緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2020(3)

2020-01-12 00:12:10 | 音楽一般
2.マンドリン合奏


マンドリンの弦って金属なので、聴く人にとっては好き嫌いが分かれると思う。
私は元々ギター弾きで、ギターの音の魅力をそれなりに知っているので、マンドリン合奏の場でも、あまりマンドリンの音に関心を示す機会は無かった。
しかし、マンドリンの生の音で心底美しいと思ったことが過去に2回ある。
一つは学生時代に遡るが、大学の600番棟と呼ばれる古い木造の部室から聴こえてきた、鈴木静一の「交響譚詩 火の山」のヴィヴァーチェが終ったあとのあの旋律であった。
このマンドリンの旋律が、たまたま廊下を歩いていて聴こえてきたとき、私は思わす歩みを止め、しばしその美しい音に聴き入った。
これは大きな衝撃だった。このときほどマンドリンの音が美しいと思ったことは無い。
この時の出来事をきっかけに私はギター曲で、この旋律のような曲が無いか探しまくった。
二つ目は、昨年の所属する社会人マンドリンクラブの定期演奏会の曲、ビゼーのカルメンの間奏曲(Intermezzo)の冒頭からしばらく続くマンドリンの旋律を聴いたときだった。
本番当日のリハーサルでの演奏であったが、持ち場であるギターの分散和音に対する意識よりも、聞こえてくるマンドリンの音そのものに集中してしまった。
あまりにも美しく、何かその音だけが舞台の空間に響いているように感じた。

マンドリンで美しい音を出すことは難しいと思う。
金属弦であるが故に音に感情を乗せるのが難しいのだと思う。
ギターはその点、直接指で弾くし、鍛錬は必要ではあるが、比較的感情を音を介して伝導しやすい。
マンドリンの音が大分分かってくるようになってきたが、音に感情を乗せられるかどうかが、優れた奏者を見極めるひとつの着眼点だと思う。
音に感情を乗せるということは、全ての技巧を乗り越えて初めてそのスタートラインに立てるのではないか。
だからこれを実現出来ている人は、並大抵の練習ではないということなのだろう(これは楽器が好きでないと出来ないことだが。また先天的に感受性が豊かであることも必要な要素だ)。

昨年の社会人マンドリンクラブ定期演奏会で弾いた曲の中では、鈴木静一の「カンタータ レクイエム」が最も弾き応えがあった。
鈴木静一の曲の中でもマイナーな曲であるが、素朴な美しさがあった、
冒頭の悲痛さから、少し明るい雰囲気に展開する部分、ギターパートでいうとB♭の分散和音が入る部分であるが、この部分が弾いていて最も気持ち高揚した。







何とも形容し難いが、とても優しい気持ちなのである。この和音がこの気もちの全てを現していると思った。何も心配せず、安心していいんだよ、と言う気持ち。過去に対する回想により引き起こされる思い。
人を「想う」という気持ちはこういうことなのだと。
こういう繊細な気持ちを音に変換出来るって凄い。
とにかくこの曲を弾けただけでも貴重な体験だった。

鑑賞としては、社会人団体と学生団体のいくつかを聴いた。
中央大学マンドリン倶楽部の定期演奏会は夏も冬も他の行事と重なって聴きに行くことができなかった。
社会人団体ではコンコルディアが一番良かった。
熊谷賢一や歸山栄治といった邦人作曲家の難曲を積極的に取り上げている団体だ。
私の学生時代に弾いた作曲家と重なる。

そして昨年の鑑賞面での大きな出来事としては、思いもかけない全く偶然なことであったが、私が学生時代に所属していた大学マンドリンクラブの1984年の定期演奏会の録音テープが見つかったことだった。



