tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

中山道・安中宿から松井田宿を歩く・・・

2021-04-24 17:28:58 | 中山道六十九次散歩

4月24日(土)

初夏を思わせる穏やかな一日でした。

今日は稽古がありませんでしたので、先日の中山道街道歩きの備忘録です。

中山道原市から松井田宿まです。

4月10日

安中宿から松井田宿まで

良く晴れた街道歩き日和に、安中宿から松井田宿まで歩いて来ました。

出発は10時という事でしたが、バスが遅れてしまったので10時50分の歩き出しとなりました。

八本木延命地蔵

広場で毎回の事で、全員で準備体操をしてから出発ですが、歩き出すとすぐに八本木延命地蔵に到着です。

地域の方々に護られて450年という歴史のある地蔵堂で、日本三地蔵の一つであるといわれております。

日本三地蔵とは、新発田、壬生そして、八本木のお地蔵さまを云うそうです。

お地蔵さま

地域の方々に護られて・・・という事が、お地蔵さまから伝わって来るような柔和な御姿です。

堂内の地蔵菩薩は、頭は円頂(剃った坊主頭)で袈裟と衣の僧侶の姿をしております。秘仏と云われ御開帳は100年ごとと云われております。

地蔵尊は、役1mの高さで室町時代に造像されたと伝えられております。

八本木立場茶屋

八本木立場茶屋は、山田卯兵衛家が代々茶屋本陣を勤めていたそうで、郵便受けなどがある所を見ると、今でもご子孫が住んでいるのでしょうか・・・

一里塚

八本木延命地蔵から歩き出すとすぐに浅間山を望遠できる広々としたところがありますが、このあたりに一里塚があったいと云われていりますが、今がそんな痕跡は何も残っておりません。

雪の解け始めた浅間山が遠くに見えます。

道祖神

歩いているとこうした道祖神に出会います。

石に刻まれたものや石で作った小さな社など、その地方の実情に合わせて造られているのだと思います。

日枝神社

いつ頃の創建かは分からないといわれ、元々は、「山王社」だったそうですが、明治になってから、近隣の白山神社や諏訪神社を統合して、日枝神社に改称されたと云われております。

鳥居をくぐり、社殿に向かう入口に神楽殿がありますので、その下をくぐって本殿に向かう形式が変わっております。

自性寺

真言宗の寺院で、開山開基は不明ということですが、保延元年の開基とする寺伝があるといいます。

本尊は、真言宗ですので大日如来をまつっております。

宝篋印塔

自性寺山門を入ると左側に二基ならんでおります。

向かって左側の塔は、応永3年の建立で、塔身四面に月輪が刻まれており、右側の塔は、嘉吉3年の建立した塔で、基礎に「一結諸衆」と刻まれております。

どちらも関東形式の宝篋印塔だそうです。

妙義道常夜燈

文化5年に、郷原村の妙義山講が建立したもので、妙義神社への参拝者への道しるべであったそうです。

台座には、「是より妙義道」と刻まれているそうですが、近くまで案内してくれなかった・・・

車の往来が激しく、向こう側に渡れなかったのです。

旧中山道

この道は昔のままだそうですが、簡易舗装されておりました。

竹や木々が覆いかぶさって来るよう道でした。

旧中山道

街道脇の放置された田んぼです。

田んぼの向こうは、人の手が入っていない雑木林が続いておりました。

街道歩きの人達はウキウキしながら歩いておりましたが、ここで暮らしている人々はどうなのでしょう。

お墓

どなたのお墓なのか、街道脇に並んでおりました。

花が添えられておりましたから、子孫の方がおられるのでしょうか・・・

妙義山望遠

松井田宿へ入る手前で妙義山や里山の春を見ることができます。

きれいな場所だった・・・

松井田宿

松井田宿ももうすぐです。

松井田宿

松井田宿へ入ったところです。

この宿は、信州各藩の米が送られて来て、江戸廻米の中継点となっておりました。

廻米の半分は、松井田宿の米問屋に売却され、残りの米は牛馬で倉賀野宿の河岸へ運ばれて船で江戸へと輸送されていたそうです。

そんなところから、松井田宿は「米宿」と呼ばれていたといいます。

本陣は2軒、脇本陣2軒、旅籠4軒あったそうです。

本陣跡は信用組合になっております。

崇徳寺

貞松山崇徳寺は、臨済宗の寺院ですが、その開基がすごい人で、室町幕府を開いた足利尊氏だそうです。暦応3年に足利尊氏が開いた寺院で、三門に掲げられた山号は、どなたが揮毫されたものなのでしょう。

気になります。

古い家

こうした古い家がポツンポツンとありますが、宿場町の雰囲気は充分に残っております。

道路元標

松井田町道路元票が建っておりました。

昔のまま

歩いているとこうした古い民家に出会います。

街道歩きで一番嬉しい時かも知れません。

不動寺

真言宗の寺院で、寛元岩年に慈猛上人によって開山されたお寺さんです。

戦国時代には、竹田信玄から寺領寄進され、江戸時代には、三代将軍家光が帰依が篤かったため、脇寺9ヶ寺、末寺8ヶ寺という大寺院だったそうです。

ご本尊は千手観世音菩薩ですが、鎌倉時代に作られたという不動明王坐像が有名で、通称は松井田不動尊と云われております。

石塔婆

三門の手前左側に観応3年の石塔婆三基が祀られており、安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字が刻まれており、県重文に指定されております。

