あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と農民

2020年05月28日 17時21分53秒 | 大御心

天皇と農民
昭和九年二月七日
対露方針について奏上した陸軍大臣林銑十郎は、
そのあとで、
靑年將校たちが 「 部下の敎育統率上、政治に無關心でいられない 」
と申している。

陸軍としては、政治上の意見があれば筋道を經て意見具申をすべく、
斷じて直接行動してはならないという方針を明示している、
旨を奏上した。
それに對して天皇は、
「 將校等、殊に下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、
關心を持するは止むを得ずとするも、之に趣味を持ち過ぐる時は、却て害あり 」
と、いう お言葉であった。
これに対し、
本庄侍從武官長は
「積極的に働きかける意味ではございません」
と、お答えすると、
天皇は、
「 農民の窮状に同情するは固より、必要時なるも、而も農民亦みずから樂天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず」
と、仰せられ、
欧州巡遊の際の自由な氣分を語られ、
大正天皇の御病気の原因も、その窮屈な御生活にあったのではないか、
との お話があった後、
「 斯様な次第故、農民も其の自然を樂しむ方面をも考へ、
不快な方面のみを云々すべきにあらず、
要するに農民指導には、法理一片に拠らず、道義的に努むべきなりと仰せられたり 」
と、本庄日記は傳えている。
 
後顧の憂い 
  娘身売り
昭和八年の農作はやや小康狀態であったが、
昭和四年から七年にかけて、全国の農民は苦境に墜ちた。
とりわけ 東北から北陸の農民の惨狀は、この世のものとは思われない、眞に塗炭の惨苦にあえいでいた。
天皇はこの惨狀を御存知なかったのであろうか。
側近たちも輔翼の大臣たちも、それをありのまま言上しなかったのであろうか。
當時の東北の農民たちに、
とても 「 自ら樂天地 」 を 求める氣持のゆとりなど、求め得べくもない。
最愛の娘を賣春婦に賣らねばならぬ農民の痛苦の心情を、
どうして、ありのまま言上しなかったのか。
この農民の惨狀がわからなければ
生命をすてて國家、國民を救おうとした靑年將校たちの心情は理解できない。
彼らは自分のことよりも 國家や國民の前途を心から憂えていた。
だから肉身の恩愛を断ち、暖かい家庭の団欒をふりすてて 起ち上がったのだ。
もし、あの時、

惨状に呻吟する農民に莫大な皇室財産の一部を割いて救恤されたなら、
靑年將校は蹶起しなかったであろう。
・・・リンク→ 大御心 『 まさに陛下は雲の上におわしめたのである 』

敗戰後、GHQによって、皇室財産が詳細に調査され、
ついで 凍結され、やがて九割の財産税によって日本國に没収された。
「 土地、134万ヘクタール、大部分が御料林と呼ばれる山林である。
建物、62万7000平方メートル。
立木、1億6千800万立方メートル。
現金・有価証券、3億3千615万円。
土地は、日本の全面積の3%強、長野県の面積に匹敵する 」
その時の評価額は37億円に達したという。
昭和二十年の政府の一般会計の歳出が292億円であることを比較して見れば、
これがどんなに巨額であるかがわかるであろう。
この莫大な皇室財産の一部を、
昭和の初年、窮況にあえぐ國民の救恤金きゅうじゅつきんとして下賜かしされたならば、
その後の日本の運命は變っていたであろう。

