あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇の大御心にも副う所以であると考えてやつたのである

2020年05月22日 18時08分16秒 | 大御心

私は、叛乱将校中に一人の知人もなく、
この人達と関係の深い民間人中の北一輝氏に、
ただ一度 ( それも数年前に ) 面識があるだけであったから、
もちろん 二・二六事件に関係があるはずがなかった。
ことに、この人達の企てた叛乱。
すなわち、上官の意向を無視して兵を動かし、
多くの要職にある人物を殺し、天下を騒がせたのであるから、
その重大犯罪のまえに、この人達を弁護のしようがなかつた。
ただ、この人達の既述のごとき蹶起の理由については、
当時の元老重臣や政界上層部の人達、並びに軍の上層部の人達の意向に反し、
私には深く察せられるものがあつた。
簡単にいえば 叛乱将校達の仕出かしたことは、言語道断の非道であるが、
しかしその志が、深く君国を思う一念に発していることだけは、
疑いようがないと信じたのである。
そうして
それには、十分の理由が存するのである。

ここで、その頃なお進行中であった、
相澤事件の公判を振りかえってみる必要がある。
それは 相澤事件と二・二六事件とは、
その勃発の動機において大体同様のものであるから、
相澤事件の本質を知ることが、
二・二六事件の本質を知る所以ともなるからである。

昭和十一年二月七日 ( 二・二六事件に先立つ二十日程以前 )
当時相澤事件の弁護人であった鵜沢総明博士が、
新聞記者に発表して世間を驚かしめた声明文がある。
その一節にいう、
「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を単に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に、国運を有する問題といわなければなりません。
したがって、統帥の本義はじめとして、
政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、
実にその深刻にして真摯なること、
裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・・」
右の文中において鵜沢博士が、
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けたる者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に関連を有する云々 」
と いつておられる点が 最も重要であるが、
これは具体的には何を意味するかといえば、
相澤中佐事件は、
わが建国以来の歴史や、軍人への勅諭、教育勅語、大日本帝国憲法等によつて、

真面目に教育を受けた軍人が敢行した事件であるという意味である
したがつて、そこに相沢事件の重大性があるというのが、鵜沢博士の意見である。

終戦後育った諸君が聞けば、はなはだ時代離れがしているように思うであろうが、
当時の将兵が軍隊教育によつて教えられていたのは、
わが国柄が万邦に優れた所以は、天皇の御親政にある
ということであつた。
天皇の御親政とは、心理即応の政治ということであり、
造物主の意思そのままの政治ということである。
しからば、
その真理とか造物主の意思とかいうのは、何を意味するのかといえば、
 それは、
「 総てのものの間に大調和あらしめて、万人をしてその生存の意義を全うせしめる道 」
を いうのである。
試みに明治二年に下し給うた 明治天皇の御宸翰しんかんをみれば、
「 ・・・・今般朝政一新の時に膺あたり、天下億兆、一人も其処そのところを得ざる時は、
皆 朕が罪なれば、今日の事 朕 自ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難かんなんの先に立ち、
いにしえ列祖の尽くさせ給ひし蹤あとを履み、治蹟を勤めてこそ、
始めて天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし・・・・」
との お言葉があるが、このような御心構えで、天皇が御自らわが国を統治し給うて、
「 一人の処を得ざる者----すなわち一人の生存の意義を全うし得ざる者
----をも無からしめることに努められるのが、わが国の特色であつて、
他の民主国や君主機関説の国とは、全然国柄を異にするのである 」
と 教えられていた。
さらに、帝国憲法公布の際の明治天皇の 「 告文 」 を見れば
「 皇朕すめわれ、天壌無窮の宏謨こうぼに従ひ、惟神かんながらの宝祚ほうそを承継し、
旧図きゅうとを保持して、敢て失墜することなし・・・(中略)・・・玆に皇室典範及び憲法を制定す。
おもふに此れ皆皇祖皇宗の後裔こうえいに貽のこし給へる、
統治の洪範を紹述するに外ならず (下略) 」
とあり、
天皇の国家統治の大権は、
憲法以前からのものであるゆえんを、明らかにされているのである。
私は、ここて゛のような天皇政治が、善いか悪いかを論じているのではない。
国体擁護論者や軍人は、かく教えられてきたといっているのである。
帝国憲法の草案起草者である伊藤博文公の 「 大日本帝国憲法義解 」 中の
「 第一章  天皇 」 の 項の解釈にも、
「 恭つつしんで按ずるに天皇の宝祚は、之を祖宗に承け、之を子孫に伝ふ。
国家統治権の存する処なり。
而して
憲法に殊に大権を掲げて之を条章に明記するは、
憲法によりて新設の義を表するに非ずして、
固有の国体は憲法によりて、益々鞏固きょうこなることを示すなり 」
と あつて、
日本は他の法治諸国と違い、憲法によつて大権が保証されたのではなく、
それは憲法以前よりのものであり、
憲法はただその大権行使の道筋を示すものである所以が、明らかにされているのである。
世には帝国憲法四条に、
「 天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此の憲法の条規により之を行ふ 」
と あるのをみて、
天皇は元首、すなわち機関であると解釈する者があるが、
それは法治国なみの解釈であつて、
固有の国体に基礎をおくわが帝国憲法においては、
そのような解釈をとらぬことは、伊藤公の憲法義解にある憲法第一条より、
第四条を熟読すれば明白である。