北朝の年号が刻まれております。

本照寺

本照寺は、親鸞聖人の旧跡と伝えられております。

親鸞聖人が越後国から京へ向かう途中、碓氷峠を超えてこの地を訪れた時に、師の法然上人の死を聴かされて、落胆のあまり吐血したといわれております。

師のいない京に行っても意味がないとして、ここから常陸国に向かったと云われております。

安永2に年に、親鸞聖人の旧跡として御堂を建立し阿弥陀如来像を安置したのが、この寺の創建と伝えられております。

松井田八幡宮

建久8年に源頼朝が立ち寄ったという記録が残っているといいます。

江戸時代には、三代将軍家光の帰依もあり、立派な本殿が残されており、拝殿周辺に敷きつめられた敷石は、特別な技巧が施されており一見の価値あり・・・

六角堂

境内には、小さな六角堂があり、中には聖徳太子立像が安置されております。

法隆寺のミニチュア版なのでしょうか・・・・

聖徳太子像

お堂の中に祀られておりました。

鍵もなく盗難が気になって仕方がありませんが、そんな罰当たりはいないでしょうが、心配です。

補陀寺

曹洞宗の寺院で、応永年間の創建と云われておりますが、正確なことは分からないそうです。

歴代の領主から庇護され、山門に「関左邦窟」という、関東一の道場であるという額が掲げられているお寺さんです。

創建が分からないほど、領主が変わり戦火に巻き込まれていたという、上州特有の歴史を垣間見ることができます。

一里塚

今回初めて一里塚という標識が建っておりました。

江戸日本橋より32里目の漆原一里塚です。

明治20年台までは、その姿はとどめておりていたそうです。

今は、この標識のみです。

茶屋本陣

茶屋本陣跡が今回のゴールです。

歩いた歩数は23,600歩

歩いた距離は16k

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道「高崎宿から板鼻宿」まで歩く・・・

2020-12-14 17:20:13 | 中山道六十九次散歩

12月14日(月)

朝から気温が上がらず師走らしいお天気でした。

今日は、忘れないうちに先日歩いた中山道の備忘録です。

当日は、10時に集合して歩きだしました。

榛名草津道追分

最初に出会ったのは、自然石に彫られた道標でした。

加工された石ではないという、素朴な道標で、古街道を彷彿させてくれます。

八坂神社の下豊岡道標

江戸末期に草津温泉などの案内を目的に建立されたといわれ、正面には「榛名山 草津温泉 かわなか かわらゆ温泉 はとゆ」右側には、「神山三里 三ノ蔵五里半 大戸九り半」左側に「安中 松井田 横川」と彫られておりました。

若宮八幡宮

平安末期に源頼家、義家親子が奥州の安倍氏の反乱を制圧する途中に戦勝祈願のために建立したと伝えられております。江戸時代には新門辰五郎、そして、明治になって乃木希典大将などが参拝され一躍有名になり、参拝の人々でにぎわったと伝えられております。

達磨

高崎だるまは有名ですが、この地域では達磨作りが盛んで、高崎だるまのほとんどが生産されております。

日当たりの良いと頃に達磨さんが干されておりました。

飯野茶屋本陣

茶屋本陣というのは、茶屋とあるように、大名の参勤交代や公卿の昼食や休憩するための使われた施設をいいます。

群馬県指定文化財の碑

ここは、代々茶本陣に携わっていた飯野家の屋敷で、母屋、座敷、蔵、味噌蔵大門、等があった広大な広さがあったそうです。

無料開放しておりますが、要予約だそうです。

中山道の道標

中山道を歩いていると、ところどころに案内道標が建っております。

木製の道標で中々味わいがあっていいものです。

藤塚の一里塚

江戸日本橋から28番目の一里塚です。

復元整備されたものですが、旧状をとどめておりました。

一里塚

国道が拡張整備された時に、反対側の一里塚は取り払われてしまったといわれております。

樹齢400年といわれるムクノキが存在感を示しております。

冬ですので全景が見られました。

達磨屋さん

途中達磨の製造販売をしている工房に立ち寄って、達磨の歴史を聞いたりしました。

同行の方が達磨を買われておりましたが、ずっと大きな袋を下げておりました。

寒念仏橋供養塔

板鼻宿の念仏講の人達が、寒念仏で集めた浄財で石橋を改修したので寒念仏橋と名付けられたといわれておりますが、この碑だけで橋は無かった。

川の流れが変わったためだそうです。

 

八幡八幡宮大鳥居

地名にもなっております八幡神宮の大鳥居です。

ここから真っすぐのところに八幡様が鎮座されております。

八幡八幡宮本殿

村上天皇の時代957年荷、石清水八幡宮を勧請して建立されたと伝えられております。

古くから、一国一社の八幡宮として尊崇されておりました。

代々源氏の崇敬が深く、源頼家、義家は奥州征伐のおり、必勝祈願し戦勝の結果、社殿を改築されたと伝わっております。

見事な彫刻

建物は神仏混合でそこかしこに仏教様式が見られるのも面白いと思いました。

社殿の周りには、見事な彫刻が巡らせております。

上州では、剣術道場が神社に額を奉納し掲げることが名誉なことといわれ、各道場が競って額を奉納したといわれておりました。

念流の額です。

この額と相対するように、一刀流の額が掲げてありました。

双体道祖神

歩きながら出会った双体道祖神です。

一時期あちこちの道祖神が盗難にあい、有るべきとこら以外から見つかり大騒ぎになりましたが、第三者からの購入という事でどうにもならなかったという話をよく聞きました。

お地蔵さま

地域の方々から大事にされているお地蔵様です。

榛名道標

「やわたみち」と刻まれており、文政年間の建立されております。

「やわたみち」は、上野国一宮八幡宮をさしております。

細かく

ちなみに右側は、「はるな、くさつ、ゆがわら、さわたり、・・・」とあります。

今でも観光の名所となっているところが案内されております。

板鼻宿

江戸から14番目の宿場で、本陣1、脇本陣1、旅籠54軒、そして人口1422人だったという記録が残っており、中山道上州7宿の中で最大の宿場だったそうです。

碓氷川、九十九川、秋間川の合流点で河川交通の集散地でもあったと云われております

マンホール

安中市は梅の一大産地ですので、梅がデザインされております。

長傳寺

正式な名称は、八幡山龍雲院長傳寺といいます。

彫刻の寺として有名で、この日は住職が丁寧に説明をしてくれました。

天文年間に高崎の八幡宮境内に開基された寺でしたが、八幡宮が戦のために焼失した際に、ここ板鼻宿に移転再建されたといいます。

本道の彫刻が素晴らしく、しばらく見ていても飽きない・・・

板鼻宿本陣跡の碑

海音寺潮五郎揮毫した碑です。

こことのご縁があったのでしょうか?

