があるので行って見ました。

      

   斗南藩士の墓の説明

共同墓地ですので、近年整理をした時に沢山のお骨や生活用品が出てきましたので、一か所にまとめたそうです。

   

   斗南藩士追悼の碑

そして、斗南会津会の人達によって「斗南藩士追悼の碑」が建立されました。
この碑の横に、小さなお墓がありますが、裏には「会津藩士」と刻まれておりました。

この地域に点在している斗南藩士のお墓には、共通して「会津藩」「旧會藩」「元会津藩士」と刻まれているといいます。
会津の人たちの強烈な誇りを感じずにはおられません。

余談になりますが、秋篠宮紀子様の曽祖父は斗南藩士であったそうで、紀子様のご長男悠仁様は天皇継承権第3位という立場におられ、斗南藩士の地を引く天皇が誕生するかも知れません。

斗南藩権大参事の山川浩は、「みちのくの 斗南いかにと人問わば 神代のままの 国と答えよ」と言ったそうです。

それほどひどい過酷な場所だったのです。

会津の人たちは、釜臥山を磐梯山に見立て「斗南磐梯山」と呼び、そして陸奥湾を猪苗代湖に見て故郷を懐かしんだそうです。
夕闇迫る中、陸奥湾越しに釜臥山を見るとなるほど、そんな風に見えてくるから不思議です。
コメント (2)
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