合唱曲を聴くようになって約7年。
その間、とくに感動した演奏についてNコンを中心に当ブログで紹介してきた。
7年前に聴き始めた時、なんでこの学校の演奏が金賞なのだろうと、首をかしげることが多かった。
長い間器楽を聴いてきたが、器楽の聴き方をとおして合唱曲の演奏を聴くと、聴き手の心の奥まで届き、動かすような演奏は意外に少ないと感じた。
どんな音楽でもそうだが、作った人の気持ちというものがある。合唱にはそれに詩が加わる。
詩は文字の構成体であるが、作った人の気持ち、感情の現れであることは言うまでもない。
作った人には、何か表現したい気持ちがある。伝えたい気持ちがある。
その気持ちを音の組み合わせ、文字の組み合わせにして、芸術というレベルにまで昇華させる。
作った人に託された演奏者は、作った人の気持ちに触れ、共感する。
作者の創造物の偉大さ、創造物を生み出す過程の痛み苦しみ、作者という人間の、その核となる部分に感動する。
そこで初めて、「その気持ちを伝えたい」という気持ちになる。
ゆえに演奏者は、作者の気持ち、感情と完全に同化しなければならない。
いや、必要性の問題ではなく、共感する能力があれば自然に同化するといっていい。
実はこの同化した気持ちを音楽で表現することが最も難しい。
それ以前に同化できる感受性がないと不可能だと思う。
しかし、音楽を演奏する以前に最も重要な、この「同化できる感受性」が現在、最もないがしろにされている。
はっきり言って、この感受性、人の感情、気持ちを理解できるものを持っていないと、どんなに表面的に美しく、上手く歌っても、聴き手を真に感動させることは出来ない。
淀みない立派なスピーチを聞いても、聞いた後には何も残っていない。上手いスピーチだった、としか記憶に残らない。それと同じことだ。
Nコンや全日本合唱コンの演奏を聴いていると、この淀みない立派なスピーチのような演奏が多い。
演奏を立派に、審査員を唸らせるほどの技術、音質で演奏することに、物凄い努力をしていることが伝わってくる。
曲の解釈、研究にも最大限のことをしている。
しかし聴いていて、「何か」が感じられない。「何か」が足りない。何度も何度も聴いても上手かった、としか記憶に残らない。
私は音楽を演奏するためには、気持ちが純粋になっていなければならないと思う。
競争心や野心、虚栄心に毒された心では絶対に聴き手の心を動かすことは出来ない。
だから、最も難易度が高い演奏法とは、聴き手の心の奥まで届き、聴き手の潜在的感情を引き出すことを目指す演奏法なのである。
演奏者の気持ちクリアーになっていないと不可能に近い。
全ての虚栄的なものから解放されていなければならない。
当然のこととして技術的土台の裏付けがあっての演奏である。
今年の10月始めにNコン全国大会高等学校の部が開催され、渋谷のNHKホールまで聴きに行ってきた。また録画しておいたビデオやNコンホームページで公開されている動画も何度も聴いた。
出場した全11校の演奏のうち、課題曲のみを順に聴いていった。
課題曲は、「君が君に歌う歌」(作詞:Elvis Woodstock(リリー・フランキー)、作曲: 大島 ミチル)。
NHKホールでは3階席の後ろであったが、生演奏で記憶に残った演奏は、島根県の高校と演奏順最後の東京都の高校であった。
とくに最後の東京都の高校の演奏はとても心に残った。
そして家に帰ってから録画したビデオや後で公開されたNHKの動画を聴いた。
この高校とは、東京都大妻中野高等学校であった。
冒頭の「傷つけていないか」のところで何か違うなと思った。
「それは君が相手の痛みをわかるようになったから」、「君は悲しんでいないかい? 誰かを悲しませていないかい?」、「君は見上げているかい? 誰かを見下ろしていないかい?」の部分は心を大きく動かされた。
まさに作者が語りかけているようだった。彼女たちが、「今」、「ここで」、聴き手に自分たちの気持ち(=作者の気持ち)を伝えているように感じた。
そして力みが無い。あくまでも自然の流れに沿っている。
力みが無いのは余計な野心が無いから。歌を歌うことそのものに集中しているから。
歌を歌うことが何よりも好きで、それ以上のことは求めていないから。
それだけで満足しているから。