「 天皇の御親政などてあつては、政治の責任がすべて陛下に帰して大変です 」
などという者もあるが、
そのような人も天皇政治の本質と、帝国憲法第五十五条にある国務大臣の輔弼の責任をしれば、
さういう誤解がなくなるのである。
天皇の御親政ということは、
何もかも天皇が独断的に命令を下し給うて、諸大臣がこれを執行するというのではない。
それは先にもいうがごとく、
心理即応の政治、造物主の意思そのままの政治ということであつて、
天皇はそのような真理、そのような造物主の意思を体現せられていて、
その見地から国政上の万機を御覧になる。
諸大臣はまた、
その天皇の体現せられている真理に背かざるように---
具体的にいえば、わが国民中に一人の処を得ざる者をもなからしめるように---
天皇を輔弼しつつ政治をしていくのである。
無論その間、天皇は真理の体現者としてのお立場から、
お気付きになつたことを諸大臣に遠慮なくお伝へになるが、それは決して独断的な御命令ではない。
それは常に必ず大臣の意思を問われるのである。
神代の頃の御政治すら、天津祝詞あまつのりとにもあるように、
「 八百万やおろずの神等かみたちを神集へに集へ給ひ、神議かむばかりに議はかり給ひて 」
というのが、わが国柄なのであつて、天皇は決して独断はなさらぬのである。
それに対して諸大臣は、また遠慮なく御下問にお答えして、その輔翼の責任を尽し、
結局
「一人の処を得ざる者をもなからしめる 」 政治の全きを期するのであって、
その政治に誤りがあれば、如何なる場合にも時の内閣諸大臣がその責に任ずるのが、
憲法にいうところの輔弼の責任なのである。
天皇の国家統治の大権というのは、
前述のごとく 造物主の意思を行わせられるための権利であるから、その大権が無限なのである。
さらに明白にいえば、
全世界に一人の処を得ざる者をも無からしめねば止まぬという、
天皇の無限の大愛と不退転の意思とが、その大権の裏付けなのであるから、
大権は無限であるというのである。
ただしそれは、
天皇が勝手に何をなさつてもよいということではない。
そのような大権を行われるに当っては、必ず憲法の条規によりて行われるのが、
明治天皇が御自ら定め給うた帝国憲法の規定であつた。

「 大御心 」 というのは、何を意味するかといえば、
それは造物主の意思を体現せられている天皇の御心という意味であるから、
別言すれば、
万人をしてその生存の意義を全うせしめずんば止まざる造物主の意思が、
すなわち天皇の大御心なのである。
したがつて、
その意味にかのうことを行うのが、
大御心に副う所以なのであつて、
天皇の個人的御趣味や御嗜好しこうを尊重することのごときは、
大御心に副う の 意味には当らぬのである。
たとえば、
今上陛下が生物学の御研究を好まれる御心のごときは、
個人的の御趣味であって、
大御心とは謂わぬのである。
たとえば、
一時の御感情から激語されるがごとき場合のお言葉も、
それが大御心の発揚であるかどうかは、
輔弼の大臣がよく考えて、輔弼を誤らぬようにせねばならぬのである。

