tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

江戸散歩は深川界隈・・・

2017-05-22 18:13:30 | 江戸古地図散歩
5月22日(月)
今日も朝から気温が上がって、真夏日を記録したそうです。
午前中に歯医者さんの予約が入っておりましたので、済ませてからストレッチ教室に行って来ました。

今日は、昨日の江戸散歩の備忘録です。

   
   森下駅

集合場所です。
ぞくぞくと皆さん集まって来ましたが、立っているところが、海抜0.8mには驚きました。

今回は、深川界隈の散歩でしたので、あの辺りは、よく海抜0m地帯とか言われておりましたので、知ってはおりましたが、現実的に80cmなんて見るとビックリです。
ここがスタートでした。

   
   深川めしの有名店

散歩の途中で、ガイドさんが、「ここは深川めしの超有名店です。池波正太郎さんも足しげく通ったそうです。」の案内で、皆さん一斉にカメラを向けておりました。

   
   芭蕉通り

深川と云えば松尾芭蕉です。
やはり名前を冠にしたところがたくさんありました。ここの道もその一つです。

   
   芭蕉庵跡

芭蕉庵跡は「芭蕉稲荷神社」になっておりました。
芭蕉はこの辺りに住んでいたと云われているだけで、正確な場所は分からないそうです。

この芭蕉庵跡も、後の人達が、「ここだろう」と決めたそうです。

   
   芭蕉稲荷神社

後何十年もしたら、「ここが芭蕉庵跡で、芭蕉が住んでいた所です。」になると思います。

   
   清州橋

均整の取れた美しい橋で、隅田川にかかる橋の中で一番きれいな橋だそうです。

   
   芭蕉像

隅田川のきれいな流れと、両側に立つビル群の中に清州橋あります。
この景色を一望できる場所が、堤防の一角にありました。

この場所に、大きな芭蕉像があります。
説明によりますと、この芭蕉像は、時間になると自動的に動き海の方を向くそうです。

   
   清澄公園

紀伊国屋文左衛門の屋敷跡が関藩主久世家の下屋敷になり、明治を迎えて、豪商岩崎弥太郎の手に渡り、現在は都立の公園になり、人々の憩いの場になっております。

とにかく広い・・・

     
   霊巌寺

浄土宗寺院です。
白河藩主松平樂翁公の菩提寺として知られておりますが、江戸時代、江戸の出入り口に街道の守神として建造された、巨大なお地蔵さまが鎮座されている事でも知られております。

ここは水戸街道の始まりです。

   
   お地蔵さま

江戸六地蔵のひとつです。
旅人の安全を祈って、街道の出発点に建てられたそうです。

   
   松平樂翁公の墓

石の柵に囲われてお墓がありました。
松平樂翁公は、お茶の世界でも有名なお方です。

   
   紀伊国屋文左衛門の墓

大きな墓がありました。
一代で巨額な財を成し、死と共に露のように時代から消えてしまった、伝説的な豪商です。

   
   閻魔大王

お賽銭を入れると、大きな声でお説教を始めます。
そして、次の人が賽銭を入れると、違った事を言います。

一体何通りのお説教が入っているのでしょう。
叱られたくて、多くの人々がお参りに来るそうです。

   
   富岡八幡宮

相撲の碑がある事で有名な神社です。
横綱力士碑には、歴代の横綱の名前が刻んであるそうです。ちなみに、稀勢の里はまだだそうです。


   大関力士碑

昔は、横綱は無く、大関が一番強かったそうで、その名残がこの力士の碑だそうです。
ここまでが、今回の散歩でした。

時間通り、16時に到着し、ここで解散です。
江戸情緒を感じるにふさわしい、深川界隈の散歩でした。

この場所を切り開き、村を形成した「深川八郎右衛門さんの名前がそのまま地名に残っております」こんな説明で一日を締くくりました。



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芭蕉の旅立ち・・・

2017-05-21 21:00:03 | 江戸古地図散歩
5月21日(日)
朝から夏を予感させるほどの暑さでした。
今日は早起きをして、江戸散歩「江戸切絵図めぐり」という散歩に行って来ました。

   
   芭蕉像

今回は「深川散歩」でしたが、深川と云えば「松尾芭蕉」です。
芭蕉が棲んでいたという一角は、いろんなところに芭蕉が出てまいります。

芭蕉住んでいたと云われる場所は、今では社になっておりました。
写真は、芭蕉が今まさに旅に出かけようとしているところだそうです。

   
   お弁当

深川めしが有名ですが、このお弁当も、一応「深川めし弁当」だそうで、ちょこっと乗っておりました。
このお弁当を頂いて頑張って歩いて来ました。

自宅を出てから、19、500歩歩きました。
だらだら歩きでしたので、何となく疲れました。


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古地図を片手に・・・

2017-04-09 17:32:23 | 江戸古地図散歩
4月9日(日)
朝から小雨がぱらついておりました。
このお天気では予定していた行事は中止。

ぽっかり空いた1日ですので、先週行って来ました、「江戸切絵図めぐり」散歩を、備忘録にまとめて見る事にしました。
4月5日(水)、朝から快晴に恵まれ、江戸時代の絵図を元に歩こうという企画に参加して、日本橋界隈を歩いて来ました。

   
   日本橋魚河岸跡

案内板によりますと、日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚を荷揚げする「魚河岸」があり、江戸初期には、漁師たちが、将軍家や諸大名へ調達した残りの魚を売り始めたのが始まりでと書いてあります。