板鼻宿本陣跡

本陣は、建坪が167坪という広さで、木島家が勤めており、現在は板鼻公民館になっておりました。

本陣書院

書院が残されており、皇女和宮が江戸へ下向途中、文久元年1月10日の一夜をこの本陣で過ごされたのです。

書院内部(安中市HPより)

書院は、「皇女和宮資料館」として保存されており、使用した草履や料理用具、そして行列の様子を描いた巻物などが保存されております。

和宮の行列は、京都から1万人、江戸から1万5千人、人足4千人という膨大な数で、50kの長さになったといわれております。

板鼻堰

板鼻堰とは、板鼻地区から始まる全長15k野用水路の事で、今から400年前に造られたといいます。

板鼻宿の中心を流れる板鼻堰は、今でも豊かな水の流れと情緒豊かな風景は宿を訪れる人々を楽しませくれます。

生活用水

家々も足場を作り生活の上で大切な水場として利用していたそうです。

ホッとさせてくれる風景です。

鷹之巣橋

この橋をゴール間近な夕暮れにわたりました。

江戸時代には、橋は架かってなく夏は川越人足で渡り、冬は板の仮橋で渡ったそうです。

渡し跡があるそうですが、今回はスルー

仲宿一里塚

江戸日本橋から29番目の一里塚です。

最近建てられたようで、まだ新しいものでした。

最近の街道歩きブームで行政も動き出したようです。

板鼻庚申塔

上州一之宮への道標を兼ねた庚申塔で、享和2年建立されたものです。

「従是 一宮、大日街道」と記されております。

一宮とは、富岡に鎮座する貫前神社の事です。

ここから富岡は近いか・・・・

久芳橋

今回のゴールです。

この橋を渡ると安中宿です。

次回は、ここから出発です。

歩いた距離 13.9k

歩いた歩数 20.207歩

よく歩きました。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道「倉賀野宿から高崎宿」まで

2020-11-16 17:02:20 | 中山道六十九次散歩

11月16日(月)

今日の日中の気温は10月上旬だったそうです。

こうした気温の変化は、年齢を重ねた人たちにとっては辛いところがあります。

先日歩いてきた「中山道六十九次」備忘録をまとめたいと思います。

11月14日土曜日に中山道を歩いて来ました。

本陣跡

ここが集合場所になっておりました。

倉賀野本陣跡ですが、今は、ドラックストアーなっております。

倉賀野城址

鎌倉時代、武蔵国の児玉党が倉賀野氏を名乗り活動を始め、その一党の子孫が倉賀野城を築いたと云われております。

その後、戦国時代になると、上杉氏、武田氏、北条氏の勢力の狭間で苦しんでおりましたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城し降伏と共に廃城となりました。

今は、かりがね公園となり市民の憩いの場になっております。

倉賀野城址から

城跡のすぐ下を烏川が流れ、よき防衛になったと思われますが、景色としても素晴らしい眺めとなっておりました。

倉賀野神社

倉賀野神社は、倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守で、旧社銘は「飯玉宮」といいましたが、明治になって国策として、近隣数社を合祀して倉賀野神社となりました。

この日は七五三の参拝が多く、小さな花嫁さんを見ているようでした。

倉賀野宿

倉賀野宿街道ですが、今は国道18号になっております。

享和年間の記録によると、家数453軒、旅籠64軒、人口2156人だったそうです。

安楽寺

このお寺は、天台宗延暦寺の末寺で「七仏薬師」の名で知られております。

天平9年(737)の開基という伝承あるお寺さんです。

古墳

寺の裏には円墳があり、「安楽寺古墳」と呼ばれております。

気持ちが良いほどよく掃除されたお寺でお参りしてホットいたしました。

一里塚

倉賀野一里塚で、日本橋から25番目です。

今はそれらしい物は何一つ残っておらず、ここらしいという程のものだそうです。

浅間山古墳

典型的な前方後円墳で、千数百年前の豪族の墓といわれておりますが不明・・・

四世紀末の築造とされており、全長172mという巨大なもので二重の濠を巡らした県内で二番目の大きさを誇っております。

板碑

板碑が一か所に集められておりました。

多分あちこちに放置されていた板碑を集めてきたもののようですが、あと数年たつと時代が付いて、それらしくなるかも知れません。

古街道

私はいつも最後尾を歩いておりますので、皆さんの後を歩いておりますが、突然先頭が右に曲がりましたのでそのまま付いて行くと、このまま何方かの家に入って行ってしまうのではと思うほどの道でした。

何と旧中山道だそうです。

こんなに狭かったんだ・・・

高崎宿

高崎宿は、慶長三年に井伊直政が箕輪から高崎に城を移したときから城下町と宿場町の双方を担う役割を持って生まれました。

家数837軒、旅籠15軒、人口3235人と記録が残っております。

江戸時代「お江戸みたけりゃ、高崎田町」と唄われたほどの賑わいだったそうです。

高崎宿に入りしばらく歩くと、あら町交差点になりました。

この交差点近くに「諏訪神社」という小さな祠がありましたが、これが、小さいながら立派な社を持って風格のある神社でした。

諏訪神社・・・これからずっと先に本社本殿を訪ねるはずです。

市役所展望台

今回の昼食は、高崎市役所展望台のレストランでした。

個室のような部屋で静かに昼食を頂いて、食後には、上毛三山や浅間山を望む大パノラマです。

ひと時のくつろぎを得て、再び歩き始めました。

高崎城址

高崎城は、井伊直正により築城され、甲信からの防衛の要としての役割を持っておりました。

今は城址公園として市民の憩いの場になっております。

城の遺構はほとんどがありませんでしたが、昭和になって乾門が作られ城址公園の面目躍如と云ったところでです。

大信寺

大信寺は、元亀元年建立の浄土宗の寺院で、街の真ん中にありビルに取り囲まれております。

ここだけが、空が広がって何となく不思議な光景です。

大信寺

大信寺は、「駿河大納言徳川忠長」といえば、歴史好きな人は直ぐに解ると思います。

二代将軍秀忠の次男に生まれながら、言行粗暴、大逆不遜という罪でここ高崎城に幽閉蟄居となりました。

時の城主安藤重長が何度も赦免を願い出るも認められずに、寛永10年に切腹を命じられ28歳の若さでこの世を去った人物です。

死後43年たった延宝3年の4代将軍家綱の時に免罪されようやく墓石を建立することができたといいます。

徳川忠長の墓

立派なお墓でしたが、罪を得て実の兄から切腹という命を受けて、どんな気持ちでいたことでしょう。

恵徳寺入口

曹洞宗の寺院

寺の由緒によると、井伊直正の伯母の菩提を弔うために建立しましたが、高崎に城を移すことになり、この寺も一緒に移築されたといいます。

開山は永潭禅師によるもので、井伊直政に高崎という地名にするように進言したお坊さんでもあります。

恵徳寺

当時の高崎は、和田といわれておりましたが、直政が「和田を松崎に変えたいが・・・」というと、禅師は「松は枯れることがあるが、高さには限りがないので高崎はいかが・・・」と進言して高崎という地名が誕生した事になります。