当時の大学の先輩たち(マンドリンクラブとは別の)に定期演奏会を聴きにきてくれるようお願いしたが、先輩の一人が録音してくれたのだ。
しかしそのいただいたテープは母校の室内管弦楽団の演奏と取り違えていた、とばかり思い込んでいた私はこの時の定期演奏会の録音は無いものだと思い込んでいたのである。30数年間。
それが昨年たまたま、ラゴヤの弾くアルベニス、コルドバの録音テープを探しているときに偶然発見されたのである。

この古いテープをソニーの中古で買ったポータブルカセットプレーヤーで再生してみた。
冒頭は、H.Lavitorano作曲の「レナータ」序曲だった。
この曲はおととしの母校マンドリンクラブ50周年記念演奏会でも弾いたが、イタリア人作曲家の曲の中でも最も好きな曲の一つだった。
テープを再生してしばらく経つと、驚いた。
意外にも、物凄く上手い。
そして生命力、躍動感、感情パワーに溢れた瑞々しい演奏だった。
技巧レベルも高い。
正直びっくりした。
母校の演奏がここまでのレベルだとは思わなかった。
このとき思ったのだが、母校の自分たちの演奏を録音したものを聴き機会がなかったため(反省会で1回聴いただけ)、自分たちの演奏のレベルを客観的に評価することが出来なかったのである。
5年くらい前から関東地方の大学のマンドリンクラブの演奏会を聴くようになったが、このテープを聴くまでは、母校の演奏は関東の学生団体のトップクラスよりも劣っているとずっと思ってきた。
しかしこのテープを聴き終わったとき、そのコンプレックスは完全に払拭され、それどころか母校の方がより聴き応えがある、一歩も二歩も上を行っていると思うようになった。
ちなみにこのときのプログラムは下記のとおり。

第Ⅰ部
「レナータ」序曲 H.Lavitorano作曲
「聖母の宝石」間奏曲 Wolf Ferrari作曲 鈴木静一編曲
「ジェノヴァ」序曲 Raffaele Calace作曲 中野二郎編曲

第Ⅱ部
剣の舞~舞踏組曲「ガイーヌ」より Aram Khachaturian
ソルヴェーグの歌 Edward Grieg作曲 中野二郎編曲
歌劇「カルメン」組曲 Georges Bizet作曲 
 1.前奏曲
 2.アラゴネイズ
 3.ハバネラ
 4.アルカラの竜騎兵
 5.終曲
歌劇「仮面」序曲 Pietro Mascagni作曲

第Ⅲ部
序曲 ニ短調 Salvatore Falbo作曲
大幻想曲 「幻の国」~邪馬台~ 鈴木静一作曲


第Ⅲ部の「序曲 ニ短調」と「幻の国」が本当に凄かった。
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジエリやマリヤ・グリンベルクの弾く、ベートーヴェンのピアノソナタ第32番を聴いた後の、汗だくの開放感を感じさせるような、演奏者たちの腹の底から湧き起ってくるような凄まじい、炸裂するようなパワーに溢れていたのである。
感情パワーだけではない。技巧も素晴らしかった。

言っちゃ悪いけど、現在の学生団体に比べて、当時の母校の感情的パワーは何十倍も強いと言っていい。
私の学生時代を思い出しても、最後の最後までのパワーを絞り出すように演奏していた。
パッション、情熱の力は比較にならない。
(はっきり言って当時の学生のパワーは凄かったですよ!)
今まで学生団体の演奏会の感想を記事にしてきたが、その記事を読み返すと、何か物足りなさを感じたと書いているものが多い。
この1984年の母校の録音を聴いて、その意味が明確に分かった。

マンドリンオーケストラって、このパッション、情熱の力が無いと、絶対に聴衆を感動させられないと思う。
マンドリンオーケストラの最も優れた特質は、撥弦楽器でしか実現できない、弾き手の体内の核から発っせられる感情的、情熱的パワーであり、そのパワーと、同時に淀みない技巧、細部まで練られた音楽表現の融合により優れた演奏が生まれるのだと思う。