関東大震災後に今の築地に移るまで、300年間江戸から東京市民の台所を賄っていたことになるそうです。

   
   白木の井戸

江戸は元々海だったところを埋め立てて町を作り上げたので、井戸を掘っても真水が中々でなかったそうです。
日本橋の南側にあった白木屋は近江商人大村彦太郎の創業で、日本橋北側の越後屋と並ぶ呉服の大店でした。

その2代目彦太郎は正徳元年(1711)、日本橋周辺の水の悩みを解消するため店内に井戸を掘り始めますが、難工事の中、一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと言われています。

白木屋は火事の話が有名ですが、この井戸の事は初めて知りました。

   
   貨幣博物館

日本銀行の向い側に位置する「貨幣博物館」にも寄って見ました。
お金の歴史を知るには一番手っ取り早いところかも知れません。

売店で、おみやげ用に、一万円札を百円で売っておりました。

   
   一石橋迷子知らせ石標

江戸時代この辺りは盛り場であったため、多くの迷子や尋ね人が多かったそうで、当時迷子は町内が責任を持つことになっていたため、安政4年に近隣の名主たちが世話人となって一石橋に迷子探しの告知石碑が立てられたそうです。

正面に「満よひ子の志るべ」左に「たづぬる方」右に「志らす類方」と刻まれております。

   
   郵便発祥の地

ここ日本橋が、郵便発祥の地で、前島密の像や発祥の地のプレートがあります。

   
   三浦按針屋敷跡
ウィリアム・アダムスは、徳川家康から、三浦半島に領地を拝領し、それを苗字として、水先案内人ということで、按針と名乗り旗本に取り立てられたという事です。

   

この辺りは、今でも「按針通り」という名前で呼ばれております。

   
   福徳稲荷神社

高層ビルの真ん中に神社がありました。
日本橋界隈だけでも、神社や寺院が何か所かありましたが、どこもビルに囲まれております。それでも、それぞれの立場で凛とした姿で存在感を示しておりました。

この神社は、今回歩いた中では、比較的境内を広く持ち、参道が長々と続いておりました。

   
   時代の交差

どの辺りかは分かりませんが、「昭和通り」「江戸通り」が交差しておりました。

   
   小津和紙

江戸時代から360年続く和紙のお店です。
中で休ませていただきましたが、紙に関するあらゆるものを取り扱い、一日居ても飽きないほどの品ぞろいは凄かった・・・

   
   伝馬町牢敷跡

大通りに面したところに、「伝馬町牢敷跡」の碑が建っております。
伝馬町と云えば、江戸時代の牢屋屋敷を思い浮かべるでしょう。

   
   松陰終焉之地の碑

今は十思公園になっておりますが、片隅には「松陰終焉之地」碑があります。
この碑には吉田松陰が処刑される二日前に書き上げた「留魂録」に書いた辞世の歌が刻まれているそうです。

   
   忠魂碑

日露戦争の戦病没者を慰霊するための、陸軍大将乃木希典揮毫による「忠魂碑」や陸軍参謀総長鈴木荘六揮毫の「表忠碑」、「平和の礎」などの石碑型史跡が建てられています。

   
   伝馬町処刑場跡

伝馬町牢屋敷には牢屋敷の取締りを職とする牢屋役人・石出帯刀の役宅と、性別や身分に応じた牢獄があり、牢獄の中は囚人による、牢名主を頂点とする完全自治制が敷かれており、牢屋役人でさえ牢の中に権限の及ばない世界であったと言われています。

   
   桜

伝馬町牢屋敷の牢獄では、囚人が増え生活に支障をきたすようになると、牢獄内で「作造り」と呼ばれる口減らし、生活空間の確保のための私刑が横行したという。

「ツル」と呼ばれる所持金の持ち込みが無い者やいびきのうるさい者、牢内の規律を乱す者などがリンチの対象となり、殺害されても病死扱いで処理されたという事です。

   
   シャガ

また、案内人によると、牢屋役人の石出帯刀の身分は高い方ではなく、むしろ卑しい仕事として周りから低く見られておりましたが、実入りは良かったと云われていたそうです。

皆さんの??にこう答えました。
「石出帯刀は死刑を実行していた人ですから、その死体を売ったそうです。」・・・皆さんの??に、「刀の試し切りが多かったといわれております。

平和な時代になり、刀で人を切る事など出来なかった武士たちが、死体を買って密かに試し切りをしたといわれております。」

ここが本日の解散場所になりました。
10時ころから歩き始めて、4時半頃まで、だらだらと歩いておりましたので、何だか疲れました。

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日本橋界隈の古地図は・・・

2017-04-05 19:51:50 | 江戸古地図散歩
4月5日(水)
朝から青空が広がり、暖かな一日でした。
今日は朝早く出かけて、日本橋界隈を散歩してきました。

   
   江戸切絵図めぐり

タイトルに引かれて参加してしまいましたが、昨日一日植え替えで、立ったりしゃがんだりを何十回となく繰り替えしていたために、さすがに今日は腿の筋肉が歩くたびに痛くて仕方がありませんでした。

   
   日本橋

ここは東海道散歩でも集合場所になっておりましたので、二度目という事になりましたが、道路の向側とこちら側では全く風景が違う事を実感いたしました。

   
   道路元標地点標識

道路の起点標識は写真を撮れませんが、見上げればこんなのがありました。
東海道散歩の時は何も教えてくれなかったような気がしておりますが、私の記憶は定かではありません。

   
   桜並木

日本銀行の通りには、立派な桜並木がありました。
まだ木は若いので、これからが楽しみです。

あと十年もしたら桜の名所になるかもしれません。
同じような所をぐるぐる歩いているようで、東海道散歩よりずっと疲れました。
やはり昨日の植え替え仕事が応えているようです。

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