緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2020(1)

2020-01-03 21:40:25 | 音楽一般
このブログを始めて9年目となった。
年々、訪問、閲覧して下さる人の数が増え、昨年はかなりの数となり、ちょっと浮ついた気持ちから訪問者数や順位などのデータを2日間だけ公開した。
しかしすぐに止めた。虚しい。
原点を忘れないようにした。データに一喜一憂するために書いているのではないと思った。
書きたいときに、出来るだけ気持ちに忠実に書く、見返りは期待しない、これが原点だった。
(こんなに真面目に考えなくていいのに、と思うのに)

今までよく続いていると思うが、記事を書いた翌日に、いつもこんな記事書かなければよかったという気持ちになる。何故か。
それは、自己中心、自己満足、自己陶酔、自己顕示、等々、あくまで自己、自己、....という気がしてくるからだ。
そして何よりも言ってることが堅過ぎではないか。また、暗い。
読んでくれる人の中には、息が詰まる程の堅苦しさを感じている方もいるに違いない。
しかしこれが私の文章なのだと開き直る。
あくまでも常識の範囲内であることを前提に、自分の思ったこと、感じたことはストレートに書いてきたつもりだ。
今年もこのスタンスでいくつもりだ。
あたりさわりないことを軽いのりで上手く書く方が受けがいいのかもしれないが、私にはそういう器用なことは出来ないし、ときに私生活にまで内容が及ぶことがあるが、許される範囲内であれば、正直に書いた方が自分にとってはそのほうがいいのかもしれない。
何と言い訳しても、自然にこういうスタイルになってしまう。

このようなブログではあるが、今まで閲覧して下さった方々には感謝したい。
そして更に、私の記事に対し肯定的なコメントを下さった方には、本当に感謝に堪えない。
日々の日常が楽しくなるのも、このような暖かいコメントをいただくからであり、またコメントをきっかけに想定外の出来事を引き寄せることができたこともある。

昨年は、父が亡くなった。
8月初めの夜、兄から父が危篤であることを電話で知らされた。
急いで飛行機を予約したが夏休みのせいか、夕方4時まで満席状態。
翌日の早朝、父が死んだことを告げられた。
朝一番の新幹線に飛び乗り、半日かけて北海道の実家についた時には、既に葬儀屋が打ち合わせに来ていた。
1年近く入院していた父の遺体が、病院から実家の父のベットに運ばれていた。
父は顔は白く、痩せ細っていた。
北海道なのに東京のようにばかに暑い日だった。
翌々日、女性の納棺士が父を綺麗にして棺に納めてくれた。
大変な仕事だなと思った。
葬式後、実家から車で20分くらいのところにある、焼き場、そこは周りが森林で囲まれた、誰も立ち寄らないような場所にあったが、そこで父の亡骸を最後に見たときはさすがにつらかった。

父は生前、あまりしゃべらない人だったから、父が子供の頃から思春期にかけての戦争時代のことや、父の両親のことなどを聞く機会は無かった。
私が幼い頃には既に父の両親は他界していた。
父の死の2週間後のお盆休みに兄と、父が20歳まで過ごしたという生れ故郷の小さな漁港のある町を訪れた。
寂れた、何を産業にしているかも分からいような小さな町だった。
しかし素朴な美しさがあった。
父は都会人ではなかった。しかし田舎者という雰囲気は全くなかった。
父は最終学歴の旧制中学では成績が優秀で、学校の先生になるために大学に行きたかった、らしいことを聞いたことがあった。旧制中学の先生が「お前なら大丈夫」と太鼓判を押していたようだった。
しかし父の家が貧乏だったので、断念せざるを得なかった。
父の葬式で、ある親戚が「あなたのお父さんは、とても仕事の出きる人だったんですよ」と言っていた。その方は印刷業を経営している方だったが、父は外部の業者に発注する仕事をしていたので、多分のこの親戚の会社に発注したことがあるのだな、と思った。
父は自分の仕事ことも殆ど話さなかったので、こういう時に父の意外な一面を知るのはある意味で驚きでもあった。見合い結婚した母と知り合うきっかけも、この時初めて、親戚から知らされたくらいだから。
父は寡黙で、几帳面で黙々と実行するタイプだった。
親戚や近隣にも人情が厚く、信頼されていたようだ。
ただ私が父にもし許されるのならば言いたかったのは、何でもっと自分の子供に関心を持ってくれなかったのか。外の人以上に。
いや関心は強く抱いていたのかもしれない。ただそれをストレートに表現することの出来ない人だったのかもしれない。
生前の父の私に対してとった行動は、良くも悪くも私の記憶に蓄積されている。
その記憶の一つ一つを思い起こして、父の取った行動の重みを感じ直さなければ、父を本当に理解することにはならないだろう。それには時間がかかる。
しかし親を正しく理解するには必要な作業だと思う。

昨年の思い出と言えば、父の死という出来事があまりも強すぎたが、趣味の面では社会人マンドリンクラブの定期演奏会への出演、太田キシュ道子さんのピアノ・トークコンサートを聴きにいって、太田さんと初めて会話したことなど、楽しい思い出も蘇ってくる。
それぞれの趣味の分野で、今年は何をしていこうかなどについては次回以降に書いていきたい。

今回の年末年始に実家に帰省し、普段の倍近い睡眠をとった。
毎日4時間半の睡眠時間はさすがにきつい。
今年はもっと睡眠時間を確保したい。
姉も子供(中学生)を連れて帰省し、兄弟そろって年末の僅かなひとときを過ごしたが、兄弟の仲がいいのは幸いだ(子供の頃は随分喧嘩したけど)。
とくに姉には私が最も辛かった20代の頃に随分助けてもらったからな。
姉も今大変みたいだけど、今度は私は恩返しだな。
それはそうと、今年5月に出演する大規模演奏会に、姉とその子供たちが聴きに来てくれると言ってくれた。前回も聴きにきてくれたが嬉しい。

この正月に邦画を4本見た。
3本は「男はついらいよ」シリーズで初期の作品(1970年代前半)。
そして昨日兄からDVDで見せてもらったのが、小栗康平監督の「泥の河」。
(ちなみに音楽は、あの現代音楽作曲家の故、毛利蔵人氏。クラシックギターの音が何とも切ない)
この「泥の河」はすごくよかった。おすすめ。
白黒映画だったので、1970年以前の映画だと思ったら、1981年の製作。
物語の舞台は昭和31年(1956年)の大阪。
敗戦の廃墟の中から這い上がってから11年目の日本だった。
まだ日本が貧しい時代だった。
この映画で描かれる人々はとても貧しいが、とてつもなく優しい人々がこの時代にいたことが伝わってくる。
この映画に出てくるうどん屋の夫婦のような人が、すくなくとも私の少年時代まではいたことは間違いない。
今、このような人を見いだすことはない。
貧しくても心はまっすぐで、純粋で、優しい。
困っている人に与えることを損だとは全く考えない。
一日一日を精一杯生きていて、それ以上のことは求めない。
野心、立派、贅沢、華麗、高級、体裁、評判、出世、物欲、などのようなはかないものとは全く無縁の人々である。
しかしこの人たちから伝わってくる生と愛情のエネルギーはすさまじい。
私が求める理想の人生もこんな感じかな。まあ無理かもしれないけど。

実家の自分の部屋で、懐かしい35年前(昭和60年、1985年)の年賀状を見つけた。
いつ買った(貰った?)か分からない、アイヌの絵柄の葉書入れに刺さっていた。



赤茶けた年賀状。
裏をめくってみたら、中学時代の友達や、大学時代のマンドリンクラブの同輩、先輩、後輩からのものであった。
ゼミが大変だね(確かにきつかった)、という同情や、その頃住んでいた、超おんぼろお化け屋敷風アパートにまつわる思い出(ちょっとここでは言えない)などが書かれていて、懐かしさがこみ上げてきた。
結構自分もバカやっていたんだな。
後輩から、今年の卒業演奏会のメイン曲は鈴木静一の「皇女和宮」です。練習お願いします。などと書かれているものがあった。
この曲、あまり記憶に残っていないのだが、5月に演奏するためのダウンロードした楽譜のギターパートを弾いてみると、とても美しい曲なのだ。
とくにユニゾンのギターの旋律とその後の和音の美しさは際立っていて、いつまでも心に残り続ける。
(下は学生時代の楽譜)





あと正月に北海道の日本酒を飲んだ。
増毛町の国稀酒造の「国稀」純米吟醸と、新十津川町の金滴酒造の「新十津川」特別純米。





いずれも吟風という北海道の酒米を使った酒だ。
今流行の、甘い果実酒のような華やかな吟醸香のするような酒ではなく、米の味を楽しむ伝統的な日本酒の部類だ。
これはなかなかの味だった。
増毛も新十津川も20年前にJRの周遊券を使って走破したことがあった。
超ローカル線。
こういう素朴な美しさを持つ地域は決して本州や外国の資本を受け入れてはならないと思う。
増毛では、国稀酒造の酒蔵を見学した(酒は買わなかったが、酒に使う水を飲ませてもらった)。

【追記20200013】

父は生前のある日、「〇〇(私のこと)が幸せになるまでは、死ねないさ」と電話で言ってきたことを今、思い出した。
父は遺言も何もメッセージを残さないで死んでいったが、やはり子供である私の幸福を考えてくれていた、ということか。
父との記憶の断片を整理しつつ、自分が幸せになることを本気に考えなければならないな、とも思った。
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