北一輝は、この皇室財産の國家下附を「日本改造法案大綱」のなかにうたっている。
いまの皇室財産は徳川氏のものを繼承したもので、かかる中世的財政によるのは誤りである。
國民の天皇は、その經濟はすべて國家が負担するのは當たり前だといっている。
昭和四、五年頃、農村不況が深刻となり町でも失業者が急増し出した頃、
北邸に顔を出した寺田稲次郎に、北一輝は世間話の末、
仁徳天皇の例をひいて
「 日本の天子は、昔から民の富めるは朕の富めるなりといって、
國民と苦樂を共にするのが天子の務めと心得ていた。
寒夜に衣をぬいで貧民の痛苦をしのんだという天子もあった。
今、國民がこんなに苦しんでいるのに、
大財閥に匹敵する程の財宝をもちながら、アッケラカンと見すごしている奴もあるからなあ 」
と、言ってにやりと笑った。
大蔵榮一が 『 國體論及純正社會主義 』のなかに、
皇室に對する不敬の言辭が多い點を詰問すると
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ 」
と、輕く逃げて まともに答えていない。
西田税にも同じような傾きが見える。
昭和六年の春、西田の家を訪れた血盟團の小沼正に
「 ときにあんなバカでかい物が、東京のどまん中にあるなんて、市民のいい迷惑だよ。
宮城をとっ払ってしまって、どこかへ引っ越ししてもらうんだなあ、將來は 」
と、笑いながら言った。
「 私は、西田氏の思想のどこかに、危險なものが陰さしているのではないかと疑ってみた。
だが、それは全く、私の思いすごしであった 」  ( 『 一殺多生 』 )
と、小沼はその著書の中に記しているが、はたしてどうだったのであろうか。
「 たしかに軍人時代の西田の天皇観と、浪人してからの西田のそれには、ニュアンスに違いが見られた。
とりたてて天皇論をたたかわしたわけではないが、幾十度かの手紙の往復で、
たとえば語句の使い方、敬語の用い方にも變化があったことは感知していた。
革命家として生涯を賭している西田だから、さもあろうと思っていた 」
と、語るは福永憲である。

北も西田も、獄中で天皇に關しては何も書き殘してはいないし、言ってもいない。
しかし、天皇が蹶起した靑年將校に對して、ひどくお怒りの様子であることはわかっていた。
北一輝の最後の陳述
「 これで極樂へ行けます 」
と いう一言は、彼一流の痛烈な皮肉ではなかったか。
北のかねてからの持論
「 國民の天皇 」
というにはあまりにほど遠い天皇のお姿に、暗い日本の未來を豫見したのではあるまいか。
事實、この年からまる九年、日本人の多くは地獄の業火のなかに呻吟した。
西田も
「 このように亂れた世の中に、二度と生まれたくありません 」
と 言っている。
この時、西田の胸中には、
天皇の御態度に対する悲痛な絶望感がみなぎっていた、と 思うのは 思いすごしというものであろうか。
「 誰から、どうして傳えられたかわからぬが、天皇が立腹されたという話は、たしかに獄中で聞いた。
同志の將校はみんなそれを知っていた。
磯部だけは、はっきりそれを遺書に書いている。
敗戰後ならいざ知らず、あの頃 天皇絶對の敎育をうけた者が、あれ程極言したのはよくよくのことだ。
同志將校の遺書にもそれとは言っていないが、たしかに怨んで書いたと見られるニュアンスがある。
安藤の
「 國體を護らんとして逆徒の名、万斛の恨、涙も涸れぬ、あゝ天は 」
と いう遺書も まさにそれだ。
天は天運の天の意味もあるが、天皇の天の意味もあると私には思える」  ( 菅波三郎 ) 
この明確な御態度は、北にとっては意外であったと思われる。
かつて北は
「クラゲの研究者がいけないんだ」
とか、
「デクノボーだとわかりゃ、ガラガラッと崩れるよ 」  ( 寺田稲次郎 )
と、陰口をたたいていた北は、
この時、はじめて天皇の人間臭を感じ、自分の敗北を認めたのではあるまいか。
西田も同じ感懐をもったと思われる。
かつて 「 日本の最高我 」 として、恋闕の思いに胸を焦がした西田も、
天皇が國民の天皇でなく、貴族としての天皇と悟って失望する。
「 俺は殺される時、靑年將校のように、天皇陛下萬歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」  村田茂子談 )
と、面會に來た肉親たちに、米子弁でつぶやくように言った一言こそ、
天皇に失望した西田の意を言外に含めた、精一杯の天皇批判であったのだ。

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から