高崎神社

高崎神社は、高崎になる前の和田城主が、熊野権現を勧進して「熊野神社」として創建されました。

その後、井伊家がここ高崎に入ると、大々的な町作りがなされ、その時に現在の地に遷座されましたが、明治になって、周辺の36社を合祀して高崎神社と改称されたといいます。

ここも、七五三のお宮参りで賑わっておりました。

長松寺

曹洞宗寺院で、開山されたと当時は臨済宗だったそうですが後に改宗されました。

享保11年に全焼しましたが、寛永元年に再建されたそうです。

この寺には、徳川忠長の切腹の間が高崎城から移築されて客殿になっているそうですが、今回は寄って貰えなかった・・・

中山道

常磐町問ところですが、何となく往時の面影を残しております。

中山道標識

道々にこうした道標が出ておりますので、迷わずに進めると思います。

君が代橋親柱

君が代橋という名前は、明治11年9月に明治天皇が北陸御行幸の際に、馬車で木造の橋を渡られた事を記念して命名されたといいます。

この親柱は、昭和6年に木の橋から鉄橋に架け替えられる時のものですが、昭和53年より三層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新たに架け替えられ、その際に親柱だけ記念に移築されたものです。

君が代橋全景

中山道からこの君が代橋に出るのは少し解りづらいと思います。

知らないで歩いていると、車用の道を歩いてしまいそうですので、あそこは、もう少しこまやかな案内板があると親切だと思います。

君が代橋

君が代橋の中ほどです。

強烈な西日の逆光で写真も良く撮れませんが、もうすぐゴールです。

万日堂

このお堂は、かっては中山道に面しておりましたが、昭和56年に君が代橋が改良工事のために現在地に移転されました。

万日堂のご本尊は見返り阿弥陀仏像で、檜の寄木作りになっております。

京都の永観堂の見返り阿弥陀仏が有名ですが、この高崎にも見返り阿弥陀仏があったのです。

永観律師が諸国を行道念仏をしておられた時に、つい眠くなって立ち止まってしまったところ、本尊が「永観遅いぞ!」と後ろを振り返ったそうです。

そのお姿こそが、見返り阿弥陀仏としてここに祀られているそうです。

 

おもしろい 夢見る顔や 涅槃物   鳥酔

という句碑があります。

烏川の川原

ここ君が代橋が今回のゴールです。

夕日にススキが光るように輝いておりました。

中山道はまだまだ続きます。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/11/11

2020-11-11 14:57:00 | 中山道六十九次散歩
10月28日(日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道「新町宿から倉賀野宿」まで・・・

2020-11-09 15:58:19 | 中山道六十九次散歩

11月9日(月)

今日も朝から秋の日差しがいっぱいです。

昨日の忙しさから一転して、午前中の腰痛治療だけでしたので、先日の「中山道街道歩き」の備忘録をまとめてみました。

新町駅

前回のゴール地点新町駅に10時の集合でした。

ここ新町宿から、今回ゴールとなります倉賀野宿を目指します。

新町宿は、慶安4年に落合村と笛木村が伝馬役を命じられて宿場が成立したといいます。

江戸日本橋から11番目の宿場です。

明治天皇新町行在所

明治天皇が明治11年に、北陸各地の御巡幸

の折、新町の屑糸紡績所へ行幸され、9月2日新町に宿泊することになり、従来の本陣では警備上問題があるとして、急遽宿泊所を新築することが決まったといいます。

決まったが、資金がなく一全町からの寄付や県からの借金で建築されたと云います。

現在は、3月のひな祭りのメーン会場として使われております。

於菊稲荷神社

元は普通の「稲荷神社」で、神流川合戦の際に白い狐が現れて、北条氏を勝利に導いたという御神徳に感謝して社を建立したと云われておりましたが、江戸時代になると、大黒屋という旅籠のお菊という女性が重い病に臥せり、この神社に平癒祈願をしたところ見る見るうちに元気になったそうです。

その後、お菊は神社の巫女になり様々な人々のお役に立ったとところから「於菊稲荷」と云われるようになったと伝えられております。

新町宿

宿の通りです。

今ではバイパスが通っているため静かな裏街道になっております。

高瀬屋跡

文化7年に俳人小林一茶が信州に帰る途中にこの宿に泊まったそうですが、川留めに合い、一茶の「七番日記」に、すやすやと寝て居たら、常夜燈建設費として乏しい懐から銭12文を無理やり寄付させられたと記されております。(12文は500円くらい)

その時の句が「手枕や 小言いうても 来る蛍」と書かれています。

寄付など嫌だと言ったのにまた取りに来た・・・蛍は町の住人か?

宝勝寺

真言宗寺院で天文11年に義尊により開山され、寛文2年荷清元を中興開山としております。扁額には「落合山」とありますが、大正7年に高尾山の飯縄大権現を奉安してから、地元では「高尾山」と呼ばれております。