天皇機関説論者として有名な、美濃部博士の説によれば、
「 君主が統治権の主体であるといえば、
統治権は君主御一身の利益のために存する権利であり、
したがつて
統治の行為は、君主一個人としての行為であるという意味に帰着する。
しかし、
君主が御一身の利益のために統治権を行わるるということは、
わが国古来の歴史に反し、
わが国体に反することの甚だしきものである 」・・( 尾崎士郎著 「 天皇機関説 」 )
と いうのだそうであるが、
これも美濃部博士が西洋憲法学の上から、
他の法治国家なみの解釈をするから、そういうことを考えるのであつて、
以上述べてきたつたごとき、
わが国有の天皇政治の上からいえば、
天皇即真理であり、天皇即国家であり、天皇即国民であつて、
天皇が個人的お立場で、
御一身の利益のために政治をされるなどということは、有り得ないのである。
さらに帝国憲法第十一条には、
「 天皇は陸海軍を統帥す 」
とあり、
伊藤公の憲法義解には、
天皇が 「 自ら陸海軍を統べ給ふ 」
所以 および、
日本の征討は、かならず天皇の御親征である所以を明記されている。
同十二条には、
「 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む 」
と あつて、憲法義解には、
「・・・・本条は陸海軍の編制及び常備兵額も、亦天皇の親裁する処なることを示す。
此れ固もとより責任大臣の輔翼に依ると雖いえども、叉帷幄いあくの軍令に均しく、
至尊の大権に属すべくして、而して議会の干渉を須たざるべきなり 」
と ある。
ここに喧しい統帥権問題や、
兵力量問題が起る根拠が存するのであつて、
天皇は軍の統帥と兵力量との決定に関しては、
政府や議会の干渉を許さぬ権限を持たれ、
それを 直接参謀総長、軍令部長および軍務大臣に命じて、
行使されるたてまえに、憲法が出来上つていたのである。
そのように 統帥権の独立が、善いか悪いかは別問題として、
帝国憲法では明らかにそうなつていたのである。

しかして、
この天皇の統帥の大権は、さらに軍人への勅諭によりて、一層明白にされている。
軍人への勅諭は明治十五年、
すなわち 大日本帝国憲法発布より七年以前に賜ったものであるが、
しかしこの勅諭は、憲法発布後に改められておらぬのみならず、
終戦のときまでわが将兵は、
皆この勅諭の御趣旨を奉じて、身命を荒野に捨てたのである。
しかもその勅諭は、
「 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ処にぞある 」
と いうお言葉より始めて、
「・・・・夫れ兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば---その大綱は朕親みずから之を攬り、
あえて臣下に委ゆだぬべきものに非ず、
子々孫々に至るまで篤く斯旨このむねを伝へ、
天子は文武の大権を掌握するの義を存して、
ふたたび中世以降の如き失態なからんことを望むなり。
朕は汝等軍人の大元帥なるぞ 」
と いうお言葉以下、
天皇と軍隊および軍人が直結直属の理義を厳粛かつ懇切に示されている。
なお 以上の所説を裏書するものに、
占領統治が始まるまで、全国の学校で教えられていた教育勅語がある。
試みに教育勅語の始めの数行を見よ、
「 朕 惟ふに我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり、
我が臣民 克く忠に 克く孝に、億兆心を一にして世々厥その美を済せるは、
此れ我が国体の精華にして、教育の淵源えんげん亦実に此に存す 」
と あるではないか。
すなわち明治以来の教育の本義は、
国体を明徴にし、国体を擁護するにあつたことは明白であつて、
それさえ確かなれば、
万徳皆その中に備わるというたてまえであることがしられるのである。
さらに教育勅語の最後の一節には、
「 斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶ともに遵守すべき所、
之を古今に通じて誤らず、之を中外に施して悖もとらず、
朕爾臣民と共に拳々服膺けんけんふくようして、咸みな其德を一にせんことを庶幾こいねがふ 」
 
