3月31日(水)
3月26日 第1日目
春を通り越したような暖かな一日でした。
今日は先日歩いてきた、東海道五十三次散歩の備忘録です。
亀山城
今回は、この亀山城下がスタート地点です。
亀山城は、街道の重要な位置ありますから譜代大名が配置されて、何人かの大名に変わっておりますが、石川氏が最後の殿様となって明治を迎えております。
亀山宿
歩きだすとすぐに、こんなお屋敷が現れました。
国の有形文化財に指定されている森家の住宅です。
今でも子孫が住んでいるそうですが、思っただけで不自由な生活をしているのではないかと思ってしまいます。
野村一里塚
歩き始めて最初に出会った一里塚で、日本橋から105里目になります。
大正時代に南側は撤去されてしまい北側の塚のみが現存しており、塚には、高さ20mの椋の木が目印として立っております。
樹齢400年と云われております。
マンホール
亀山市のマンホールで、高々と城が画かれております。
布気皇館太神社
垂仁天皇御代の創建というから何とも古い社ですが、その時代、時代にほんろうされて色々な名称で呼ばれおりましたが村人たちの拠り所になっておりました。
明治になってから、近郷の小社を合祀して現在の神社名になったそうです。
太岡寺畷
太岡寺畷は、鈴鹿川の左岸に2k程続くところで、当時は松並木だったそうですが、今は桜が植えられて、私たちが歩いた時は、チラホラと咲き始めたばかりでした。
関宿
太岡寺畷が終わると、この大きな看板が見に入ります。
いよいよ待望の関宿です。
関宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒、問屋場1軒の宿場でおよそ2kにわたり、民家が軒を連ねております。
古来、都を守る日本三関のひとつに、「鈴鹿関」が数えられていたのが、関の地名になったといわれております。
関宿は、鈴鹿峠を控え東の追分は、伊勢別街道と大和街道の分岐点として重要な宿場でもあり、旅人も大名も城下町の亀山宿での宿泊を避けて関宿へ宿を取ったと云われております。
名物は、火縄で旅人は煙草の火に使うために買い求めたそうです。
そして、もう一つの名物が、「関の戸」といわれるお菓子で、江戸時代から朝廷に献上されていたという銘菓です。
この宿が、こうして忘れ去られたようなまま残ったのは、鉄道の開通により人や物の移動が無くなった事と国道一号線が、宿の裏側を通ったために古い家並みがそっくり残ってしまったという事です。
昭和59年荷「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、電線などは地中に埋設され東海道随一の宿場の景観を残しております。
関の小萬のもたれ松
私達は誰ひとり知りませんでしたが、この地区では有名な話らしく寄りかかった松まで標識が建っております。
小萬という女性が見事に敵討ちをしたという話です。
マンホール
関宿は、旅姿のマンホールです。
東の追分
鳥居が建っているところが、伊勢別街道との追分です。
道標には、「是より外宮江十五里」「左江戸道」「是よりいせみち」と刻んでありました。
関の一里塚
鳥居近くに、日本橋から106里目の一里塚があります。
関宿
電柱やコンビニなど、現代の様相は全く排除して、映画のセットのような宿場ですが、今では、このノスタルジックの雰囲気を味わいたく、大勢の人々が訪れているそうです。
この宿の写真を何枚撮った事か・・・
関神社
この地を治めていた関氏の祖先が、熊野神社から分霊し勧請したので、江戸時代は、「熊野三所大権現」と呼んでいたそうです。
そして、この神社の夏祭りの山車が最盛期には16台も出て狭い宿場は大混雑してしまい、この時の混雑ぶりを「これ以上は無理・限度だ」という意味を込めて、「関の山」という語源になったと云われております。
銀行
地元の銀行です。
もちろんお客様が出入りしており、宿の通りに溶け込んだような銀行です。
銀行なども、こうし建物での営業ですからすごい事だと思います。
関宿脇本陣跡
川北本陣の川北家は、問屋場も兼ねた宿の有力者で359坪という大きな建物であったそうです。明治になり、その役目も終わり、川北家の門は、延命寺の山門として移築されております。
これほど大きな建物は、個人ではとても持ち切れなかったという事です。
宿を上から
宿全体を上から眺められる場所がありました。
二階に上がるとベランダのように開けたところがあり、そこからの眺めが写真の通りです。
何とも情緒有る風景だと思います。