小判供養塔

珍しいお金の供養塔がありました。

昭和4年の水道工事中に、小判の入った壺が見つかり大騒ぎとなったそうです。

町民の見守る中で、協議の結果発見者、土地所有者、旧地主、旧借家人に分配されたそうです。

この小判は誰が・・・というのが大方の疑問として残ったそうですが、いまだに解明されないといいます。

一番有力なのは、加賀前田藩が国元から江戸へ大金を届ける途中に盗難に合い勘定方が切腹するという騒動があったそうで

その時の小判ではないかと噂になり、小判を貰った人達も気持ちが良くなく、この小判供養塔を建立したと云われております。

本陣跡

小林本陣跡といわれておりますが、この標識が一本立っているだけであとは何も残っておりませんでした。

現在も子孫が残ってここに生活をしているそうです。

芭蕉句碑

貫井川のほとりに小さな弁財天を祀る祠があり、この中の島に清水が湧いており旅人の喉を潤していたそうです。

「むすぶより はや歯にひびく しみずかな」と芭蕉が詠んだと伝えられております。


宿を外れて

今は裏街道として地域の方々の生活道路といった風です。

伊勢島神社

元は稲荷神社だったそうです。

常夜燈、庚申塔、不動明王、宝篋印塔など石造物があるそうですが、鳥居の前でお参りしただけで寄りませんでした。

街道

立派な標識がありました。

堤防

堤防が街道になっておりましたが、見晴らしはよく気持ちよく歩くことができました。

上毛三山や浅間山も見えました。

渡し

江戸時代の渡しがあったと云われているところです。

今は何もありませんので、「ここあたり」といった説明でした。

見晴らしは最高でした。

供養碑

天明の浅間山の噴火で犠牲になった方々を供養するために点てらえました。

この噴火では、江戸まで火山灰が飛んだそうで、当時の傘屋さんが大儲けをしたそうです。

江戸まで・・・このあたりは石が降ったのでは・・・

倉賀野宿

昼食後に倉賀野宿に入りました。

倉賀野宿は、日本橋から12番目の宿場で、江戸から二日半の行程であったそうです。

ここから、日光例幣使街道が分かれております。

宿場としてばかりではなく、利根川水系最後の河岸でも物資輸送の拠点として栄えたそうです。

閻魔堂

中山道と日光例幣使街道の追分に建っており、今では、倉賀野宿のシンボル的な存在になっております

道しるべ

中山道と日光例幣使街道の分岐点建っており、「従是右江戸道 左日光道」と刻まれております。

常夜燈

道しるべの後ろに建っており、文化11年に高砂屋文之助が建立しましたが、面白いのは、その寄進者312名の中に、雷電為右衛門や松本幸四郎の名があることです。

どんなご縁で寄付をお願いしたのかを知りたい・・・

おもてなし館

古民家を利用したおもてなし館ができておりました。

地域のボランティアの方々によって運営されているようです。

お抹茶セットを注文したら時間が掛かるといわれましたが、なんで時間が掛かるのか不思議・・・凄いお抹茶が出てきました。

 

内部

改造してオープンしたそうです。

土間と座敷があり、到着すると係りの方が宿場の案内をしてくれました。

外壁

なまこ壁のきれいな外観でした。

本陣跡

ここが倉賀野宿野本陣跡ですが、今は大きなドラックストアーになっておりました。

広い敷地をそのままで営業しております。

道標

ここは問屋場跡で、大名や公用の荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていたそうです。

倉賀野宿は、上町、中町、下町それぞれに問屋場が有ったと云われております。

脇本陣跡

脇本陣は須賀家が道を挟んで営んでおりました。

現在の建物は明治中期のものだそうで、連子格子にうだつを上げた母屋は宿場の雰囲気をよく伝えてくれます。非公開

脇本陣の碑

表には碑がありますが、中は非公開です。

牛の道

この通りは牛が荷駄を運んだ道だそうですが、牛の道があるくらいですから、馬の道もありました。

牛は歩くのが遅いために、牛と馬を分けたそうです。

この道の先で、馬の道と合流するそうです。

高札場

何処の宿場にもあります。

人々の目に触れやすいように、高いところに札を掲げるので高札場といわれておりますが、ここ高札場は、ちょっと小さ目でした。

倉賀野駅

今回のゴール地点に到着です。

歩いた距離は13k

歩いた歩数は19,334歩

雨の予報でしたが降らずに良かった・・・よく歩きました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道散歩「本庄宿から新町宿」まで歩く・・・

2020-10-19 16:48:28 | 中山道六十九次散歩

10月19(月)

朝から曇り、変わりやすい秋のお天気が続いております。

今日は先日歩いた、中山道散歩の備忘録です。

文字どおり、忘れないうちに書き留めておこうと思っております。

出発

前回のゴール場所の本庄駅からのスタートですが、どなたも雨に備えて色とりどりのレインウエアーを着ての出発です。

ここ本庄宿は、江戸から10番目の宿で、その規模は中山道67次の中で最も大きな宿場であったそうです。

秩父地方や群馬県からの荷が本庄に集まり、利根川を利用した運搬が盛んであったといわれております。

本庄城跡

本庄氏が永禄10年の北条氏との戦いに敗れ、その配下となりましたが、豊臣秀吉の関東攻略により再び落城の憂き目に合い、江戸時代に入ると廃城になってしまいました。

稲荷神社

現在城跡には、城山稲荷神社になっております。

境内には、本庄城を築城の際に献木した大欅が残っておりました。

大欅

県天然記念物に指定されております。

開善寺

臨済宗妙心寺派のお寺で、天正19年に本庄城城主で会った小笠原信嶺が開基した寺ですが、本庄宿の大半を焼き尽くす大火事により焼失したために当時の建物は残っていないし、本堂も昭和46年の再建だといいます。

