tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

涼やかなお茶席

2011-05-30 20:45:25 | 茶の湯
お茶席には、それぞれの雰囲気があります。重くのしかかって来るようなお茶席や、何となくのんびりとしてしまいそうなお茶席、そして爽やかな清涼感に包まれたお茶席などなど・・・。


皐月茶会の道具組です

お茶会は、大広間を使用しての大寄せの茶会から、四畳半やもっと小さなお茶室で2~3人だけを迎えての茶の湯本来の姿を求めた本格的なものまで色々とあります。現在はお茶会というと、大寄せの茶会が多く、よほどの機会でもなければ小人数のお茶会には巡り合いません。
それでも一生懸命勉強をしていれば必ずチャンスは巡って来るものです。

道元禅師の言葉の中に「正師に就かざれば学ばざるにしかず」とあります。学べる機会に出あった時は、人でも本でも自分以外はみんな師であると考えられる人に成りたいと常に思っております。


軸は「瑞雲遶石臺」(ずいうんせきだいをめぐる)

瑞雲は自分にとっては好運を意味します。石臺は石で出来た見張り台です。
人間誰にでも必ずチャンスがあるといいます。ただそれを掴めるか否かでだけなのです。見張り台にアンテナを高くしっかりと張り巡らして直ぐ近くまで来ている好運をがっちりとキャッチしなさい。こんな意味でしょう。
皆さんに幸運が訪れますように・・・。
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床の間を飾る花

2011-05-29 18:46:31 | 茶の湯
お茶室での楽しみは道具もさる事ながら、床の間に飾られた花ではないでしょうか。
先週お稽古場に飾られていた花です。


堂々たる伊賀耳付にオダマキ・タカノハススキ・ハコネウツギ

茶室で生あるものは花だけです。
昔からお茶に携わっている方々は、「茶花」と特別に呼びそれはそれは花を大切にしております。利休さんは、利休七則の中に「花は野にあるように」と云われております。茶席の花を活けるのには流儀花のように花型はありませんから、花の性質や形を見ながら活ける方のセンスで活ければ良いと思います。

昔から「花は足で活けよ」と云われておりますように、茶会などの折には、あちらの野、こちらの野と歩いて、その時の茶席に合うような花を探しなさいといった意味なのでしょうが、これもお茶の楽しみ方の一つだと思います。

しかし、近年は、電話一本でどんな花でも手に入る時代ですが、栽培された綺麗過ぎるほど綺麗な花よりも、形が多少悪くても、自然に咲いていた花の力強さはどんな床の間でも力負けしないで堂々としております。

茶花には昔から「禁花」といわれ、香りの強い花・あくどい色彩の花・名称を忌む花・季節無しの花・トゲのある花などがお茶席にはそぐわないとして「禁花」になっております。

こんな事を頭に入れながら床の間に飾られた花を拝見すると、お茶がもっともっと楽しくなると思います。
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滅びの美「敦盛」 小池義人著

2011-05-28 18:10:13 | 本棚の中から
今日も敦盛のことを書いてみます。
この本は、神戸の須磨寺を訪ねた折に購入した敦盛の本ですので敦盛に関する総てが書き込まれております。



NHKの大河ドラマの平家物語や源義経などが放送された頃は、悲劇の公達との同情を集め大勢の人が、敦盛の寺である須磨寺に押し寄せたそうです。

疑問に思ってた敦盛の笛ですが、平家物語では「小枝の笛」でしたが、世阿弥が謡曲の中で「青葉の笛」と表現したために両方の銘が錯綜してしまったようですが、江戸時代に歌舞伎で演じられるようになってから「青葉の笛」が多くの人々に浸透して定着したそうです。

ここ須磨寺には多くの文人が訪れてそれぞれの作品を残しております。

須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下やみ  芭蕉
笛の音に 波もより来る 須磨の秋   蕪村


