緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

日曜洋画劇場エンディングテーマ曲「So In Love」を聴く

2017-01-09 00:29:15 | その他の音楽
「今年の抱負」の続きを書こうと思ったが、夜も遅く、後日にすることにした。
2週間くらい前にふと、40年くらい前に日常よく聴いていた懐かしい曲を思い出し、聴きたくなりYoutubeで探していたら見つかった。
その曲は、かつて放映されていた「日曜洋画劇場」のエンディングテーマ曲「So In Love」であった。
このテレビ番組は、長い間淀川長治氏が解説を務めていたが、あの名言「さよなら、さよなら、さよなら」の後に流れていた曲である。ご記憶の方も多いと思う。
このエンディングテーマ曲を初めて聴いたのは中学生の頃だったか。この曲を聴くと中学生から高校生の頃を思い出す。
受験期はこの映画を見終わって風呂に入り、夜中まで勉強したものである。

この曲が何故強く記憶に残ったのか。
まず、この曲がピアノとオーケストラとの協奏曲であり、そのピアノが速いアルペジオの超絶技巧を要する曲だったからだ。
丁度ギターを初めて間もない頃であり、6弦時代のイエペスが演奏するヴィラ・ロボスの練習曲第1番凄まじい速度のアルペジオに熱狂していた時であり、この「So In Love」のピアノが同じような奏法を用いていたからだ。
次にこの曲がクラシック曲だと思い込んでいたからだ。
始めはクラシックのピアノ協奏曲の一つだと思っていた。
しかしこの曲はしばらく後になってから、バージョンが変わった。
このバージョンが変わった時のことはよく覚えているが、この時にこの曲がクラシックのピアノ協奏曲であることに疑問を感じた。
しかしそんなことはどうでもよく、この曲を最後まで聴いてテレビを離れたものだ。
残念だったのはこの曲が最後まで通しで流れなかったことだ。

今日この曲のことを調べてみた。
この曲の正体は、1948年、コール・ポーター作曲、ミュージカル曲であり、ジャズのスタンダード・ナンバーだった。
このナンバーがクラシック音楽風にアレンジされ、モートン・グールド楽団により演奏されたものが日曜洋画劇場のエンディングテーマ曲として、1967年から2003年まで使用されたとのこと。
そんなに長い間使われていたとは全く気付かなかった。

この曲の印象を一言でいうと何であろうか。
「ロマン」とか「情熱」という言葉が浮かんでくる。
力強い曲であり、編曲も最高のものだ。

①旧バージョンの音源(Youtube):途中まで

(6:10くらいから再生)

②新バージョンの音源(Youtube)


私は新旧両方共好きだが、ピアノは旧バージョンの方がいいかもしれない。

【追記20170110】
新バージョンを演奏している楽団とピアニスト、もの凄く上手いです。
ピアノの演奏は音に色があり、また情熱的。テクニックも凄いですね。
何という楽団、そしてピアニストなのだろう。
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今年の抱負2017(2)

2017-01-08 00:11:28 | 音楽一般
1.合唱(続き)

昨年も高等学校のNコンブロック大会(関東甲信越)と全国大会の両方を、生演奏で聴くことができた。
この両大会の感想は以前記事にしたが、ここで振り返ってみたい。

関東甲信越地区のブロック大会であるが、Nコンのホームページでこの大会の動画を見ることが出来、何度か再生してみた。
動画を見て、また演奏を聴いて、やはり生演奏で感動した学校は改めて聴いてもその感じ方に間違いはなかったことに気付く。
今年の課題曲はあまり聴き応えがなかった。
詩も曲も若い方の手によるものであるが、やはり力に欠ける。残念ながら長く何度も聴き続けるだけの力量に欠けていると感じた。
各出場校の課題曲の演奏を聴いたが、差異が付きにくく、演奏の評価が難しかった。
いい曲は、演奏の良し悪しの差異が大きく表れるものだと思う。
しかし自由曲は聴き応えのある曲、演奏があった。
ブロック大会直後の記事でも紹介したが、次の3校の演奏が強く印象に残ったし、素晴らしい演奏だった。

①演奏順2番目:長野県伊那北高等学校
 自由曲:混声合唱のための「どちりなきりしたん」からⅣ

②演奏順位8番目:東京都府中西高等学校
 自由曲:O Heiland reiβ die Himmel auf(おお 救い主よ、天を開いてください)

③演奏順位12番目:山梨県立市川高等学校
 自由曲:O magnum mysterium(おお、大いなる神秘)