小笠原信嶺夫妻の墓

道を挟んだ古墳の上には、小笠原信嶺夫妻の墓がありました。

街道を歩いていて気が付いたことは、小さな古墳がお墓として利用されていたことです。

愛宕神社

愛宕神社は、天正10年荷本庄城主小笠原信嶺が勧進したと伝えられております。

ここも古墳の上に社が建立されておりました。

急な階段の脇に樹齢400年といわれる大欅がご神木として、市の天然記念物に指定されております。

開善寺の鎮護のため勧進されたと云われておりますが、明治の廃仏毀釈後は、地元の方々によって祀られております。

石段脇の庚申塔は、道しるべを兼ね「右八まん道 左よりい道」と記されておりました。

歴史民俗資料館

明治16年に建築されたコリント様式を採用した、本庄の本格的な洋風建築で県の有形文化財に指定されております。

昭和10年まで警察署、簡易裁判所などを経て、昭和55年から歴史民俗資料館になっております。

田村本陣の門

本庄宿に二軒あった本陣の内、田村本陣の門が、歴史民俗資料館入り口に移築されておりました。

田村本陣は、本庄駅入り口交差点の右側にあったそうですが、今は、りそな銀行になっておりました。

普養霊場

木曽御岳山開山の行者「普寛上人」が旅の途中の本庄で入滅したと伝えられております。

上人を慕う信者さんたちにより建立された霊場だそうで、春と秋には、大祭が行われ火渡りの神事が行われております。

普寛上人の墓

旧本庄商業銀行

このレンガ作りの建物は、明治29年荷、銀行が融資の担保として預かった大量の繭を保管するために造られたといいます。

一時期洋菓子店として利用されていたそうですが、平成23年に本庄市の所有となり、多目的ホールとして利用されております。

金鑚神社

本庄宿の総鎮守の神社で、欽明天皇2年(541)の創建と伝えられております。

金鑚の語源は、砂鉄を意味する「金砂」といわれており、当時の鉄の貴重さが伝わります。

大鳥居の社号額は松平定信の揮毫だとされております。

浅間神社

コスモス畑の向こうに赤い鳥居が目印の小さな神社です。

ここも、古墳の上に富士浅間神社が祀られており、昭和の調査発掘で刀や矢じり、金環などが発見されていたそうです。

石室

小さな石室画あり、そこで夜な夜な賭博を開いていたそうですが、見た限りでは人が2~3人入ればいっぱいになってしまうほどの広さです。

賭博などとてもできそうもありません。

泪橋跡

一般の民家に置かれている石は、江戸時代にここを流れていた小さな川に架けられていた石橋の一部だそうで、この家の方が自費で当時の橋の一部を集めて整備したそうです。

石碑によると、「江戸幕府は、大名などが通行する際には、街道住民に伝馬という苦役を貸したので、駆り出された住民はこの橋のところで、家族をしのび、身のはかなさを嘆いて泪した」こんな事が書かれておりました。

中山道

雨の中黙々と新町宿を目指して歩きます。

庚申塔

自然石に刻まれた庚申塔は珍しいということです。

畑時能首塚碑

新田義貞の重臣畑時能の首塚は、赤城山を背に建っておりました。

義貞に従い戦っておりましたが討ち死に、家臣によって首だけがこの地に葬られたそうです。

陽雲寺

曹洞宗のお寺で、新田義貞が鎌倉攻めの前に戦勝を祈願して不動堂を建立した縁で、「新田勝軍不動堂」と称されております。

陽雲院の墓所

この寺には、竹田信玄の正室陽雲院が、この寺を再建したと伝えられ、境内には、陽雲院の墓所や新田義貞の家臣畑時能の供養塔がありました。

勝場一里塚

日本橋から23番目の一里塚がありましたが、往時の面影は全くありませんでしたし、場所もこのあたりと云った具合でした。

見透灯篭

神流川に架かる橋のたもとに造られた灯篭で、文化12年に戸谷半兵衛が川の両岸に建てたものだそうです。

この橋を渡ると上州新町宿です。

群馬県

橋を渡り切ると群馬県です。

新町宿常夜灯

旧中山道と国道との分岐点に建っており、住民が募金を始め旅人にまで寄付のお願いをして建てたそうです。

その中には、小林一茶の名も記録されているそうです。

諏訪神社

信州諏訪の大社からの勧進された神社です。

本殿から右手奥に進むと鳥居が地中に埋まっているのが見られます。

埋もれた鳥居

何でこうなったのかも解らないようですが、近所の子供たちの格好の遊び場になっていたといいますが、今は高崎市指定文化財になっております。

ガイドさんも明確なガイドをしてくれませんでしたので、解りましたら追記したいと思います。

今回の中山道街道歩きは、家を出てから25.089歩でした。

距離は15.8k・・・ずいぶん歩きました。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道歩きましたが・・・

2020-10-18 17:27:10 | 中山道六十九次散歩

10月18(土)

昨日の雨が嘘のように青空が広がっておりました。

夕方も西の空が赤く染まっておりましたから、明日も良いお天気でしょう。

今日は、中山道散歩を何とかまとめようとしましたが、遊んでいた付けが回って来て、中々思うように行きませんでした。

お菓子

三時に頂きました。

お菓子屋さん自慢の栗のお菓子です。

中津川の栗を使いいつも美味しい秋の味覚を感じさせてくれます。

あと口の良いとっても美味しいお菓子です。

一服

武蔵の絵の茶碗で一服です。

中山道街道歩きの写真を整理仕切れない内に夕方になってしまいました。

気持ちがイライラしておりましたが、この一服で穏やかになりました。

本庄駅

今回の中山道散歩の出発は本庄駅でした。

ここから、本庄宿を見ながら新町宿を目指して歩き始めました。

明日には、備忘録で街道歩きをまとめたいと思っております。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道「深谷宿から本庄宿」を歩く・・・

2020-09-21 16:41:12 | 中山道六十九次散歩

9月21日(月)敬老の日

朝から晴天です。

午前中に用事を片付けて午後からは、一昨日の「中山道街道六十九次散歩」の備忘録に没頭しましたが、遅々として進まず・・・

今日は、中山道街道歩きの備忘録です。

深谷宿は、江戸から19里5町、約75kほどに位置し9番目の宿場として整備され旅籠の数も多く、宿としての規模は大きい方であったと云われております

渋沢栄一翁

深谷駅に10時に集合して出発ですが、駅前広場に建つ渋沢栄一翁にご挨拶をしてから歩きだしました。

目指すは、本庄宿です。

煉瓦の煙突

深谷は元々瓦の一大産地でしたが、明治になって西洋を模した建造物が増えるにつき、瓦作りの技術を生かした煉瓦作りが盛んに行われ今に残っております。

造り酒屋 藤橋藤三郎商店の煉瓦の煙突です。

深谷本陣跡

数少ない宿場の遺構のひとつで、深谷本陣跡の案内板がかろうじて立っておりましたが、立っているだけで、それらしきものは何一つありません。

内部は公開されてはおりませんが、上段の間など一部が残されているそうです。

七ツ梅酒造跡

300年以上続いた酒造元の跡地を利用して様々なお店がさながら横丁風景を思わせるように並んでいました。

どれもレトロ感満載のお店ばかりで、面白そうでした。

一番奥まったところに、映画館がありました。

東京厚生食堂協会

昔の看板をそのままに営業しているそうですが、大衆酒場・・・何とも昭和を感じさせてくれます。

耳そうじ

これは何屋さんでしょう・・・

今でも耳そうじにやって来る人がいるのでしょうか?

