事件が終息して後、
三ヵ月たった
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五月三日の帝国議会
臨時議会の開院式に臨まれた天皇はその勅語のなかで
「 今次東京ニ起レル事件ハ、朕ガ憾ミトスル處ナリ 」
と仰せられたことである。
現在では考えられないほど、
勅語が国民に大きな影響を与えていた当時のことである。
この勅語が
二・二六事件に対する国民感情に水をさしたことは否めない。
今までの勅語に例を見ない
「 朕が憾ミトスル 」
という文面を読んだ瞬間
なにか一沫の肌寒さが背中を走るのを感じた記憶がある。
・
勅語に不穏な批評を加えることなど以ての外であった当時、
口外することはなかったが それをわざわざ内大臣の湯浅倉平に進言した勇敢な人がいた。
国家主義運動の論客、橋本徹馬である。
この勅語が新聞に載った数日後、橋本は内大臣府に湯浅を訪ね、
勅語について、こう進言したという。
「 あの勅語の中に朕の恨みとする所 というお言葉があるが、
ああいうお言葉があると、
叛乱将校達に対し、天皇の深い憎しみがかかっていることが、明らかに看取せられるが故に、
いわゆる皇道派と統制派の相剋が一層ヒドクなる。
殊に それが下々にいくほど鋏状に甚だしくなって、
軍内部の相剋が激しくなることを、お考えにならなかったのでしょうか 」
湯浅は
「 憾みとする所とは、遺憾に思うということである 」
と反駁(ハンバク)するが、
橋本が、
「 陛下が皇道派の事を憤っておられるぞということになって、
統制派は威丈高に皇道派に圧迫を加える 」
という予測に服して
「 ではどういう言葉を用いればよいのか 」
と 問う。
橋本は、
「 あのような場合は、
こういう事件が起ったのは、皆朕の不徳による
と 仰せられるべきものです ・・・・
もし今度の勅語が朕の憾みとする所というお言葉の代りに、
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか。
皇道派も統制派もともに、そのお言葉の前に恐懼して
われわれの至らぬために陛下が不徳だと仰せられた、
これは相すまぬことだと相互に深く反省し、
理非はどちらにあろうともこの上相剋をやって、
陛下に御心配をおかけしてはならぬと思って、
相剋が治まる方向に向かうでしょう 」
橋本はさらに語を強めて、
古来 国に不祥事が起った場合は、
如何なる場合でも、「朕の不徳による」 と仰せられている。
昔の聖天子は天災地変に際してさえ、
朕の不徳によると仰せられた、として湯浅を納得させている。
・
橋本からその話を聞いた将軍たちは涙を浮かべて
「そういう勅語を賜わったら、これほど有難いことはなかったのに」
と残念がったという。
橋本はこの文章のなかで、
「 皇軍はすでにあの時に亡んだ 」
として、当時の陸軍の上層部を非難し、
「 彼等を銃殺のために撃ったあの銃声は、
実は皇道精神の崩潰を知らしめる響であったのである 」
と、暗に天皇や宮中の側近のなされ方を批判している。
・
これは何も民間の一思想家だけではなく、軍人のなかにも内心、
この批判に近い感想を抱いた人もいた。
当時、近衛歩兵第三聯隊の隊付中佐であった岡崎清三郎(二六期)は、
晩年取材に訪れた私に対して、
「 私はあの当時、近歩三の隊付中佐をしていた。
私の隊から中橋基明が出ているんだ。
あとで高橋是清の邸に謝罪に行った。
聯隊長は夫人や遺族に合わせる顔がない、どの面さげて行けるのか、
と言われて悄然としておられるから、私が代理で行った。
さんざん皮肉を言われて、顔も上げられなかったことを覚えている。
私は、二・二六事件には絶対反対だ、軍人は政治に係るべきではない。
まして陛下の大命なくして兵を動かすことなど、以ての外、
言語道断の所業だと憤慨したものだ。
しかし、陛下は別だ、
殺した者も、殺された者も、皆等しく陛下の赤子だ。
まして私怨(シエン)や私情で暗殺したのではない。
やや残酷な殺し方はしているものの、
戦場体験のない青年士官では止むを得まい。
二・二六事件の際の天皇陛下の御言葉には、腑に落ちない点が多い。
まさかあの謹厳な本庄大将がウソを書くとは思われない。
本庄証言で見る限りでは、
陛下は逆上なされて冷静な御判断ができなくなっていたとしか思われない。
あの際、陛下が冷静に臣下の進言を裁かれ、
禍を転じて福となすよう公正な御裁断を下されていたら、
その後の一群の幕僚の暴走を抑えて、
恐らく翌年の支那事変は起らなかったであろう。
あるいは中共の謀略があったとしても、武力衝突は拡大せずに収まった筈である 」
と、感想を洩らした。
たとえ敗戦後の感想であるとしても、
天皇絶対教育で育った元将軍にとっては、
皇軍敗亡の一因となった陸軍の暴走は、我慢がならなかったものと思われる。
その暴走は橋本徹馬の文章の言うように、
天皇の一方に偏した御言動に力を得たものである・・・
・・須山幸雄著 作戦の鬼 小畑敏四郎 から
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『 朕のうらみとする 』 とのお言葉
叛乱将校達が縛(ばく)についた後の統制派軍部の態度は、
世上の言論取締りのうえにおいても、陰険と苛酷をきわめた
新聞雑誌の記事は厳重に検閲せられ、
いささかたりとも叛乱将校達に同情めいた記事を載せたるもの、
或は軍の発表せざる機微な情報を伝えたものは、