①の千原英喜作曲、混声合唱のための「どちりなきりしたん」からⅣ、はとてもいい曲だ。
テノール独唱による聖書の一節(ラテン語?)で曲が始まる宗教色の強い曲。
長野県伊那北高等学校の演奏は地味であるがとてもいい演奏だ。
本当に素朴で心に染みる演奏だ。地味で純粋な演奏でないと聴き手を感動させられない。
演奏人数30名ほどで少ないが、音量は大きい。
この音量は力任せに力んで出した音量ではない。無理のない自然な「強い音」という感じだ。
「大きな音」ではない。
今回の大会も、力任せに大音量で歌っている学校がいくつかあったが感心しない。
合唱での「大音量」は迫力感を与えられるが、それ以上のものはない。
聴き手の心を突き抜けるような「強い音」が欲しい。
この「強さ」とは、物理的な音の大きさではなく、「感情」の強さだと思う。
この「感情」の強さは、歌い手の普段の心の在り方によるものではないか。
「感情の凝縮」、「感情の強さ」と「美」とが融合しないと、聴き手を感動させられない。
とくに長野県伊那北高等学校の女声にそのような要素を感じ取ることができた。

②のO Heiland reiβ die Himmel auf(おお 救い主よ、天を開いてください)は難曲だ。
今回の審査は外国語による演奏に対し、厳しい評価をしたようだが、難しいことへチャレンジしたこと、完成に至るまでのプロセスに対し、もっと評価すべきだ。
母国語ではない異国の言葉、それも古い時代の言葉を歌って、母国語と同等の発音を期待するのは高校生にとっては無理。
昨年の夏に、日本の五木の子守唄をフランスの有名な少年少女合唱団が歌う録音を聴いたが、日本語の発音はさずがに不明瞭な部分はあったものの、曲の核心は十分に伝わってくるものであった。
このような審査をすると、曲に対する選択肢が狭まり、チャレンジすることに及び腰となり、無難な演奏をするようになりかねない。
東京都府中西高等学校の演奏、特に女声が力強く透明で、説得力があり、よく伸びる音だ。いい歌声。
(人数も女性は男性の2倍ほどの構成だ)
しかし決して背伸びした歌い方をしない。高校生らしい自然な歌い方にほっとする。
このような宗教的な曲を、成人のような大人びた音色でヴィブラートを掛けた歌い方をする学校があるが、いいとは思えない。
生演奏を聴いた時にも感じたが、聴き終わった後も、繰り返し聴いていたい、という気持ちを起こさせるような演奏だった。

③のO magnum mysterium(おお、大いなる神秘)も表現の難しい曲だ。
冒頭の、いろいろな音程の音が交錯する部分はまさに幻想的。
女声の中でも、最低音のパートと最高音のパートとのレンジの幅が広く、曲のハーモニーに厚みを与えている。
何度も聴かないとこのハーモニーの素晴らしさは伝わってこない。
よく聴いてみると、この山梨県立市川高等学校の演奏レベルが凄く高いことが分かる。
上手いのに損していると思う。上手いだけでなく、表現力も多彩、豊かで、しかもそれが隠し味のようになっているところが素晴らしい。あまりにも自然な表現なので、なかなか気づかないのだ。
こういう曲は1回聴いただけでは真価を理解できない。

今回聴いたブロック大会で印象に残った3校の指導者は、見る限り、生徒たちには音楽の素晴らしさを感じ取ることを最優先していると感じた。
賞なんかより、まずそれが一番。音楽をみんなの手で最高に素晴らしいものに完成させる、その気持ちだけを持ち続けるだけで十分なのだ。

(Nコン全国大会の振り返りは後日にします)
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今年の抱負2017(1)

2017-01-04 22:36:28 | 音楽一般
今年も無事に新年を迎えることが出来た。
新年のあいさつというわけではないが、昨年を振り返りつつ今後の抱負などを書いてみたい。
このブログを始めて昨年12月で2000日を超えた。もう5年半にもなる。
記事数は427。ほぼ5日に1回の頻度である。少ない方だと思う。
しかし閲覧数は年々増えており、ありがたいと思っている。
元々自己満足を目的に始めたこのブログ。このような記事でも読んでいただけるのは嬉しく思うし、感謝している。
ましてコメントを書いて下さった方には本当に感謝している。
閲覧数が多くなった反面、書く内容にも気を付けなくてはならないという気持ちも出てきたが、これまでどおり出来るだけ感じたことをストレートに書いていきたい。
読む人を意識して無難な内容にするのは本意ではない。