謎に満ちた看板です。

宿場の通り

表に出ると、昔のままの雰囲気で街道が残っておりました。

左の建物は、酒蔵です。

煙突

ここの蔵元にも、立派な煙突が残っており、深谷宿の雰囲気を感じさせてくれます。

残しているのか、残ってしまっているのかは定かではありませんが、取り壊すのには膨大な費用が掛かるそうです。

呑龍院

写真を撮らずに来てしまったため、振り返ると呑龍院鐘楼が見えた。

呑龍様は昔も今も、「子育て呑龍」といわれ、庶民から絶大な信仰を集めております。

西の常夜燈が設置されている場所は、宿場の特徴である桝形になっており、ここが宿場であった証にもなっております。

西の常夜燈

天保11年の建立ですが、今でも現役で夜になると赤々と点灯されているそうです。

透かしの「三」は、冨士講が建立した証です。

ここが深谷宿の西の出口でした。

清心寺の境内

浄土宗のお寺で、境内には、「一ノ谷合戦」で岡部小弥太忠澄によって討ち取られた、平家の大将「平忠度」の供養塔がありました。

供養塔

鎌倉幕府が開かれた後に、岡部小弥太忠澄によって平忠度を供養するために、自分の領地の中で一番見晴らしの良いこの地に供養塔を建てたと伝えられております。

平忠度のお墓は、兵庫県の須磨にあるそうです。

瀧宮神社

境内にある、湧水と滝がその名前の由来とも言われる神社で、古くから、深谷上杉氏の崇敬を受けてきたといわれる由緒ある神社です。
深谷市街地に近く憩いの場としても親しまれ、春には桜の名所として市民の憩いの場にもなっております。

源勝院

江戸時代に、この地の藩主安部信勝が創建した曹洞宗の寺で、境内には、安部氏2代から13代までの歴代藩主の墓があります。

ここも参拝できませんでした。

普斎寺

曹洞宗の寺。

岡部小弥太忠澄のお寺さんらしく、御影堂には岡部小弥太忠澄の像が安置されているそうですが、お参りはできませんでした。

今回の街道歩きでは、岡部小弥太の墓にお参りするのが一番の楽しみでしたが立ち寄ってはくれませんでした。

残念!!

この寺から1kくらい離れたところにお墓はあるそうです。

一番楽しみにしていただけに行きたかった・・・

高嶋秋帆幽閉の地

街道から少し入ったところに「高嶋秋帆幽閉の地」という場所がありました。

江戸末期の砲術家であった秋帆は幕府に重用されておりましたが、中傷によってこの地に10年間幽囚されていたといいます。

一里塚モドキ

街道を歩いて行くと、17号線と旧道の分岐点に立派な大木がありましたので、誰しも一里塚と思いきやそうではなかったのです。

この辺りにあったと云われておりますが、定かではないという事です。

日本橋から20番目ですが、場所は解らないとのことです。

岡部のマンホール

旧岡部町のマンホールです。衣冠束帯の人物が描かれております。

一体誰なのでしょう?

道しるべ

知らなければ真っすぐに行ってしまいそうな道ですので、どなたが書いたのか手書の道しるべが結んでありました。

これが無ければ・・・

百庚申

豊見坂にある庚申塔郡は、万延元年は庚申の年なので、村の有志により建てられました。

この年は、桜田門外の変や黒船が来るなど」、世の中の世情が騒然としていた年です。

現在60基ほど残っております。

龍岡橋

国道バイパスを横切り小山川を渡れば本庄藩領です。

長閑な堤防を歩いて本庄宿を目指しております。

八幡神社

村の鎮守さまとして親しまれております。

建久年間二この地一帯の児玉党の一人牧西広末が、鎌倉八幡宮を勧進建立した神社です。

現在でも当時から伝わっている、金鑚神楽が有名です。

宝珠寺

真言宗のお寺で、開基開山は不明だそうで、古くから鎌倉街道が通っていたといわれておりますので、その頃からのお寺さんだと思われます。

赤色の三門まで一直線の杉木立のすがすがしいお寺でした。

お地蔵さま

石仏が並ぶこのあたりが、武蔵の国と上野の国の境だそうで、このお地蔵さまがひと際目立っておりました。

あちこちにあった石仏を集めたともいわれております。

このあたりに一里塚があったそうですが今は何もありません。

交差点

旧道と17号の交差点です。

信号

本庄市内の交差点では、中山道交差点という名前の信号機でした。

圓心寺

浄土宗のお寺で、本堂が天正4年の建立と伝えられており、廃城となった本庄城の後に建立されたそうです。

お墓のお墓

境内には古い石塔が集められておりました。

墓地の整理をして集められたそうです。

本庄駅

夕方5時前に、今回のゴール地点本庄駅に着きました。

歩いた距離は、14,7k。

歩数は、24、400歩

久しぶりでしたので、足が痛くなってしまいました。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの街道歩きは・・・

2020-09-20 18:30:47 | 中山道六十九次散歩

9月20日(日)

朝から薄曇りの一日でした。

昨日の中山道散歩をまとめようとしましたが、昨日の事が中々まとまらず一日が終わってしまいました。

深谷駅

深谷駅に10時集合して歩きだしました。

あれこれと説明をしてくれますが、資料が少ないのでまとめる事ができません。。

天ぷらうどん

深谷というより埼玉県は、うどん県に匹敵するほどうどんが食べられております。

名物のうどんが昼食でした。

抹茶

食べ終わった人から順にお抹茶が出てきました。

今まで随分街道歩きで昼食を食べましたが、お抹茶は初めてです。

最初からこの量で、私たちの点て方とは違うようで、茶碗の横におしんこが面白いでしょう・・・

本庄駅

ここが今回のゴールです。

歩いた距離14,6k、歩数は、24.500歩です。

一日の距離としては歩いた方です。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道「熊谷宿から深谷宿」まで歩く

2020-03-28 17:28:59 | 中山道六十九次散歩

中山道歩き「熊谷宿から深谷宿」まで

今日は朝からのお天気も、午後からは一変して雨模様です。

植替えなどで何となく小忙しかったので整理ができなかった中山道散歩の備忘録です。

小雨が降る中、前回のゴール地点熊谷駅を10時に出発です。

 