 とあるのをみよ。
もし この教育勅語の御趣旨を誠実に学んだ者ならば、当然わが国体明徴問題に、
 熱心になるべきはずなのである。
日本国民、特に軍人が以上のごとき思想で毎日鍛えられ、
それがいわゆる軍人精神となつていることは、秘密でも何でもない公然のことであつて、
元老も重臣も、またその時々の政府当局も、常に明確に意識していなければならぬことなのである。
皇道派の青年将校達が、特に真面目な将校であればあるほど、
齋藤内閣や岡田内閣の国体明徴問題に不徹底なるを憤り、また統帥権問題に興奮するのは、
多年かかる教育を受けているからに外ならない。

しかし当時の元老重臣政界の上層部、並びに一部の官僚や学者の考えは、
以上私が述べたごとき教育を受けた皇道派将校達の見解とは、違っていたようである。
右の人達は一種の欧化主義からか、或いは英国カブレからか、
それとも時代にたいする新しい認識のうえからか、
日本もヨーロッパ流の法治国とし、
日本の天皇をイギリス流の君主同様にしたいという考えであつて、
この風潮は宮中方面にも充満していた。
したがつて、これらの人達からみれば、
軍の統帥の問題とか、国体明徴問題とかを喧しくいう者は、
頑迷度し難き厄介千万な存在であつて、
天皇にたいしても、世にいうヒイキの引倒しをする連中であると見えるのであつた。
もつとも元老重臣および、宮中方面の意向に同調していた政治家や軍人諸君の中には、
必ずしも 純真君国を思うの念からでなく、天皇の個人的御趣味や、
元老重臣の好むところにおもねつて、自己の栄達保身を計ろうとした者も、
相当いたようである。
この人達の国家の重臣としての他日の言動をみれば、それがわかるのである。
ともかく斎藤内閣および岡田内閣は、当時の世上に喧しかった統帥権問題や、
天皇機関説排撃論に困惑はしながら、憲法や軍人への勅諭の線にそう、明快なる断案を下さず、
逆に統制派の軍人と策謀して、国体擁護論者を排撃しようとしたときに起ったのが、
相沢事件であり、二・二六事件である。
相沢事件の弁護人の鵜沢博士はまた、
「 皇軍全体、何かゆがんでいる。
どこか間違っている。
これを明かにしなければ、この裁判の公正は期し難い 」
と考えられたらしいが、ゆがんでいたのは軍部だけであろうか。
急元老重臣および、当時の主なる政治家並びに統制派の軍人達と、
国体擁護論者との間には以上述べるがごとき、わが立国の本義に関し、
重大なる見解信念の相違がある。
これが各種の国家的悲劇となつて、現れるのに不思議があるまい。
たとえば、
永田軍務局長を斬殺した相澤中佐は、
当時の機関説派からみれば、狂暴憎むべき不逞の徒であるが、

しかし その相澤中佐自身は、
かくすることが国家を擁護し、粛軍を断行する所以であつて、

当然天皇の大御心にも副う所以であると考えてやつたのである。
さればこそ彼は、その決行以前に伊勢神宮に参拝し、
また明治神宮をも遙拝して心身を潔きよめ、
自己の心境に曇りなきを期したのである。

さらに二・二六事件の叛乱将校達も、
あれだけの重大事を仕出かしながら、

それが国家を擁護し、天皇の大御心に副う所以であると信じたればこそ、
あれだけ勇敢に邁進し得たのである。
彼らのなかには実に性格の美しい、模範的軍人が幾人もいたことは注意すべきである。
相澤中佐や二・二六事件の将兵の犯した罪が、如何に大きくとも、
彼らの志には察するべきものがあると私がいつたのは、
いじょう述べるがごとき憲法上、
教育上、その他の疑う余地なき根拠によるものである。

橋本徹馬著  天皇と叛乱将校 から