はっきりいうと、他の多くの学校との歌いかたと違う。
分かる人には分かるかもしれないが、根本的な違いがある。
もしこの大会の録音、録画を聴く機会があったとしたら、出場全11校の全ての課題曲について順に聴いて欲しい。
学校名とか先入観抜きにして、気持ちを無にして聴いて欲しいと思う。
その上で、「最も感情を動かされた」演奏を探して欲しい。
上手いとか、迫力があるとか、表面的なものでなく、あくまでも「心を動かせられる」という観点で聴いて欲しい。
出場校の中には、不自然なほど力を入れたり、やたら声部の分離を強調している演奏があったが、聴いていて「あれっ?」って違和感を感じた。作為的であるからだ。
音楽の表現とは、結局のところ、作者の心をそのままに表すことに尽きるのではないか。
作者の心と同化できたならば、その心の表現はおのずと答えがでるのではないだろうか。
この大妻中野高等学校の演奏は今まで何度か記事にしたことがあったが、いい高校だと思う。
歌っている姿を見て、私の1970年代の頃を思い出す。
物凄く高い集中力、澄んだ輝いた目、歌うことが何よりも好きなんだという気持ち。
大都会の学校なのに、私にとっては一種信じがたい心境にさせられる。
【追記20171224】
音量には物理的パワーによるものと感情的パワーによるものとがあるが、大妻中野高等学校の演奏にはまさにこの感情的パワーを感じさせる。
感情的パワーといっても奏者の本当の「無心」の気持ちから出たものであり、かつ芸術的に高められたものである。
出場校の全ての演奏を何度も繰り返し聴いていれば、この大きな違いが分かってくる(分からない人もいるかもしれないが)。
物理的パワーによる音量は聴き手の深いところの感情を決して揺さぶることは出来ない。
その間、とくに感動した演奏についてNコンを中心に当ブログで紹介してきた。
7年前に聴き始めた時、なんでこの学校の演奏が金賞なのだろうと、首をかしげることが多かった。
長い間器楽を聴いてきたが、器楽の聴き方をとおして合唱曲の演奏を聴くと、聴き手の心の奥まで届き、動かすような演奏は意外に少ないと感じた。
どんな音楽でもそうだが、作った人の気持ちというものがある。合唱にはそれに詩が加わる。
詩は文字の構成体であるが、作った人の気持ち、感情の現れであることは言うまでもない。
作った人には、何か表現したい気持ちがある。伝えたい気持ちがある。
その気持ちを音の組み合わせ、文字の組み合わせにして、芸術というレベルにまで昇華させる。
作った人に託された演奏者は、作った人の気持ちに触れ、共感する。
作者の創造物の偉大さ、創造物を生み出す過程の痛み苦しみ、作者という人間の、その核となる部分に感動する。
そこで初めて、「その気持ちを伝えたい」という気持ちになる。
ゆえに演奏者は、作者の気持ち、感情と完全に同化しなければならない。
いや、必要性の問題ではなく、共感する能力があれば自然に同化するといっていい。
実はこの同化した気持ちを音楽で表現することが最も難しい。
それ以前に同化できる感受性がないと不可能だと思う。
しかし、音楽を演奏する以前に最も重要な、この「同化できる感受性」が現在、最もないがしろにされている。
はっきり言って、この感受性、人の感情、気持ちを理解できるものを持っていないと、どんなに表面的に美しく、上手く歌っても、聴き手を真に感動させることは出来ない。
淀みない立派なスピーチを聞いても、聞いた後には何も残っていない。上手いスピーチだった、としか記憶に残らない。それと同じことだ。
Nコンや全日本合唱コンの演奏を聴いていると、この淀みない立派なスピーチのような演奏が多い。
演奏を立派に、審査員を唸らせるほどの技術、音質で演奏することに、物凄い努力をしていることが伝わってくる。
曲の解釈、研究にも最大限のことをしている。
しかし聴いていて、「何か」が感じられない。「何か」が足りない。何度も何度も聴いても上手かった、としか記憶に残らない。
私は音楽を演奏するためには、気持ちが純粋になっていなければならないと思う。
競争心や野心、虚栄心に毒された心では絶対に聴き手の心を動かすことは出来ない。
だから、最も難易度が高い演奏法とは、聴き手の心の奥まで届き、聴き手の潜在的感情を引き出すことを目指す演奏法なのである。