一の谷にある敦盛の墓

最近では、新撰組の沖田総司が若い女性の間で人気があり、そのお墓には線香の絶えることが無いそうですが、来年はどうでしょう。人気が復活するでしょうか。
でも、清盛の物語ですから、敦盛は登場しないかも知れませんね。
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平敦盛と熊谷直実を少しだけ

2011-05-27 19:10:00 | 徒然日記
敦盛は、笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受け肌身離さず持っていたといわれております。


一の谷合戦図屏風より

源氏との合戦が始まると平家の一門として若干17歳で一の谷の合戦に参戦し、義経の奇襲攻撃を受け、海へと追い詰められてしまいます。
敦盛は騎馬で海上の船に逃げようとしましたが、敵将を探し求めていた熊谷直実に見つかり、「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止められます。敦盛は取って返えし直実と組討となり馬から組み落とされてしまい、すかさず直実は首を斬ろうと兜を上げると、我が子と同じ年頃の美しい若者であったため躊躇してしまいます。
直実は敦盛を助けようと名を尋ねますがが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えたので、直実は涙ながらに敦盛の首を切ったと伝えられております。


須磨寺 敦盛首塚

一方の熊谷直実は武蔵国熊谷郷(現・熊谷市)の武将で、石橋山の戦い以降、源頼朝の御家人となって、数々の戦さで名を上げ鎌倉幕府成立に大いに貢献したといわれております。

一の谷の合戦では、前記のとおり平家の若武者、平敦盛を打ち取りますが、この時のことが「平家物語」の中に描かれ、後に能や謡曲そして歌舞伎などで熊谷直実の無常観として上演され後世に名を残したといえます。しかし、この一件が直実の出家する意志を一段と強くしたのは間違いないようです。


一の谷合戦図屏風より

直実はもともと気性が荒く、直情型で反骨精神の強い直実は源頼朝の命令を拒否したため領地を没収されたり、挙句には領地問題の訴訟に際して頼朝の目前で髪を落として抗議して出家してしまうという逸話も残されております。

その後、法然上人に弟子入りし蓮生(れんせい)と名乗り、京都・東山で修行を重ね熱心な念仏信者となり、各地に寺院を開基建立しております。

直実の生家は、埼玉県熊谷市の熊谷寺となり熊谷一族が眠っております。







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床の間に飾られた道具

2011-05-26 20:18:55 | 道具は語る
大寄せのお茶会では、軸・香合・花を床の間に飾ります。茶席に入ってお客様は床の間を拝見して今日のお茶会の趣向に思いを巡らします。花と香合を取り合わせた仮想茶会を開いてみたいと思います。。



笛の香合ですが、この爽やかな時期によく使われます。それはある人物を想像させる重要な品であるからです。
遠く遥か昔の源平の合戦までさかのぼります。平家の公達「平敦盛」を思いださないでしょうか。

平敦盛は、一の谷合戦当時16歳、平家物語にも語られる際立った美少年であったといわれております。敦盛は笛の名手として知られ、祖父の忠盛(ただもり)が鳥羽院から賜った名笛「小枝(さえだ)」は、父の経盛(つねもり)へ、経盛から敦盛へと代々受け継がれておりました。敦盛は武士というより、平安朝の貴公子のような少年であったと伝えられております。

謡曲「敦盛」といわれて直ぐに思い出せる人は少ないかも知れませんが、織田信長が桶狭間出陣の前に「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり・・・」と謡い舞って出陣した時の一節が「敦盛」なのです。

謡曲「敦盛」は、一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は、無常を感じ出家して蓮生と改め、菩提を弔うために古戦場を尋ねると、敦盛の霊が草刈男の姿で現れ迎えてくれるのです。
蓮生法師はひたすら回向を続けながらまどろむと夢の中に、華やかな姿で現れた敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日々があった事や、戦いの有様を物語り、憎き敵を討とうとしますが、敵蓮生法師の日々の回向に感謝し、共に極楽往生の出来ることを喜びつつ消え去るという物語です。



床の間の花は「クマガイ草」です。名前の由来は、源平時代から、戦場で馬上の武士が疾走すると背中につけた布が膨らみ、その形が此花の唇弁に似ていることからの命名だそうです。その布は母衣といい、連絡将校のお役目を持った武将が背中に背負っていた大変名誉なことであったそうです。また、母衣は後からの矢を防いでいたといわれております。

笛の銘ですが、平家物語では「小枝」とありますが、伝えられているのは「青葉」ですが、やはり「青葉」といったほうが分かりやすいかと思います。さて、どちらなのでしょうか?