さて、今年は2年前に初めて参加した、5月に新宿で開催される大規模演奏会に再び参加することになった。
4曲演奏するが、うち2曲は学生時代に演奏した曲だ。
しかし30数年のブランクがある。
この2曲のうち、1曲はマンドリンオーケストラ曲の中での最も人気のある曲で、演奏機会も多い。
ここ数年この曲の生演奏を何回か聴いたが、正直なところ満足のいくものはなかった。
上手いけど、やはりパッションが足りない。
聴き終えた瞬間、上手い、と感じても、その後、その感動がずっと残っていかない。
聴き手の心の奥まで演奏が、喰い込んでいないのだ。

この人気曲を名演と呼ばれるまでに仕上げるのは、並大抵の努力では無理だと思う。
私は学生時代の演奏を思い出し、何がこの曲を聴き手の心の奥に刻ませることが出来るのか、ということを常に考えながら練習していきたい。
この曲の生まれた背景、経緯、物語の展開なども勉強していくつもりだ。

最後に、学生時代の母校の定期演奏会で、この人気曲を演奏したときのコンサート・レビューが「現代ギター」誌に掲載されたので、紹介する(ちょっと自己宣伝めくがご容赦願いたい)。

抜粋。「当夜の演奏を振り返ると、やはり特筆に値するのはプログラムの最後に演奏された「〇〇〇〇〇」であった。メンバー全員の心がひとつとなって燃え上がり、そのエネルギーと感動が大ホールの後方までしっかりと伝わってきた。彼らはおそらく、長い時間をかけてこの曲を練り上げてきたに相違ないが、それにしてもなんと素晴らしい音の世界を創り上げたことだろう。彼らは大勢の仲間とステージの上で音楽を共有し、その感動を多くの聴衆にも分け与えたのである。」
(「現代ギター」1983年2月号。レビュー者:プロのギタリストで東京国際ギターコンクール入賞者)
コメント

雑草の魅力(4)

2020-01-10 22:26:05 | 植物
今日、朝5時50分頃家を出たら、民家の屋根すれすれくらいの高さに、やけに馬鹿でかいオレンジ色の月が浮かんでいた。
こういう大きくてオレンジ色の月はこれまで何度か見たことがあるが、今日見たのは一番大きかった。
ちょっと異様な感じがしたが。
今日の夜勤め帰りに同じ場所を通りかかった時に見た月は、空の高い、いつも位置に白く輝いていた。ほぼ満月。
12時間ちょっとしか経っていないのに随分違って見えるものだ。

さて、しばらく途絶えていた雑草のことを書きたいと思った。
家の周りに咲いている小さな花だ。
名前は分からないが、自然な色がいい。

下の3枚は9月28日と10月5日に撮ったものだ。







この花は夕方になって気温が下がると花がしぼむが、晴れの暖かい日は花びらを目いっぱい開く。

この花も冬になれば枯れていまうだろうと思っていたが、1月に入っても以前と変わらない姿を見せていた。
下の写真は1月3日に撮ったもの。



すごい生命力。
雑草に関心を持つようになったのは、このたくましい生命力を感じたからなのかもしれない。
どんな悪環境、逆境でも、人に踏まれようが、刈り取られようが、再生する。
雑草って、道端の目立たないようなところで、ひそかに咲いているんですね。
そういうところもいい。

表舞台で目立って、自己主張することもなく、おかれた環境でひっそりと黙々と生を全うする。
自分はこういう方が魅力を感じるな。

コメント

米粉パン食べてみた

2020-01-05 22:00:32 | グルメ
ここ数年、体のあっちこっちがかゆくて、夜何回か目が覚めてしまうほどだ。
それでなくても睡眠時間が短いのに、さらに短くなってしまっている。これは辛い。

ひっかくと粉雪が舞う。
乾燥肌というやつか?。
そういえば私の乗っている車(平成7年式)も、樹脂製部品を引っかくと白い粉が落ちてくるようになった。
いわゆる経年劣化というやつだ。
人も同じく経年劣化するという運命にはさからえない。

