あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と靑年將校のあいだ 1 一君萬民、君臣一界の境地

2017年02月13日 19時38分40秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (1)

二 ・二六事件の主役は天皇

昭和という元号は、
『 書経 』 のなかの 「 堯典 」 にある
「 百姓昭明  万邦無比共和 」
の文字が典拠であると謂う。

昭和四年 (1929年)、アメリカに端を発した大恐慌の波は、直ちに世界に拡がり、
日本をも深刻に見舞った。
いずれの資本主義国も、
政府がさまざまな方策で経済を統制し、景気の調整をはかろうとする傾向を強めた。
所謂 国家独占資本主義の体制である。
然し、いずれの国にしても、一刻だけの体制でそれを克服することが困難なため、
広域経済圏の確立、即ち ブロック化が構想される。
日本の、満洲・中国を圏内とする大陸経営計画もむろんその一つであった。
然し 日本の場合、そのブロックは先進列強の利害と重なりあう地帯であっただけに、
始から国際緊張を強める危険を伴なうものであった。
このような国際的課題の中で、昭和時代が展開して行く。
而して昭和時代は、その出発の そもそもの初めから、
何等かの意味の国家改造・社会改造を自己任務として担わざるを得なかった。
こういう日本の状態を、三つの観点で以て捉えると、

一、天皇シンボル
あらゆる社会的矛盾を救済する最高原理を天皇に見出すものである。
それは大衆の生活感情を 「 一君万民 」 という原理に結びつけようとするものであり、
青年将校達がそれを行動に移す。

二、デカダンの理念
社会的矛盾の解決よりも、その矛盾そのもものなかに自己を没入させるという
文学的ニヒリズムにそれが表れた。
所謂 エロ・グロ・ナンセンス の社会風俗もその大衆的表現である。
 
三、プロレタリアート革命
共産党は、その理念を組織化した現実の行動団体として、非合法の活動を行っていた。
而もこれは、天皇制原理にたいするアンチテーゼとして、国際的組織と繋がり、
日本的伝統から切り離された原理によって生きようとする異教的集団であった。
日本政府は、この異教徒的集団の弾圧を始める。
その間にも、失業と飢餓の大衆は、日毎に数を増していく。
そして青年将校達の心情的社会認識の中には、
この失業と飢餓の救済と、エロ・グロ・ナンセンスの匡正が次第に育ってゆくことになる。
青年将校達は、社会不安を克服するために、資本主義経済機構を明瞭に否定している。
彼等は、すくなくとも大資本、私有財産、土地の国有化ないし所有制限を必要としている。
こういう、構想はしばしば左翼思想に接近した現れ方を示すものであったが、
しかし決定的相違は、
それを天皇帰一という原理の上に考えている点である。
彼等は 「 一君万民、君臣一界という境地 」 にそれを求めた。
天皇と人民との間にいかなる中間支配層もおかず、
いっさいの搾取関係もおかないという、

いわば 天皇奉戴の共産体の理想国家である。
これは理想であり、夢想である
この夢想に現実化の火を点けたのは北一輝の 『 日本改造方案大綱』であろう。
只、北はこの改造計画を遂行する為に、如何に天皇大権を政治的に行使するかという
一種独特な天皇機関説を編みだしたが、
青年将校達は 「 万民一神たる天皇 」 という神話的
ないし 宗教的天皇観へと没入していった。

明治十五年にでた 『 軍人勅諭 』 は、
天皇が親しく軍人に語りかける文体を採っている。 ( ・・・リンク→軍人勅諭 )
「 朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。
されば朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ 其親は特に深かるべき 」
と 天皇は呼びかける。
もともとこの勅諭は、明治政府によって建てられた国軍が、
反政府・反天皇勢力になることを危惧したところから生まれたものであった。
そのことは、勅諭が嘗ての武家政権の歴史を振り返って、
「 兵馬の権は其武士どもの棟梁たる者に帰し、
世の乱れと共に政治の大権も亦其の手に落ち、
凡七百年の間武家の政治 」 となったのは
「 我国体に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき 」
と 記し、
「 再び中世以降の如き失態なからんことを望むなり 」
と戒めていることからも明らかである。
封建武士の間で歴史的に定着していたような主君( 諸侯 ) と 臣下( 武士 )
との主従関係とは 別の構造で編制された近代国軍としては、
天皇と軍隊を繋ぐ新しい主従関係が必要であった。
「 朕は汝等を股肱と頼み 」、「 汝等は朕を頭首と仰ぐ 」 新論理がかかげられる。
こういう両者の特殊関係は、
憲法の 「 天皇ハ陸海軍ヲ統率ス 」 という条項で、制度的にいっそう補強される。
陸海軍を統帥するものは直接天皇であり、それ以外のものは介入することができない。
このような制度と倫理は、明治・大正・昭和としだいに強調されてゆく。
軍人は天皇によって特に選ばれたものとなる。
この光栄にこたえるため、軍人たちの間では、
幕末期の勤皇意識が呼びもどされ、精神的国体観が呼び起される。
斯くて、
元首と国軍を繋ぐものは、近代国家の契約観とは異質な、宗教的絶対忠誠観となってゆく。
こういう経過からするなら、
青年将校達が 「 天皇帰一 」 を唱え
「 君側の奸 」 を除去しようとするに至るのは自然なことだったと謂えよう。

青年将校らの天皇への忠誠心は、主観的には至純なものであったろう。
只 彼等は、自分達の忠誠心を絶対化してしまった。
彼等は、天皇も亦 腐敗した元老重臣を斬ることを欲していると考えた。
天皇権力を正しく行使し得るものは、青年将校を中心とする軍隊運動だけであると考えた。
ここに至って、彼等の忠誠心は傲慢なものとならざるを得ない。
彼等がそれに気づいた様子はあまり見当たらない。
その点、彼等は近代的意識家の素質を欠いている。
おそらく彼等は、忠誠心の至純さという主観的な内的倫理にだけ生きていたのである。
日本の陸海軍は、天皇の軍隊であった。
そして 天皇と軍隊の関係は、その制度においても倫理においても、他の近代国家とちがった特殊なものであった。
それは しばしば、
「 万邦無比 」 とか 「 国体の精華 」 と 称されて 益々昂揚されたものであったが、
この特殊世界における純粋培養体は、その独善性を含めて 青年将校だったとも謂える。
天皇が自分の統帥する軍隊に要求する制度 と 倫理の純粋結晶の一つの現れが青年将校であった。
青年将校を生んだのは天皇であり、それは天皇の生んだもののなかの 「 傑作 」 であった。
二・二六事件の真の主役は天皇であった、と謂った意味の一つはそういうことでもある。

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