香合と花だけで、遠い古の物語を思い浮かべられるのも、お茶の楽しみのひとつかも知れません。
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お茶頂きましょう。

2011-05-25 19:25:07 | 茶の湯
お茶室での云うに云われぬ緊張感は座って見ないと分からないかも知れません。ピーンと張りつめた空気を割くような畳を摺る心地よい音でこれから始まるであろうお点前を感じ取ります。



茶道口にピタリと座り、「お薄を一服差し上げます」と凛とした声で挨拶をするご亭主。

水指を据え、お茶碗とお棗を置き合わせます。そして、建水を持って点前坐に座り、いよいよお点前が始まります。お点前する人も、お客様も一番緊張している時かも知れません。

茶筅とおしが始まる頃は、少しだけ緊張が和らぎますが、お点前をしている方はまだまだ緊張が続いているようです。

心を込めて点てたお茶が運ばれてきます。[お点前頂戴いたします」と挨拶をしてからおし頂きまが、この時、ほのかに香る、お抹茶を手にしている喜びは、何ものにも変え難いものがあります。

最近では、旅館などでもよくお抹茶が出されます。こんな時でも臆する事無く、自然にいただけるようにして置きたいものです。

最低限のルールさえ覚えれば十分です。そして、いつでも何処でも「お抹茶を出されたら頂く」こんな事を頭においておくと慌てないで済むかも知れません。

お茶室の緊張感を味わってみませんか!!


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漆の実のみのる国 藤沢周平著

2011-05-22 19:02:57 | 本棚の中から
今日は午前中の晴れ間は何処へやら、雨が降ったり止んだりと落ち着きの無い一日になってしまいました。完全オフの今日は、久しぶりに本棚の前で楽しみました。
今日は、米沢藩上杉家の騒動から建て直しまでを書いた「漆の実のみのる国 藤沢周平著」を紹介したいと思います。



主人公上杉治憲は、高鍋藩から養子として上杉家に入った人で、幼名は直丸といい後の上杉鷹山その人です。この頃の上杉家は貧窮に苦しみ雨が降るたびに雨漏りのため大騒ぎになったそうです。
それ程貧窮していた上杉家はご存知のとおり、謙信以来の名家で関が原の合戦前は、120万石の禄高があり豊臣家五大老でもありまました。それが、関が原の合戦の後30万石に減封され、更に60年後に藩主の急死により15万石に減らされてしまいましたが、家臣の数は120万石の時のままであったと伝えられております。苦しいはずです。

一汁一菜を用い、木綿着を着て平然としている治憲(後の上杉鷹山)にとって、「政治とは民を富まし、しあわせな日々の暮らしを与えることである。民の膏血(こうけつ)をしぼり取って、安楽と贅をあがない、権威を重々しく飾りたてるためにあるのではない。~本書より

今、日本は最大の国難とも云うべき大震災に見舞われ、政治の舵取りに大勢の被災された方々の将来が託されております。こんな時、トップは何をなすべきかを著者藤沢周平が本書をとうして語っているようでもあります。
読んでみたい一冊ではないでしょうか?
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お稽古の続き

2011-05-21 19:04:30 | 茶の湯
昨日はお薄のお稽古でしたので、今日はお濃茶のことを少しだけ書いて行きたいと思います。
お薄は文字どおり薄茶でごく普通のお抹茶をいいますが、お濃茶はそれなりの手順がありますので頂くのには少しの勉強が必要かと思います。



