緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2018(1)

2018-01-06 21:30:32 | 音楽一般
このブログを始めたのが2011年の6月だったから、6年半になる。
だいたい週1回のペースで書いてきた。
使っているブログには累積訪問者数がカウントされる機能があり、見てみたら35万近くになっていた。
思えば私のブログはいわゆる自己満足主義。自分の感じたことを出来るだけそのまま書く、というスタンスでやってきた。だから読んで下さる方々の存在、という意識はあまり無かったと思う。
このようなブログではあるが、まずは今まで読んで下さった方々に感謝します。
さらに折に触れ、コメントを書いて下さった方々には大変感謝している。
2018年もこのペースをなるべく維持していきたいとは思う。
元来書くことは好きだし、今年も上記のスタンスを変えずに書いていきたい。
公開型日記である以上、あくまでもマナーを守ることが前提であり、書く内容に気を付けなければならないが、やはり自分の思っていること、気持ちをそのまま書きたい。

この正月休みに実家に帰省し、関東地方に住む姉も子供を連れて帰省したので、わずかな時間ではあったが、久しぶりに家族が揃いくつろいだ。
今年、めいは大学生、おいは中学生となる。
めいはアルバイトをして家計を助けているという。ちょっと前までまだ小さな子供だと思っていたのに、成長した姿を見て月日の経つ速さを実感する。
自分も含め、親しい人が健康でいられるというということは何よりも大切であり、幸福なことだと思う。
昨年は勤め先でシステムの入れ替えがあり、3月から6月初めまで殆ど休日が無かった。
平日は朝早くから夜中近くまで、土日も8時間以上の労働だったので、睡眠をろくに取れなかった。
その後も9月まで忙しい状態だったが、10月以降はすこし余裕が出来た。
更に4月から新しいセクションが新設され、そこの管理者となったため、業務以外のさまざな雑事の処理に追われた。
正月休みの間、12時前には床に入ったが、この時間にまだ仕事をしていたことを考えるとぞっとする。
それでも頑張ってこれたのは、音楽という好きなものがあったことが大きいと思う。
古代人だって生きるために外で狩りや漁をしなければならなかったが、それだけではとても生き延びられなかったに違いない。
だから文明、文化というものが古代から発展してきた。
普段は殆ど意識しないが、好きなこと、やりたいことがある、というのはとても幸運なことだと思う。
ただ思うのは、現代には趣味や娯楽になるものが大量に氾濫しており、どれが自分にとってやりたいものなのかを選択できなかったり、また真に人に幸福感を与えてくれる本物がどれなのか見分けがつきにくくなってきていることだ。
私がもしこの現代に生まれたら、恐らく好きなものを見出せないと思う。ゲームに明け暮れる人間になっているかもしれない。
音楽にしてもドラマ、映画にしても文学にしても、軽くて、表面的なものばかりで、お笑い芸人のうるざいだけのバラエティー番組と合わせてこれらを常にシャワーのように浴びていたら、確実に感受性が破壊され、どれが本物でどれが偽物なのか、どれが自分がやりたいことなのかも分からなくなってしまうのではないか。
正月休みに実家で黒澤明監督の「七人の侍」、「生きる」、「赤ひげ」などの映画を見たが、ストーリー、役者の演技は今の時代の映画と雲泥の差を感じた。
とくに役者の演技は真剣勝負そのものだ。
CGなどに頼る今の映画が情けなく感じる。
「赤ひげ」が最も感動したが、1970年代まではこのような芸術作品がたくさんあった。
文学も毎年、芥川賞だの直木賞だの選出され、賞をとれば〇〇賞作家などとまるで凄い優れた作家のように騒がれるが、読む価値のある本がいったいいくつあるのだろう。
また〇〇賞作家自身も周りからちやほやされるから自惚れて努力しなくなる方もいる。