何とかしようと思っていろいろ調べてみたら、体内に入って蓄積された食品添加物、重金属、トランス脂肪酸などの影響らしいことが分かってきた。
まずこれらの害となる物質が入っている食品を出来るだけ避けるようにした。
今まで、食料品や服はけちって一番安いものを求める傾向があった。
しかしそのツケが今になって表れてきたようだ。

食べ物はちょっとくらい高くても安全でいいものを食べるようにしようと思い始めた。
あと分かったことであるが、パンやパスタなどに使われている小麦もかゆみによくないようだ。
売っているパンにはトランス脂肪酸が入ったものが殆どなので、、まずこれが入っていないパンを選ぶようにしたが(なかなか売っていない)、それだけでなく、小麦そのものがかゆみの原因になるようなのだ。

そこで、スーパーでたまたま見つけたのが、米粉で作ったパン。
「コシヒカリパン」という食パン。
原料は米だ。





これを早速今日食べてみた。
食感はちょっと米のような粘り気を感じたが、オーブントースターで焼けば普通のトーストとあまり変わらない。
味もなかなか。
消化もよさそうだ。

土日の朝はこれに決めた。

【追記20202245】

小麦の中に含まれる「グルテン」という物質が、副腎という臓器を疲労させるらしい。
副腎はかゆみを止めるホルモンが出るようだ。
グルテン、これがかゆみの犯人だ。
コメント

クラウディオ・アラウのライブ録音「ベートーヴェン ピアノソナタ第14番月光」を聴く

2020-01-05 20:29:19 | ピアノ
何年か前に買ったロシアのレーベル、ベネチアのCDを久しぶりに聴いた。




クラウディオ・アラウ(Claudio Arrau、1903-1991)のライブ演奏(1979年、CDのデータが不足していてライブ録音かどうか確証はないが、旧ソ連で録音されたものと思われる)

・ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」
・ベートーヴェン ピアノソナタ第14番「月光」

どちらも素晴らしいが、第14番「月光」の出来は圧巻。
クラウディオ・アラウは1960年代にデッカからベートーヴェンのピアノソナタ全集の録音を出したが、この全集での第14番の演奏はあまり好きになれなかった。
その理由は第3楽章のプレスト・アジタートの速度が遅く、この楽章特有の激しい「情熱」という要素に欠けていたからだ。
その後1950年のアビーロードでのスタジオ録音を聴いたが、この演奏はなかなかだった。
アラウの真骨董である低音の重厚さ、多重的に折り重なるようにして聴こえてくる和声が如何なく発揮された演奏であり、第3楽章の速度も早く、エネルギッシュだった。
ただ残念なのは、第3楽章で細かい破綻があるのと、同じく第3楽章であるフレーズを強調しすぎて速度が変に感じられる箇所があったことだ。

今回聴いた1979年の演奏は、第1楽章は全集の録音よりも早いテンポ。
アラウは下記の部分を徐々にクレッシェンドしていく解釈をとっているが(楽譜はクレッシェンドの指示はない)、この1979年の録音はクレッシェンドがそれまでの録音に比べかなり抑制されている。



驚いたのは編集ミスか、第1楽章最後の和音がカットされ、しかも間を置かずすぐに第2楽章が始まったことだ。
録音での音は非常に悪い(生の音は全く違うと思うが)。
しかし第3楽章は、今までのアラウのイメージをくつがえすような激しい情熱、炸裂するパワーを感じさせるものだった。
しかも流れるようなスピード感のある演奏。今までのどの録音より速度が速い。
これは凄かった。
しかも全楽章とおして完璧な演奏。
この時アラウは70代半ば。このエネルギーはこの年代のものとは思えないほどだ。
年を増すごとにエネルギッシュになれるとは。よっぽど調子が良かったのか。