昨年は1月に23年間住み慣れた所を離れ、転居したという大きな出来事があったが、それ以外は特段変わることはなかった。
平和にどっぷりつかってこんな記事を書いてのんきなものだと思う。こんな幸福がいつまで続くのか。
国の借金は今や1000兆円。国民一人当たり800万円を超えるという。世界1位の借金大国にまで成り下がった。
政府は今、お札をじゃぶじゃぶ発行して国債を買って無駄な公共工事を増やして雇用を支えるということをやっているが、こんなことをやっていていいわけがない。
高度成長期から1980年代までの右肩上がりの時代のように、売れるものをたくさん作って経済活動が活発になって人手不足になったのではないのに、工事業界や外食産業などで人手不足と聞く。これは不自然だし、危ない兆候だ。いつ財政破綻してもおかしくない。

しかしこのブログは音楽中心のものだ。本題にもどしたい。
ジャンル別に分けて、昨年の成果や今後の意気込みなどを書いていきたい。

1.合唱

昨年の3月に2つの高等学校の合唱部の定期演奏会を聴きに行った。
神奈川県立多摩高等学校と共立女子高等学校である。
多摩高等学校の定期演奏会は第50回記念とあって、大勢のOB・OGとの共演であり、大ホールの客席が殆ど埋まるほどの盛況であった。
多摩高等学校の演奏はこれまでNコン全国大会CDやNコンホームページでの地区大会などの動画で聴いていたが、生演奏を聴くのは初めてであった。
木島始作曲、信長貴富作曲の混声合唱組曲「ねがいごと」という曲が印象的で、その後Nコンホームページで多摩高等学校の録音を探し出し、何度も聴いた。
共立女子高等学校は一昨年の冬に新井和江作詞 高嶋みどり作曲の「きょうの陽に」という曲の聴き比べを何百回もやって選び抜いた高校である。
素晴らしい演奏であり、何度も繰り返し聴いた。
共立女子高等学校の定期演奏会はお嬢様学校らしいものであったが、卒業生の見送りの歌のシーンは感動的であった。このような経験をできるのはとても羨ましく思ったものだ。
この2つの高校はNコンや全日本合唱コンクールの全国大会にも出場したことのある実力校であるが、歌い方が実に自然で素朴なのだ。強豪校のような野心的なものを感じられないところが好きだ。
毎年全国大会に出場することを狙っていると、どうしても頭(意識)を使った演奏になる。
審査員やプロの指導者から細かく指摘したことを忠実に克服し、洗練された歌い方になるのであろう。
しかし本当に聴きたいのは歌い手の声や技術ではなく、歌声の裏から聴こえてくる気持ちである。
(もちろん技術も大切であるが高校生の演奏では優先度は2の次だ。)
その歌い手の日常の人間そのものと言っていい。つまり聴き手は歌い手の潜在的なものとの共有を求めているのである。歌い手が歌を作った人の感情と完全一体化し、そこから放出される感情との共有を得たいのである。

昨年の6月だったであろうか、会社の飲み会が終って帰路についたが、途中で飲み足りなかったのかコンビニで酒を買って家で飲むことにした。
酒を飲みながらYoutubeでパコ・デ・ルシアの演奏を見ていたら、偶然以前聴いていた、平成15年度のNコン課題曲である「あしたはどこから」(三枝成彰作曲、平峯千晶作詞)の動画が目についた。
演奏者は福島県立橘高等学校(Nコン全国大会)であった。
パコ・デ・ルシアを止めて、橘高等学校の「あしたはどこから」を聴いた。
一度聴いたらもう止められなくなった。この時、20回くらい連続して聴いたと思う。
そしてその後もこの演奏を何度も繰り返し聴いた。
曲や詩も素晴らしいが、この橘高等学校の無心の演奏に非常に心打たれた。
前半の「闇」の表現と転調してからの暗闇から抜け出た「陽」との対比が見事であるが、この転調してからの歌い方が物凄いのである。
特に「春の声がともに問うだろう」の部分は、聴き手の感情も持ちこたえられずガーっと出てしまう。
曲と詩の持つ感情との完全一体化に他ならない、としか言いようのない演奏だ。
審査員からすると細かく注文を付けたくなる箇所はあるかもしれない。
しかしそんな細かいことは取るに足らないのである。
演奏でどれだけ聴き手の心の奥まで届かせることができるか、大袈裟な言い方をすれば「聴き手の魂を揺さぶるほどの」演奏ができるかどうかが、いい演奏の評価基準ではないのか。
コンクールが終ってその演奏を「長年にわたって何度も聴き続けてくれる人が何人いるか」、これが最終的な演奏の良し悪しのメルクマールであると言えるのであって、金賞、銀賞を取ったからといってその演奏全てが一番優れているとは言い切れないのである。
コンクールで優勝して自分たちの演奏は最高なんだ、と思うことは決して正しいとは言えないと確信している。

(続きは後日、昨年のNコンブロック大会や全国大会の感想と今後の抱負を記事にする予定です)
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