お濃茶は一碗に煉られたお茶を数名で飲み回します。利休さんが、キリスト教の儀式を取り入れたといわれておりますが、諸説があって定かではありません。

お濃茶にはこんな逸話があります。
豊臣秀吉の時代に、大阪城に諸大名を招いての茶会が開かれと時のこと、煉られたお濃茶が大谷吉継の前に運ばれました。大谷吉継はそのお茶をいただき下座の大名に渡すと、その大名は飲むふりをして次の大名に渡し、その大名も同じ事をして次の・・・。大谷吉継はその頃、多くの人が恐れ嫌った伝染病にかかっており、伝染を嫌った大名達は飲むふりをしていたのです。そして、そのお茶が石田三成に回ってくると、三成は臆する事無くそのお茶を飲み干したそうです。それに感動した大谷吉継は、関が原の合戦では最後まで三成を裏切らなかったという話が伝わっております。

古い話はさておいてお稽古です。



お濃茶を頂くとお拝見に移ります。
客の「お茶入・お茶杓・お仕覆の拝見を」で道具が出されます。

客 お茶入は
主 黄瀬戸肩衝きでございます。
客 お茶杓のお作は
主 耕月老師のお作でございます。
客 ご銘は
主 石清水でございます。
客 お裂地は
主 縞地梅鉢緞子でございます。
客 いずれも大変結構に拝見いたしました。

これでお稽古は終わりになります。
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お稽古

2011-05-20 19:14:58 | 茶の湯
今週は初夏を通り越して夏のような暑さが続いております。そんな中でのお稽古ですから、自然に道具を組むのに涼しさを求めてしいます。



水指は「荒磯・茶碗は柳に燕・棗は柳蒔絵」これで行こう!

お稽古が終ってから、先生の一言「茶碗とお棗が重なりました。お道具は重ならないようにしないと・・・」云われてビックリ、確かに重なっております。涼しさばかりに気を取られていたのか・・・。気を付けよう。

床間には「有馬篭に、タチバナソウ・チョウジソウ・ハコネウツギ」が飾られておりました。



タチバナソウは、「草橘」とも云われ、カガイモ科に属し関東以西の山林中に生え、夏に橘に似た白い花を咲かせます。チョウジソウは、漢字で書くと直ぐに分かりますが「丁字草」と書き、字のとおり花が「丁の字」に似ているところからの命名です。
日本産丁字草は絶滅種に指定されているとの事です。

今まで日本の花だとばかり思っておりましたが、最近あちこちで見かける丁字草は、殆ど北米産で、キョウチクトウ科チョウジソウ属の外来種だと知りビックリです。

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禅語 「巌松無心風来吟」

2011-05-19 18:33:01 | 禅語今昔
爽やかなこの季節になると、お茶席には「風」を現した掛け物が多くなります。前回の禅語でも「薫風自南来」と風を感じさせてくれました。



「巌松無心風来吟」は、そのまま読んで行けば良く「巌松無心風来たって吟ず」と分かりやすい禅語です。
巌谷の松に風が吹き来て、松籟の音が、時には激しく、時には優しく梢々と響く様を表しております。松はもとより歌う意志があるわけではなく、風も歌わせようと吹いているわけではありません。その場の機縁に応じているだけであります。

松には、歌おうとか人に褒められようとかという、意識も作為もなく、風が吹いてくれば自ずから鳴るだけである。これをそのまま人間に置き換えれば、このような自然の働き、無作無心こそが美しい人間性を現すものである。といったところでしょうか。

最近のお茶席では、季節感を大切にいたします。
春先に掛けられていれば、春を予感させてくれるでしょうし、今頃の季節でしたら、爽やかな風を感じます。夏には涼しさを、秋にはこれからの来るでろう冬を思い身が引き締まってくるかも知れません。そして、冬には、巌に立つ一本の孤高の松が北風に耐えながら立ている様など、それぞれが感じてみれば面白いのではないでしょうか。

お茶席の禅語は、拝見した人が感じることが大切だと思います。
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