片っぱしから発売を禁止せられたうえに、憲兵隊の取調べを受けた。
また、平素多少たりとも叛乱将校達のなかの誰れかと親しみのあった者は、
軍人たると民間人たるとを問わず、残るところなく検挙せられた
個人の親書も検閲を受け、二・二六事件の消息を伝えた者は、
ことごとく呼出しを承けてその出所を追及せられたが、
なかにも麹町内幸町の〇〇料理店で、
ある学生が二・二六事件の話しをしていた際のごとき、
私服憲兵にそれを聞かれて拘引せられ、
その消息出所を同学生の母親以下、
芋づる式に十六人まで追及検挙せられた事実等もあって、
叛乱将校達にたいする暗黒裁判進行中の世上は、
陰鬱な空気に充ち満ちていた
かかる空気のなかにあつて、
同年(昭和十一年) 五月一日、
広田内閣のもとに帝国議会が召集せられたが、
同四日の開院式に臨まれた陛下の勅語のなかには、
「 今次東京に起れる事件は、朕の憾みとする処なり 」
という お言葉があつた
憾みは恨みに響く
この御一言が、
その頃進行中の叛乱将校裁判に如何なる影響をおよぼしたかは、
多くいうにおよばぬであろう
その後のある日私は、
湯浅内大臣を、宮内省の内大臣府に訪問して所見を述べた
私が湯浅内大臣に面会した節、最初に持出した問題は右の勅語のなかの、
「 朕の憾みとする処なり 」
というお言葉についてであった
「 一体あの勅語は、誰が陛下に奏請したものであるか
あの勅語奏請の責任者は、内大臣たるあなたですか 」
湯浅内府は答えていう
「 あの勅語の奏請は政府の責任であつて、
私の与(あず)からぬところである
しかしあの勅語にたいして、
あなたに意見があるといわれるならば試みに私が承りましょう 」
そこで私はいつた
「 あの勅語のなかに・・・・朕の憾みとする処というお言葉があるが、
ああいうお言葉があると、
叛乱将校にたいし、天皇の深い御憎しみがかかつていることが、
明らかに観取せられるが故に、
いわゆる皇道派と統制派との間の相剋が一層ヒドクなる
ことにそれが下々にいくほど鋏状にはなはだしくなつて、
軍部内の相剋が激しくなることを、お考えにならなかつたのでしようか 」
内府はいう
「 憾みとするところは、遺憾に思うということであるが、
ああいう事件が起こったのを、
陛下が遺憾に思われるのが何で悪いでしよう
あなただつて遺憾に思うでしよう 」
「 遺憾な出来事には相違ないが、それが国民にたいし軍部にたいし、
如何なる影響を与えるかを考えて、勅語は奏請すべきものである
ああいうお言葉があると、
それ見よ皇道派のことを憤つておられるのだということになつて、
統制派は威丈高になつて皇道派に圧迫を加える
皇道派はまた自分達の心事の方が、
統制派よりも遙かに正しいのだという信念のもとに、
これを反撃するということになつて、軍部の対立に油を注ぐことになります
だからあのようなお言葉は、
勅語には奏請してはならぬものと私は考えます 」
・
湯浅内府は例の思慮深げな顔付をしていつた
「 それではどういうお言葉を用いればよいのか、
あなたの考えをいつて御覧なさい 」
「 しからば、御免を被(こうむ)つて申上げます
あのような場合は、
こういう事件が起ったのは、皆朕の不徳によると仰せられるべきものです
もし今度の勅語が、
朕の憾みとするところというお言葉の代りに、
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか
皇道派も統制派もともに、そのお言葉の前に恐懼(きょうく)して、
われわれがいたらぬために、陛下が不徳だと仰せられた
これは相すまぬことだと相互に深く反省し、
どちらに理があるにしてもこの上相剋をやつて、
陛下に御心配をおかけしてはならぬと思うて、
相克が治まる方向にむかうでしよう
今度の勅語はその逆であるから、
これから一層軍部内の相剋がヒドクなるでしよう 」
このとき湯浅内府は小声で、
「 陛下が遺憾に思われたということがどうして悪いか 」
とつぶやかれた
そこで私は、さらにいつた
「 国家に不祥事が起った場合には、わが国柄のうえからいえば
( 明治天皇の前記の御宸翰を拝読してもわかることであるが) 如何なる場合にも、
朕の不徳によるという勅語を奏請すべきです
昔の聖天子は天災地変にたいしてさえ、
朕の不徳によると仰せられて、御位(みくらい)を譲られた方もある
こんどの勅語のために、
恐らく軍部内の相剋がますます盛んになつて、国家が禍をこうむるでしよう 」
私と湯浅内府との勅語問答は以上で終った
・
さきに私は、天皇は真理すなわち、造物主の意思の体現者であるといつた
その天皇が国家の一大不祥事にさいして、
一方に憎しみのかかるような勅語を下さるべきではないくらいなことが、
当時の広田首相以下の各大臣、西園寺元老以下の各重臣らに
わからなかつたのであろうか
不祥事が大きければ大きいほど、
天皇は造物主そのままの無限の大愛をもつて、
相剋せる両派の迷妄をさまし、その良心を引きだして、
これを融和せしめる意味にかのう勅語を賜るべきであり、
そこにわが天皇政治が他国にはあり得ざる、
万邦無比なる所以が存するのである
しかるに、当時の輔弼の責任者達が、
わが立国の本義を解せざる機関説派であつたがために、
かかる大事な勅語奏請の道を誤るという、失態を仕出かしたのである
・・・このときの勅語問題は、日本歴史上の一大痛恨事であつたといえよう
・・橋本徹馬 『 天皇と叛乱将校 』 から