今日は仕事が休みなのである。
営業日であるが休暇を取った。
工場勤務時代は休暇など殆ど取ったことがなかった。
休日出勤も多くかったが、長時間労働対象者としてリストアップされ、本社に呼び出されて、叱責されるのである。
叱責されるだけでなく、嫌味や皮肉も言われる。
私が工場時代の前職場を去った後に、その職場は増員されたが、そもそも管理者が長時間労働を強いられる環境に置いているという認識が、本社の人には全く無いと思ったものである。
数字だけで判断されることが評価の対象となる今の成果主義の弊害だろう。
今の職場はほぼ定時で終わるので、それまでの忙しさからすると気が抜けるが、その反面、気持ちに余裕が出てきて、いろいろなことに目を向けられるようになった。
人生過程や日々の生活も、プラスやマイナスだけということはなく、プラス、マイナス=ゼロで、相殺されるものであることが実感として感じられるようになってきた。
だからちまたに氾濫している、成功法則だの引き寄せの法則などに飛びついても、無駄なのである。
得をしようとするといつかは足元をすくわれるものである。
最近、「漢字筆順ハンドブック」なるものを買った。
このハンドブックで、漢字のおさらいをしようというわけだ。
きっかけは、手書きで漢字を書く機会がめっきり減ったことで、漢字を正しく書けないことが出てきたからだ。
1985年頃にワープロが普及し始め、パソコンで文字を打ち込むのが当たり前になるようになってから、手書きで文章を書く機会が著しく減った。
思えば、1985年頃に家庭用のワープロが発売された時、電子機器音痴の私でもこれに飛びついた。
東芝の「ルポ」という製品を買った。当時の価格で10万円以上だったと思う。
きっかけは、ワープロが出る前までの日本語のタイプライターの印字に関心があったからだ。
印刷屋に頼まなくても、自分で操作して活字を打てるということが凄いな、と思ったのである。
しかし難しい字はときおり手書きされていることがあって、そこだけが違和感を感じた。
しかしワープロは簡単に活字を打てるし、登録されていない難しい漢字も作ることができる。
当時アルバイトとして熟講師をやっていたので、教材はこのワープロで作った。
1987年に就職したときは、勤め先の会社でやっとワープロ、それもワープロだけしかできない大きな筐体のものが導入されたばかりの頃だった。
今でいうパソコンは無かった。
この時代はまだ手書きが主流だった。
手書きが主流だったから、目にする文書を見て、人による筆跡の個性が多様で面白いと言えば面白く感じたものである。
人の筆跡とその人の性格の関連性というのは、或る程度はあるものだと思う。
工場時代に管理部門のある方の字が、みみずがくねったようなひどく崩れたものだったが、その方の性格もなんかずるくて意地悪なところがあった。
また同じく工場の製造部門の方に、ちょっとこういう字を書く人は他にいないのではないかと思うほど、力の入った、剛直かつ、先端が特徴的に跳ねるような個性的な字を書く人がいたが、その方の若い時は物凄く怖い人だった。
じゃ自分の書く字はどうなのか、というと、わりに几帳面な字ではないかと思う。
これには親父の影響がある。
小学3年生の頃だったけど、ある時、親父の字を初めて注目して見たことがあって、その字体がとても几帳面だったのだ。
それまでの私は、その頃の同年代の子供たちに比べて字は下手な方だった。
しかし親父の字を見て感心したのであった。
こういう字を書いてみたいな、と思って、それから親父の字をまねるようになったんですね。
親父は根っからの几帳面人間だったけど、私は親父に似ず、生来のずぼら人間だったから、性格はそのままで、字だけが几帳面になった、という感じかな。
その後、小学4年生の時に近所の習字教室に通うようになったが、この時の女性の先生がとても優しくて、出来上がりを持っていくと、いつも笑顔で褒めてくれたのだ。
それまで学校の先生に褒められるどころか、ダメな子供としてしか扱われていなかった私が、この体験で字に関してはすごく自信を持てるようになったんですね(昔の小学校低学年時代の通信簿を実家で見つけて見たことがあったが、先生のコメント欄に、積極性がなくて困るとか、やる気の見られないお子さんですね、とかひどいことが書かれていた。先生から絶賛されていた姉とは全く対照的)。
しかしこの体験がきっかけで、運動なども得意になっていった。
子供を褒める、ということは絶対に大切なことだ。
それも優しく、本心から褒めてあげることだ。
私は子供時代のこの体験から、これがこの年代にとって最も重要なことだと確信している。
大人になって生きづらい人生を送るはめになったとしても、小さいときにわずかでも、こういう体験があったならば、立ち直れる可能性が高い。
子供時代に褒められることなく、いつもお前はダメなやつだと言われ続けていると、間違いなくその子は、生涯、自分が本当にダメな人間で、人の迷惑になっている悪い人間なんだ、と現実と全く異なる想念に苛まれて人生を終えることになってしまうであろう。