何故、昔の作品、演奏の方が本物と感じられるのであろうか。
1つは生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた戦争体験者が作者だったことが考えられる。
明日死ぬかもしれない極限の生活の中で、常に真剣勝負を強いられるのは当然であり、そのような体験をした人々が優れた作品や演奏を残したと考えても不思議ではない。
また昔は物や情報が少なく、それらを手にするためには大変な努力をしなければならなかったと考えられる。
音楽を聴けるのはごく一部の裕福な人に限られていた。
ただ一般庶民でも何かの機会に例えばラジオなどで極く稀に音楽を聴くことがあったに違いない。
そしてそのわずかな機会に全神経を集中して一生忘れないように聴いたに違いない。
有り余る程の物や音楽に否応なしにさらされている現代とは全く異なる。

現代の平和な時代に育った世代が、いくら科学技術を進歩させても芸術面では逆に退化させていると言わざるを得ない。
毎年国際コンクールで優勝しても、グリンベルクやミケランジェリのような過酷な青年時代を送った演奏家のようになっていかない。
感受性が退化しているからだと思う。だからうわべだけの上手さだけでとんでもないまがい物を賞賛したりする。

「感受性の退化」、これが優れた作品や演奏に出会わなくなった第一の要因だと思う。
では感受性を取り戻すにはどうしたらよいのか。
まずテレビやスマホは最低限にとどめる。
スマホを四六時中見ている人がいるが、確実に無感動な人間になってしまう。
その空いた時間で、出来るだけ昔の優れた作品、音楽でも文学でもアニメでも見たり聴いたりした方がずっといい。
そしてそれらを鑑賞して感じたことを書いてみる。
ある曲について他人がどのように感じたかをインターネットで探すことがあるが、無難なありきたりなことを書いている記事は見つかっても、感じたことをストレートに書いた記事はなかなか無い。
あとCDのブックレットで、評論家が作品の解説をしているが、たとえば「展開部はフーガ主題を動機的に展開させたもので、変ホ長調にあらわれた主動機が部分動機とともに発展し、さらに転回動機と反進行し、ドミナントに延長終止を付ける」なんていう解説文に出くわすことがある。
これってはっきり言って何の役にも立たない。
これは数学で言えば方程式の解答の解説、文法で言えば、~は主語であり、~は仮定法過去を用い、~は形容動詞になる云々と言っているに等しい。
何でこんな解説を書くのだろうか。
一番知りたいのはその解説者がその音楽を聴いて「何を感じた」か、また作者がその曲を創作した時の時代背景、作者の生活、作者の心境、感情などである。
聴き手が最も知りたいのは、作者が「どんな感情を持って」その作品を創作したか、ということに尽きる。
確かに評論家にとって「自分の感じ方」をオープンにすることはなかなか難しいのかもしれない。
音楽に対する感じ方は人によって様々であり、これが絶対的だと言えるものはなく、下手にオープンにすると同業者等から批評を受ける可能性があるからだ。だから無難な解説に留まっている。
しかしそうではあっても、音楽作品は間違いなく作者のその時の感情が元になっている。
だから聴き手は自らその感情を曲をとおして感じ取るほかは無い。
だから感情を感じ取ることのできる「感受性」が最も重要だと思うのである。

クラシック音楽の聴き方には広く浅く聴く方法があるが、自分は何と言っても同じ曲、同じ演奏家の演奏を何度でも聴く方がいいと思う。
ある特定の曲であれば、できるだけたくさんの演奏家の演奏を聴き比べる方法でもいい。
今までこのような聴き方をしてきてこれ以上ないというほどの演奏に十数ほど出会ってきたが、これらの演奏を聴くと、作品を生みだした人、それを演奏する人の努力の尊さ、人間という生き物の根源的なものに深淵で触れ合う喜びを感じる。

次回以降、ジャンル別に2017年の振り返りと、今年の抱負を述べていきたい。

【追記】
昨日、ヴァレリー・アファナシエフの1991年のモスクワでのライブ録音で、ドビュッシーの「月の光」を数か月ぶりで聴いたが、改めてその素晴らしさに感動した。
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