演奏者の気持ちクリアーになっていないと不可能に近い。
全ての虚栄的なものから解放されていなければならない。
当然のこととして技術的土台の裏付けがあっての演奏である。
今年の10月始めにNコン全国大会高等学校の部が開催され、渋谷のNHKホールまで聴きに行ってきた。また録画しておいたビデオやNコンホームページで公開されている動画も何度も聴いた。
出場した全11校の演奏のうち、課題曲のみを順に聴いていった。
課題曲は、「君が君に歌う歌」(作詞:Elvis Woodstock(リリー・フランキー)、作曲: 大島 ミチル)。
NHKホールでは3階席の後ろであったが、生演奏で記憶に残った演奏は、島根県の高校と演奏順最後の東京都の高校であった。
とくに最後の東京都の高校の演奏はとても心に残った。
そして家に帰ってから録画したビデオや後で公開されたNHKの動画を聴いた。
この高校とは、東京都大妻中野高等学校であった。
冒頭の「傷つけていないか」のところで何か違うなと思った。
「それは君が相手の痛みをわかるようになったから」、「君は悲しんでいないかい? 誰かを悲しませていないかい?」、「君は見上げているかい? 誰かを見下ろしていないかい?」の部分は心を大きく動かされた。
まさに作者が語りかけているようだった。彼女たちが、「今」、「ここで」、聴き手に自分たちの気持ち(=作者の気持ち)を伝えているように感じた。
そして力みが無い。あくまでも自然の流れに沿っている。
力みが無いのは余計な野心が無いから。歌を歌うことそのものに集中しているから。
歌を歌うことが何よりも好きで、それ以上のことは求めていないから。
それだけで満足しているから。
はっきりいうと、他の多くの学校との歌いかたと違う。
分かる人には分かるかもしれないが、根本的な違いがある。
もしこの大会の録音、録画を聴く機会があったとしたら、出場全11校の全ての課題曲について順に聴いて欲しい。
学校名とか先入観抜きにして、気持ちを無にして聴いて欲しいと思う。
その上で、「最も感情を動かされた」演奏を探して欲しい。
上手いとか、迫力があるとか、表面的なものでなく、あくまでも「心を動かせられる」という観点で聴いて欲しい。
出場校の中には、不自然なほど力を入れたり、やたら声部の分離を強調している演奏があったが、聴いていて「あれっ?」って違和感を感じた。作為的であるからだ。
音楽の表現とは、結局のところ、作者の心をそのままに表すことに尽きるのではないか。
作者の心と同化できたならば、その心の表現はおのずと答えがでるのではないだろうか。
この大妻中野高等学校の演奏は今まで何度か記事にしたことがあったが、いい高校だと思う。
歌っている姿を見て、私の1970年代の頃を思い出す。
物凄く高い集中力、澄んだ輝いた目、歌うことが何よりも好きなんだという気持ち。
大都会の学校なのに、私にとっては一種信じがたい心境にさせられる。
【追記20171224】
音量には物理的パワーによるものと感情的パワーによるものとがあるが、大妻中野高等学校の演奏にはまさにこの感情的パワーを感じさせる。
感情的パワーといっても奏者の本当の「無心」の気持ちから出たものであり、かつ芸術的に高められたものである。
出場校の全ての演奏を何度も繰り返し聴いていれば、この大きな違いが分かってくる(分からない人もいるかもしれないが)。
物理的パワーによる音量は聴き手の深いところの感情を決して揺さぶることは出来ない。
退職して以来の長患いでこの11月12月は自宅で
寝て過ごすことが多く、長い事ご無沙汰でした。
色々あった今年一年も、もうすぐ終わりですが
新年も緑陽さんにとって素晴らしい年でありますように!
Tommyさんからはいつも暖かい言葉をかけて下さり、本当に嬉しく、感謝しております。
体調を崩されたとのこと、早く回復し、元気にギターをエンジョイできることを願っています。
私も11月末の休暇の際にたちの悪い風邪にかかってしまい、いまだに猛烈な咳に悩まされております。
今年ももうすぐ終わってしまいますね。
明日から休暇で帰省してくつろぐ予定です。
来年も良い年でありますように。
ありがとうございました。