ここからの写真は、パンフレットによく掲載されているようです。
旅人宿
旅人宿・石垣屋という赤い幕が張られた現代の旅籠で近づいて見ると、一泊素泊まり2.500円と書いてありました。
外国の方や若者が利用しているという事です。
郵便局
郵便局です。
こちらも現役の郵便局で、お客様が入って行きました。
関の戸本舗深川屋
江戸初期から続く街道名物のお菓子屋さんです。
服部重保が考案した「関の戸」は、赤小豆の漉し飴を求肥皮で包み和三盆をまぶした上品なお菓子です。江戸時代を通じて朝廷に献上されたので、天保元年に上皇様より「従三位陸奥大掾」の官位を授かったというお菓子屋さんです。
建物は、天明四年といいますから237年も前のものです。
看板(日本橋から)
瓦屋根の付いた庵看板ですが、私達のように江戸から来た旅人が目にする看板です。
「関の戸」」と優しい字で書いてあります。
看板(京から)
反対側の看板は、京からの旅人が目にする看板です。
漢字で「関能戸」と書かれておりますが、これは、店から出た旅人が方向を間違わないためという事ですが、こっそりと教えてくれ事があり、私は納得しましたがここに書く事はできません。
旅籠玉谷歴史資料館資料館
大旅館だった玉屋が資料館になっております。
等身大の人形が私達を迎えてくれました。
旅籠の部屋
当時一般的な旅人の部屋を再現しております、
「関で泊まるなら玉屋か鶴屋」と唄われていた大きな旅籠でしたが、今は資料館になっており、当時の風俗などを後世に伝えるべく、江戸時代の旅籠の雰囲気を演出して訪れる人達を楽しませております。
郵便ポスト
道々にあるポストですが、こんな形をしております。
「書状集箱」と書かれて、郵便ポストです。
こうして、宿全体の雰囲気を壊さないように、それぞれが工夫をしているのが良く解ります。
高札場
宿場にはどこでもある高札場です。
ここは復元されたものですが、この高札場にお上からのお達しなどが掲げられ周知されるようにしたそうです。
福蔵寺
織田信長の三男信孝の菩提寺。
本能寺の変では、難を逃れた信孝が、父信長の菩提を弔うための寺として建立された寺です。
後、後継を巡って秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れて、知多半島の野間で自害させられております。
家臣大塚俄左衛門により関の福蔵寺に葬られたといわれておりますが、秀吉のとがめを恐れたために無名の五輪塔にしたと伝わっており、現在には痕跡が残っておらず、信孝400年忌に供養塔を機に建立したそうです。
織田信孝供養塔
信孝辞世の句「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」という凄まじい句を残しております。
位牌は、本堂に安置されているそうです。
小萬の墓
同じお寺に、関では有名な小萬の墓がありました。
関宿に入るとすぐに、「小萬のもたれ松」がありましたが、敵討ちを成就した小萬がここに葬られておりました。
「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」と唄われていたほど、仇を探して亀山宿を歩いたといわれております。
その小萬は見事に仇討ちをしたといいます。
地蔵院
日本最古の地蔵菩薩で知られる関の地蔵院です。
「関の地蔵さんに振袖きせて、奈良の大仏婿に取る・・・」こんな俗謡でも名高い地蔵院は、天平13年に天然痘に苦しむ人々を救済するために地蔵菩薩を安置したと伝えられております。
江戸中期の元禄10年に、本堂再建のため江戸本所回向院で関の地蔵尊が出開帳されると、回向院の外まで人で埋まるほどの大盛況だったという事です。
特に、五代将軍綱吉の母桂昌院が、関の地蔵尊を信仰して綱吉が生まれたといわれており、そんないわれから、本堂は綱吉が再建したと伝えられております。
境内の本堂、鐘楼、愛染堂の三棟は国の重要文化財に指定されております。
西の追分
関宿を進むと、西の追分になります。
西の追分は、大和街道との別れ道で奈良に都があった頃、伊勢へと繋がる街道でありました。
髭題目道標
髭文字は日蓮宗の特徴ある文字の事で、ここに刑場があったので死者の供養のために元禄時代に建立されたと云われております。
「ひだりはいがやまとみち」と刻まれております。
西の入口
関宿の西の木戸があったところで、ここまでが関の宿でした。
この先は、ダラダラとした登りの坂道がが鈴鹿峠へと続いております。
いよいよ、鈴鹿峠です。
第一日目 歩いた距離は11.4k 17.159歩でした。