熊谷次郎直実像

熊谷次郎直実と聞けば、だれもが須磨の海岸での平敦盛との出会いから、討ち取るまでの物語を思いだすでしょう。

武士としての無常を感じ自ら髷を落として出家するという、劇的な生涯を送った人物です。

その後、物語として謡曲や歌舞伎などに取り上げられ、熊谷真実という人物は別の世界で大いに羽ばたいたといわれております。

 

高城神社

創建は奈良時代以前と伝えられておりますが、詳しいことは分からないそうです。

記録によれば、豊臣秀吉の小田原攻めの時に、忍城が攻められた時に焼失しましたが、江戸時代に、忍城主阿部忠秋により再建され、本殿、拝殿は8月14日の熊谷大空襲をまぬがれたそうです。

それにしても、終戦前日の空襲です。

この空襲で、熊谷の町は壊滅状態になったそうです。

 

銅製常夜燈

高城神社三の鳥居の右側に設置されておりました。

天保12年といいますから、当時としては珍しく銅で作られております。

高城神社は染物業者の信仰が厚く、台座には150名もの奉納者の名前が刻まれております。

高さ2.75mと見応えのある銅製の灯籠です

 

大欅

熊谷大空襲にも焼け残り、見ると痛々しいほどですが、立派にそびえ立っております。

玉垣に囲われて、今では心霊スポットになっているそうです。

 

千形神社

神社の由緒によると、その昔、気の荒い大熊がおり、人々の生活を脅かしていたそうで、そこで、熊谷直実の父親の直貞が退治したことで、人々の暮らしも穏やかになったそうです。

直貞は、殺した熊があまりにも大きかったので、熊の霊を慰めるために、その頭蓋骨を埋めたところに熊野権現を勧進して、その霊を慰めたといわれております。

また、熊の血が流れて行ったところにも社を建て、「血形明神」と称したのが、この神社の縁起だそうです。

そして、何時のころから、血形から千形に替わったといわれております。

本殿右横にそびえ立つ欅の大木も、終戦前夜の大空襲でも焼残り、その傷跡が生々しく残っております。

 

辻の札

辻の札は江戸時代の高札場で、高さ3m、長さは5mという大きさだったそうですが、今は石碑のみです。

 

本陣跡

この辺りが、宿の中心だったそうで、宿場本陣があったところです。

この本陣も大きな建物で、間口14間、奥行きはその四倍くらいの建物であったそうです。

本陣の中でも屈指の大きさだったようですが、石碑のみが植えこみの中にひっそりと建っておりました。

 

星渓園

星渓園は回遊式の日本庭園で、慶應から明治にかけて竹井濾如翁によって建設されたそうです。

昭和25年に熊谷市が譲り受け、大規模な復元作業を行い、今は、お茶会など日本文化教養の場として市民に利用されております。

中々雰囲気のある場所ですので、お客様を招いて茶会などしてみたいところです。

 

八木橋デパート前

デパートの中を中山道が通っていることで有名なデパートで、前には大きな碑がそれを示しております。

 

デパート内

デパートに入るとすぐに、中山道の表示が目に入り、何となく旅人気分にしてくれます。

デパートも心得ていて、街道となっているところには売り場は設けずに通路になっております。

 

中仙道の碑

デパートを出たとこにありました。

デパートの売り場の中を街道が通っている不思議なところですが、面白いですね・・・

立派な道標です。

熊谷寺

ゆうこく寺と読むそうです。

何があったのかは分かりませんが、今は境内立ち入り禁止になっております。

今回も、門は閉ざされたままでした。

熊谷寺は、熊谷次郎直実が出家した後、蓮生坊となり念仏を称え続けた草庵が始まりだとされております。

 

秩父道標碑

街道から少し入ったところに、寄せ集められたような石碑が建っておりました。

江戸時代になると、伊勢や大山といったお参りの方々が旅を楽しむといったブームが起こり、秩父札所巡りもその一つだそうです。

中山道から秩父への道の分岐点に建てられたそうで、秩父の一番札所四万部寺への距離が刻んであります。

建てられたのは、明和3年だそうです。

 

新島の一里塚

江戸から17番目の一里塚です。

写真では、巨木に枝が出ておりますが、私たちが行った時は、根元から切ってありました。

案内の先生も、着く前から「あるかな。立ってるかな。」と言っておりましたが、着いたとたんに「ワァ~!無い無い」と叫んでおりました。

それほど貴重な一里塚の木でしたが、大きな切株が残る鑿となっておりました。

 

忍領石碑

忍藩主が他藩との境界争いを避けるために、領内16か所に石標を建てた内の一つです。

高さは、190cm、幅30cmde、「従是南忍領」と刻まれております。

原料の石は、利根川から1日50人の人足が2日がかりで運んだそうです。

この後、深谷宿まで黙々と歩きました。

篭原を過ぎるあたりで、同行の一人がリタイヤになってしまいました。

 

国済寺

典型的な禅寺様式が建ち並んでいる、臨済宗南禅寺派の由緒あるお寺です。

康応2年といいますから、630年も前の創建となり、上杉憲英が開祖、開山は峻翁令山禅師です。

黒門、三門は市の重要文化財に指定されております。

このお寺では、若い頃一泊して坐禅に参加したことがありましたので、懐かしくお参りして参りました。

 

見返りの松

宿外れにあり、「見返りの松」と呼ばれておりますが、江戸へ向かう旅人が、宿に泊まった翌日、一夜を共にした女との別れを惜しんだところから名付けられたと云われております。

平成18年に枯れてしまったために伐採され、2代目が植えられております。

頼りないほど小さな松でした。

大きな松を移植しようとは考えなかったのでしょうか??

 

常夜燈

深谷宿の東西の入り口に立つ常夜燈です。

高さは4mもあり、中山道では最大級の大きさです。

天保11年に江戸中期ごろから盛んになった富士講の人達によって建立されたそうです。

冨士講の印の「三」が透かし彫りになっております。

 

深谷駅

雨の中の中山道歩きでしたが、ゴール地点の深谷駅に着きました。

この駅は、東京駅に似た造りで「リトル東京」と呼ばれているそうです。

15時50分の到着でした。

歩いた距離18.7k歩いた歩数26.870歩でした。

 

今回の街道歩きでは、自分で撮った写真の取り込みに失敗して、全部消えてしまい自分の写真を使うことができず写真がありませんが、何時か機会を得て写真を撮りに行きたいと考えております。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする