今日、思い出の町を訪れてきた。
そこは私が就職で東京に出てきて、28まで5年間過ごした街である。
思い出といっても楽しかった思い出では無い。
実に暗く、苦しかった思い出しかない。東京砂漠の暗黒の記憶だ。
その思い出の街を訪れたのである。
その街はJR京浜東北線蒲田駅から東急線に乗り換え2駅目にある。
この駅から歩いて12,3分の所に、かつて勤め先の独身寮があった。
大学を卒業後、まず配属されたのが東京の本社だった。
入社式の前日、羽田から直接この本社へ出向き、この寮に住む女性社員が一緒に寮まで連れて行ってくれたのを今でも覚えている。
東京大田区にあるこの寮は男子寮と女子寮の2棟があり、古い2階建ての建物だった。
まかない付きで共同の風呂とトイレ、部屋は6畳か8畳だった。
各部屋の外にプレートがあり、5本の釘が打ち付けてあった。
この部屋に、高度成長期の頃は5人から6人の金の卵たちが詰め込まれていたという。
私がこの寮に入ったときは既に無くなっていたが、寮のすぐそばに工場があったのである。
その工場は昭和40年代に関東某県に移転した。
とにかく古い寮だった。
陽の当たらないこの暗い部屋で5年間を過ごした。
28歳のとき、この寮を取り壊すことになり、出ていかざるを得なくなった時、丁度関東某県の工場に転勤となったのである。
この工場にはついこの前まで26年間勤務した。
この寮が取り壊された後、その敷地は駐車場になった。
30歳過ぎのときに、一度この寮の跡地を見に行った。
寮の鉄の門と表札のみが残され、あとは全て無くなっていた。
でも表札が残っていたのは意外だった。
〇〇株式会社〇〇寮と記載されていた表札である。
今日、20数年振りにこの地を訪れた。
京浜東北線の快速に乗る。
東京を出ると浜松町までノンストップとなる。
しかし私の記憶が正しければ、当時は田町までノンストップだったと思う。
今日乗った列車は蒲田止まりだった。
蒲田駅で降りると、駅直結の東急プラザに寄った。
会社帰りによくこのデパートに立ち寄り、本屋で本を買ったり、衣料品を買ったりした。
安くて庶民的なデパートだった。
衣料品は今はユニクロの売り場に変わっていた。
本屋は昔のままだった。懐かしい。
蒲田駅の外は繁華街だ。
就職して初めてこの蒲田駅近くの繁華街に行った時、なんて臭いところだと思った。
この臭い繁華街で、松屋に入って定食を食べたのである。
東急プラザを出ると、すぐに東急線の改札がある。
ここから2つの路線が出ていた。
東急目蒲線と東急池上線である。
寮は東急目蒲線の2つ目の駅で降りる。
東急目蒲線に乗ろうとして左側のホームに止まっている電車の正面のプレートを見て驚いた。
「目黒」と書いていないではないか。「多摩川」と書いてある。
何で?と思って、自動券売機の上に掲げられている路線図を見た。
目蒲線はどこにも無かった。
代わりに「多摩川線」と記載されていた。
下の写真は池上線。
いつの間にか、路線が変わっていたのだ。
目蒲線は無くなっていた。
私が寮から通勤していた頃は未だ緑色の古い車両の電車が走っていた。
夏は冷房が入らず、扇風機だけだった。
速度も遅かった。
この目蒲線に乗務する新人運転手が、指導役に付き添われて、蒲田駅で「パンタ~、良し!」と大きな声で指差し呼称している光景を何度か目にした。
運転席に入ると、「〇〇、良し!」、「□□、良し!」、「△△、良し!」と、凄い大きな声で機関銃のように声を張り上げていたのを思い出す。まるで昔の軍隊式の教育だ。
当時、この目蒲線で酔っぱらって寝込んでしまい、蒲田・目黒間を2往復してしまったことがあったのを思いだした。
目蒲線ならず多摩川線に乗って、2つ目の駅で降りる。
駅舎は変わっていなかった。
改札を出る前に確か反対側のホームに渡るための踏切があったはずだが、今は無かった。
改札を出てすぐ左側にこ汚い立ち食いそばやがあったが、無くなっていた。
改札を出てすぐ右に曲がると踏切があり、踏切を渡るとラーメン屋があるはずだ。
このラーメン屋はよく通った。
週末は殆どこのラーメン屋で晩飯を食べた。
よく食べたのがみそバターラーメンと餃子のセットと生姜焼き定食。
店員は3人。
50過ぎくらいの縮れ髪のおじさんと、30代後半と思われるイケメンで優しい男と、怖くて人間嫌いな目つきの悪い男の3人でやっていた。
寮の先輩に連れられて初めてこの店に入った時のことを思い出した。
汚い店で、席はカウンターのみ。
初めて食べたのはワンタンめんだった。
先輩はマーボーナス定食を注文した。
3人の店員の中で、イケメンの目の優しい店員がいつも丁寧に「ありがとうございました」と言ってくれた。
その丁寧なあいさつが今でも記憶に残っている。
この店は数年後にリニューアルし、4人掛けのテーブル席も2つ出来た。
果たしてこのラーメン屋が残っているのか。
踏切を渡って左側を見たら、何とあった。
しぶとく生き残っていた。
店も全く変わっていない。
寮までは駅の改札を出て左側に曲がってすぐの商店街をまっすぐ行ったところにあった。
この商店街の入り口の手前にそば屋があった。
古いそば屋で、70過ぎくらいのおとなしい老人が一人で店をやっていた。
なんせ一人でやっているので、注文してから食べ物が出てくるまでとても長かった。
その長さに耐えられず、文句を言う客もいた。
このそば屋では「天ざる」をよく注文した。
贅沢なご馳走だった。当時で千円くらいだったか。
この天ざるの天ぷらがとてもおいしかかった。
今日、このそば屋で天ざるを食べようと思っていた。
しかし、このそば屋はどこにも見当たらなかった。
ちょっと落胆したが、商店街をそのまま進んで行った。
しばらくすると懐かしい店に遭遇した。
金魚屋さんである。
何も変わっていなかった。
この金魚屋の斜め向かいに酒屋があった。
この酒屋でよくエビスビールを買った。
そして正月には、岡山県の地酒、「加茂緑」という銘柄の樽酒を買って飲んだ。
この樽酒が実にうまかった。
今日この酒屋に入ってみた。
当時は40代半ばくらいの主人と、30代後半くらの奥さんが店をやっていた。
70歳すぎくらいの店主と思われる方が店にいた。
まず間違いなく、当時この店にいた主人である。
「加茂緑」はないかと聞いた。
今は取り扱っていないと言われた。
「何故?」 理由はあえて聞かなかった。
福島の酒蔵の原酒を貯蔵したタンクが2つ置いてあった。
試飲させてもらった。だけど値段が高い。
試飲だけで店を後にした。
商店街の中ほどに神社がある。
一度も行ったっことが無い。
この神社の付近に、らあじゃん亭という小さな中華料理店があったはずだ。
この店もよく行った。
らあじゃん麺というちょっと辛い独特のラーメンをよく食べた。
この店は無くなっていた。
そしてこの店も一度も入ったことは無いが、中華料理屋があった。
何も変わっていない。
当時、この店の前で、小さな女の子とこの店の店員とがよく戯れていたのを思い出す。
この店の先に銭湯があった。
寮の風呂は10時までだったので、帰りが遅くなったときはこの銭湯をよく利用した・
この先にパン屋があった。
とりたてておいしい焼き立てのパンがあったわけではない。
しかし当時の私はこのパンが好きだった。
このパン屋のパンをたくさん買って、当時練馬に住んでいた姉の家に遊びに行ったことがあった。
このパン屋もしぶとく生き残っていた。
この先で商店街は終わる。
先述した店以外にも無くなってしまった店があった。
理髪店や本屋、レンタルビデオショップ、たけちゃんという名前の立ち飲み屋などがそうだ。
商店街が終って道路を渡ってすぐのところに、多摩川というそば屋があったが、このそば屋は変わらない店構えで残っていた。
このそば屋にもよく行った。
なべ焼きうどんをよく注文した。
北海道のなべ焼きうどんとは違っていた。
このそば屋の並びに、デイリーヤマザキがあったが別の店に変わっていた。
このデイリーヤマザキで休日の朝食べる、カップラーメン+ゆで卵をよく買った。
驚いたのはこの旧デイリーヤマザキ前で、東急バスが停留所で止まったことだった。
当時はこの狭い道でバスが走っているのは見たことが無い。
このバスを撮ろうカメラのシャッターを押したら、何とSDカードがいっぱいになってしまって撮影できなかった。
このデイリーヤマザキから右に入る道にまっすぐ行って突き当りが寮の入り口だ。
寮の跡地が駐車場となっているはずだ。
寮の手前がタクシー会社の車庫。
この車庫は当時と全く変わっていなかった。
古くて、超おんぼろの車庫。
スマホで写真を撮れることに気付いた。
この車庫の斜め向かいに区民センターがある。
この区民センターも全く変わっていなかった。
この区民センターの隣が寮だった。
門と表札は見えない。無くなっていた。
しかし最も驚いたのは、駐車場だとばっかり思っていたのに、何と建物が建っているではないか。
大型の建物、老人ホームだった。
土地を老人ホームに売却したとは一度も聞いていなかった。
これは予想外だった。
寮の隣に中小企業の工場があったが、これも無くなっていた。代わりに4階建てのマンションが建っていた。
老人ホームのすぐそばに高圧線の鉄塔があった。
そう、思い出した。
この鉄塔が寮の敷地内にあり、この鉄塔のすぐ側は当時の私の部屋だったのだ。
寮のすぐ裏に高層の都営住宅がある。
塗り替えたのか。昔はもっと汚らしい灰色だったはずだ。
この都営住宅が建つ前に、勤め先の会社の工場があった。
寮から、5分くらい歩くと多摩川の河川敷に出る。
多摩川に行く途中に清掃工場があった。
商店街から朝、私服を着た清掃工場の職員たちが通勤で歩いてきたのを思い出す。
多摩川の河川敷に行ってみた。
心が辛くてどうしようもない時、夜、この河川敷によく行った。
夜風にあたりながら、しばらく佇んでいたものだ。
元来た道を引き返す。
この路地の突き当りが寮の門だった。
東急線の駅近くまで来て、そうだ、あのしぶとく生き残ったラーメン屋に入って昔懐かしいメニューを食べようと思い立った。
店の前まで行った。
何と準備中だった。
ドア越しに中を覗いた。
あのあの懐かしい、店員と思われる人が中にいた。
目つきの悪い怖い店員はいなかった。
縮れ毛の店員とイケメンの優しい店員と思われる2人がいた。
直感であの当時の店員だと感じた。
2人とも年を取っていた。
近くのマルエツで時間を潰す。
5時になって店に行ってみたら、まだ準備中だった。
マルエツに戻り、また30分時間を潰す。
5時半過ぎに行ってみたら店は再開していた。
店に入ると店員は2人いた。
縮れ毛の店員はいなかったが、イケメンの優しい店員と思われる人と、30代後半くらいの店員がいた。
カウンター席に座り、メニューを眺める。
みそバターラーメンにしようかと思ったが、生姜焼き定食にした。
注文しようとしたとき、何とあのイケメンの優しい目の店員と思われる店員が私に会釈したのだ。
もしかして私のことを覚えていたのか?。
生姜焼き定食を注文してから、このイケメンの店員を本人に悟られないように観察した。
やはりあの当時の店員に間違いなかった。
年の頃は70ぐらいか。
お互いに年を取ったが、この店員の面影は当時と全く変わっていなかった。優しい目。
注文した生姜焼き定食が出てきた。
凄いボリュームだ。しかもうまい!。
米一粒残すことなく、全てたいらげた。
コップの水を飲み、立ち上がった。
「ごちそうさま」という言葉が出ていた。
私が今まで飲食店で「ごちそうさま」なんて言ったことは殆ど記憶にない。
そしたら、あの当時の丁寧な「ありがとうございました」というあいさつが帰ってきた。
やはりあのときの店員に間違いない。
年を取ったせいか、声は小さくなっていたが、あの時の店員に間違いなかった。