昭和天皇 全国巡幸 昭和21年 ( 1946年 ) 2月19日
昭和二十一年一月下旬、
陛下は戦争につき
次のような意味の ご述懐をお洩しになった。
・
「 申すまでもないが、戦争はな すさまじきものである。
この戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、
わたしはおよそ考えられるだけ考えつくした。
打てる手はことごとく打ってみた。
しかし 、わたしのおよぶかぎりのあらゆる努力も効をみず、
遂に戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。
このごろ世間には、戦争を終わらせた天皇が、
なぜ開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。
これをもっともと聞く人もあろう。
しかし、それはそういうことにほかならない。
立憲国の天皇は、
憲法の枠の中にその言動を制約せられる。
この枠を勝手に外して、任意の言動にでることは許されない半面、
同じ憲法には国務大臣についての規定があって、
大臣は平素より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。
この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容赦し、干渉することは許されない。
それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、
これを管掌する官庁において、衆智を傾けて慎重に審議した上、
この成果をわたしの前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、
合法的の手続きをつくしてここまでとり運んだ場合には、
たとえそのことがわたしとしては甚だ好ましからざることであっても、
裁可するのほかはない。
立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。
もし、かかる場合 私がそのときの考えで脚下したとしたら、どういうことになるか。
憲法に立脚して合法的に運んだことでも、
天皇のそのときの考え一つで裁可となるか、脚下せられるか判らないということでは、
責任の位置にいることはできない。
このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。
立憲国の天皇として執るべからざる態度である。
断じて許されないことである。
( これは開戦前の御前会議等のことを抽象的にお述べになったことと想像する )
しかし、終戦のときはまったく事情を異にする。
あのときには、ポツダム宣言の諾否について両論対立して、
いくら論議を重ねても ついに一本に纏まる見込みはない。
しかし、熾烈なる爆撃、あまつさえ原子爆弾も受けて、惨禍は極めて急激に加速増大していた。
ついに御前会議の上、鈴木はわたしに両論のいずれを採るべきやを聞いた。
ここでわたしはいまやなんびとの権限を犯すこともなく、
また なんびとの責任にも触れることなしに、
自由にわたしの意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。
また この場合 わたしが採決しなければ、事の結末はつかない。
それでわたしは この上 戦争を継続することの無理と、
無理な戦争の強行は、やがて皇国の滅亡を招くとの見地から、
とくに内外の情勢を説いて、国民の混乱困惑、戦死者、戦病死者、その遺家族、
戦災を被ったものの悲惨なる状況には衷心の同情を懐きつつも、
忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるのほかなしとして、
胸の張り裂けるの想いをしつつも、ついに戦争を終止すべしとの裁断をくだした。
そして戦争は終わった。
( 二回の御前会議を一括しての仰せと拝す )
しかし、このことは、わたしと肝胆相許した鈴木であったから、このことができたのだった 」
昭和三十年十月十五日の 「 太平 」 第五号に掲載せられた当時の侍従長藤田尚徳海軍大将の一文
・