アラウの「月光」を全集の録音でしか聴いていない方は、必聴の価値が十分にあると思う。
全く違う演奏といっていい。
アラウに対する認識が変わるのではないか。
音が良く、第1楽章終わりの編集ミスが無かったならば、この曲のベスト盤の一つに挙げられると思う。

下は1950年のスタジオ録音のCD。

コメント

今年の抱負2020(2)

2020-01-04 22:24:28 | 音楽一般
以下、ジャンル別の抱負を書きます。

1.ヴァイオリン

元々、ヴァイオリン曲は聴く方ではないが、昨年春にバッハの無伴奏で素晴らしい演奏に出会った。
潮田益子氏の1971年、1972に録音された演奏である。



これより先に、彼女の無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータの1990年代の録音を既に聴いていたが、この1971、72年の演奏の方が正直強いインパクトがあった。

バッハの無伴奏ヴァイオリン曲は3、4年前から聴き比べを始め、これまで20枚くらい聴いたであろうか。
もちろんその中にはシェリングやミルシュティンなどの巨匠も含まれていたが、何故か潮田益子氏の1970年代のこの演奏が最も惹き込まれた。
ソナタとパルティータ全6曲のうち、一番好きな曲はソナタ第2番イ短調BWV1003番であるが、彼女の録音の中でもこのソナタ第2番が一番いい。

ソナタ第2番の中でも第3楽章アンダンテが最も感動する。



潮田益子氏の奏でる音、音楽が自分の心の中に何の抵抗もなく自然に入り込んでくる。
こんな穏やかで静かな曲なのに、なんでこんなに感情が強く湧き起ってくるのか。本当に不思議だ。
バッハの曲は理屈を頭に入れて聴く必要がないとさえ思えてくる。

音楽の演奏って、必ず演奏者の人間としての「核」となるものが自然と現れるものだと思う。
潮田益子氏の場合は、すごく清冽で澄んでいる。まっすぐで淀みが無い。
タッチは強く深い。
よく、人と人の関係で「波長が合う」という言葉があるが、きっと、聴き手の心の「核」と演奏者の心の「核」との間に共通のものがきっとあって、それらが共振しているのではないかと思うときがある。
人はそれぞれ異なる波長を持っているが、同じ価値観だったり、同じ感じ方だったり、何千、何万の中から同じ波長を感じて、その一致、一体感に感動することがある。

そのような一期一会のような出会いを得るためには、たくさんの演奏を聴かないといけないだろう。
運もある。
私の場合、ピアノではマリヤ・グリンベルクとの出会いがそうであった。
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番の最高の演奏を求めて録音を探しまくっていた中で、偶然にも上野の音楽資料室で出会った。
それ以来、彼女の演奏にどれだけ影響を受けたか。

優れた音楽家は万人に受けるような演奏はしないに違いない。
自分の中の「核」から発せられる波長を、そのままストレートに受け止め感じ取ることの出来る聴き手がいれば十分だと思っているのではないか。
そういう演奏家は聴衆の反応に一喜一憂しないものだ。
自分の演奏スタイルを変えることもないであろう。自分自身の演奏に絶対的な自信を持っているからだ。

よくインターネットで特定の曲の名演、名盤紹介の記事を見ることがあるが、そのような記事の中で、主観丸出しの選定、評価をしているものに惹かれる。
それはその人が選んだ演奏が誰が何と言おうと、その人にとって決定的な影響を与えているからだ。
その選定、評価が自分と異なっていても、それでもそのような記事は読みがいがある。
反面、記事を書いている人の主観が感じられない、客観的(世間一般的と言うのだろうか)な選定、評価をしている記事もあるが、参考にならない。
本当にその演奏に影響を受けているのだろうか、という感じがしてくる。

今年もヴァオリンはバッハの無伴奏を聴き続けようと思う。
今日、注文していた江藤俊哉の1974年の録音CDが届いたので、さっそく聴いている。
コメント