天皇と靑年將校のあいだ (3)
二・二六事件に対して、天皇が如何判断し、如何行動したかについて、
戦後になって公刊された書籍を以て、窺うことができる。
原田熊雄述 『 西園寺公と政局 』、『 木戸幸一日記 』、
当時侍従武官長だった 『 本庄日記 』 等である。
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これ等を通して見る天皇の言動は極めて特異なものである。
戦後、天皇みずから語ったところに拠れば、
立憲君主は、憲法の枠の中にその言動を制約されていて、
合法的手続きを尽して天皇のもとへ差し出されたものについては、
たとえ 天皇自身が甚だ好ましくないと考えていても、結局は裁可する外はない、
それが立憲君主の天皇のとるべき唯一の途である。
もしそうしないと天皇みずから憲法を破壊したことになり、断じて許されることではない、 と。
そして 天皇は亦 みずからいっている、
然し 昭和年代に於て 二度だけ異例の行動をとった、
一つは 戦争終結の決定であり、いま一つは二・二六事件収拾についてである、 と。
『 木戸日記 』 に拠ると、
二十六日朝、事件発生後、陸軍大臣が最初に参内したとき、
天皇は、
「 今回のことは精神の如何を問わず 甚だ不本意なり。
国体の精華を傷くるものと認む 」
といった、 と 記されている。
二十六日午前中の段階で已に天皇は、
「 甚だ不本意なり 」
という表現で 蹶起軍を性格づけている。
陸軍大臣が参内したのは、蹶起将校等と真崎甚三郎大将の恐喝によって、
蹶起将校等の意図を天皇に取次ぐためであった。
『 本庄日記 』 は、
「 午前九時頃川島陸相参内、何等意見ヲ加フルコトナク、単ニ状況
( 青年将校蹶起趣意書ヲ付ケ加ヘ朗読申上ゲタリ ) ヲ申述べ、
斯ル事件ヲ出来シ、誠ニ恐懼ニ堪ヘザル旨ヲ奏上ス。
之ニ対シ、陛下ハ
速ニ事件ヲ鎮定スベク御沙汰アラセラル 」
と その様子を記している。
この時 陸相はかなり詳しく青年将校の要求事項を天皇に奏上したのに対し、
天皇から、
「 陸軍大臣は そういうことまで言わなくてもよかろう。
それよりも 叛乱軍を速やかに鎮圧する方法を講じるが先決要件ではないか 」
と 言われた、 と高宮太平氏の 『 天皇 』 は記しているが、
その場に立会った本庄侍従武官長の記録の方が真相に近いかもしれない。
いずれにせよ、この段階では、
岡田首相以下、内大臣斎藤実、侍従武官長鈴木貫太郎らは被害者であるから
当然参内しておらず、
逐次参内してきた軍事参議官や枢密顧問官達の間では、
蹶起軍の処置について 未だ態度が未決定の儘であった。
のみならず 真崎甚三郎や荒木貞夫らの軍事参議官は青年将校の代弁者として、
昭和維新の大詔渙発の方向で事を処理することを秘かた画策していたのである。
要するに
天皇は、側近者や軍事参議官らの態度決定以前に、如何なる会議を待たずに、
はっきりと 「甚だ不本意 」 であるから 「 速ニ鎮圧セヨ 」
という意志表示をしているのである。
二十六日の 『 本庄日記 』 は、さらに次のような記録をしている。
「 陛下ハ、二、三十分毎ニ御召アリ、事変ノ成行キヲ御下問アリ、
且ツ、鎮定方 督促 アラセラレル 」
このへんの事情を 『 西園寺公と政局 』 の叙述でみると、
「 陛下は亦屡々しばしば川島陸軍大臣を呼ばれて、
『 一時間の内に暴徒を鎮圧せよ 』 と言われ、
十五分ばかり経つと、『 もう撃ち始めたか 』 と仰せられて、
終始武官長に見におやりになるという具合 」 ということになる。
二十七日になると、
『 本庄日記 』 には いっそう天皇の強烈な意志を示す文字が何箇所も出てくる。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ兇暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ 何ノ恕ユルスベキモノアリヤ、
ト 仰セラレル。
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、
真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニモ等シキ行為ナリ、
ト 漏ラサル。
陛下ニハ、
陸軍当路ノ行動部隊ニ対スル鎮圧ノ手段実施ノ進捗セザルニ焦慮アラセラレ、
武官長 ( 本庄 ) ニ対シ、
朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン
ト 仰セラレ、真ニ恐懼ニ耐ヘザルモノアリ。
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このような天皇の焦慮にもかかわらず、
蹶起軍の鎮圧は捗々はかばかしく進捗しなかった。
天皇の意志が某との即刻鎮圧にある以上、
蹶起軍を義軍とみたてて
維新大詔渙発を要請し奉るなどということは已に不可能であったが、
蹶起軍に対して 懐柔策で臨むか 弾圧策で臨むかについて、
陸軍上層部の態度は頗る優柔不断であった。
鎮圧の奉勅命令にしても、
香椎戒厳司令官は それを自分の手許に保留したままであったし、
亦 第一師団長は 「 部下ノ兵ヲ以テ、部下ノ兵ヲ討ツニ耐ヘズ 」 として、
鎮圧行動に出ることを躊躇していた。
つまり、天皇の意志は 悉く消極的な抵抗に出会っていたことになる。
事件が、矛盾した告示や命令や告諭に囲まれた儘 いたずらに日数を重ねてゆくのは、
さきにも触れたように、蹶起支持派・懐柔派・弾圧派など
各派の政治折衝にそれだけの時間を要したということであるが、
もう一つ 突き進んでいうなら、
それは 意志強烈な天皇と陸軍上層部との妥協に要した時間に外ならない。
皇道派はもちろんだが、統制派としても、
天皇の強硬な意志には かなりとまどっているのである。
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二十八日午後一時には、川島陸相が参内して、
「 行動将校一同ハ大臣官邸ニアリテ自刃 罪ヲ謝シ、下士官以下ハ原隊ニ復帰セシム、
就テハ、勅使を賜ハリ死出ノ光栄ヲ与ヘラレタシ、此以外解決ノ手段ナシ 」
と 本庄侍従武官長に訴えている。
本庄は 天皇に伝奏することを躊躇ったが、ともかくも其の儘を奏上した。
それに対する天皇の態度は、極めて厳しいものであった。
即ち 『 本庄日記 』 によると、
陛下ニハ非常ナル御不満ニテ、
殺スルナラバ 勝手ニ為スベク、
此ノ如キモノニ勅使ナド、以テノ外ナリ
ト 仰セラレ
たのである。
乱は二十九日午後に漸ようやく終結を見る。
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四日間を通じてみられる天皇の言動は、
極めて特殊なものである。
天皇は如何なる輔弼機関の決定をも待たずに、
初めから即刻鎮圧の意志決定をしており、
各機関の消極的抵抗を叱咤激励して、
自己の意思を貫徹させようとしているのである。
立憲国の君主として、これは極めて異例な事といわざるを得ない。
天皇と青年将校とは、
なににもまして、もっとも対立した関係にあったのである。
そしてこのことを、青年将校達は 少しも知らなかった。