緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2017(4)

2017-01-15 21:15:32 | 音楽一般
2.ヴァイオリン

今年の夏ごろに、ふとJ.S.バッハのヴァイオリンソナタとパルティータを聴きたくなって、今まで持っていたジョルジュ・エネスコやヨーゼフ・シゲティ、ヨーゼフ・スークのCDの他に、この組曲の代表的な演奏者たちの録音を買い求めて聴き比べをしてみた。
結局昨年から今までに聴いた演奏者は下記となった。

①ヘンリク・シェリング 旧録音
②ヘンリク・シェリング 新録音
③ジョルジュ・エネスコ
④ヨーゼフ・シゲティ
⑤ヨーゼフ・スーク
⑥ギドン・クレーメル
⑥ヤッシャ・ハイフェッツ
⑦ナタン・ミルシティン
⑧和波孝禧 旧録音
⑨和波孝禧 新録音
⑩オスカー・シュムスキー
⑪カール・ズスケ

ヴァイオリンは今まであまり聴いてこなかった。
本格的に聴いた演奏は、20代の頃に姉の誕生日に買ってあげ、後でカセットに録音して聴いたヘンリク・シェリングのバッハの組曲の演奏(旧録音)。その後はヨーゼフ・シゲティの同組曲の録音ぐらいである。
理由は音が自分の趣向に合っていないと感じていたこと。
しかしバッハの音楽を理解するためには、この代表作であり傑作のヴァイオリン組曲を聴くことは必須である。
①~⑦は昨年の夏に集中して聴き比べをしたが、正直どれがベストか自分なりに結論を出すことはできなかった。
やはりこの楽器の音楽の聴き込みが足りないし、バッハの音楽の理解がまだまだ未熟であるからだ。

夏が過ぎ秋にはヴァイオリンから遠ざかったが、冬になり原博の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのシャコンヌ」を聴きたくなり、持っていたCDを久しぶりに聴いた。
このCDはライブ演奏であったが、以前から何か心に残るものがあり、折に触れて何度か聴き続けてきたのであるが、この曲の演奏者の和波孝禧氏の演奏をもっと聴きたいと思うようになっていた。
そんな時、12月24日に彼のコンサートが開かれることを知り、彼の生演奏を初めて、そしてヴァイオリンの生演奏を初めて聴いたのである。
実はこのコンサートで彼が生来の全盲であることを初めて知った。
とても驚いたがコンサートの演奏も素晴らしく、会場で売られていた邦人作曲家の曲を集めたCDとバッハの組曲の新録音のCDを買い、その後バッハの旧録音も手に入れて、年末年始に聴き込んだ。



彼の音、演奏は、くせがなく、正統的な解釈のもと真摯なものである。
あっさりしているようで、心に残り続ける。
地味だからであろうか。それとも国際コンクール上位入賞者だけをもてはやす日本音楽界の実情からであろうか。
和波氏の存在はクラシック界であまり知られていないのではないかと思う。
しかし彼の演奏は何度も聴くに値するものだと思う。
和波氏のこれまでどのような人生を歩んできたか知りたくなり、彼の著作である「音楽からの贈り物」という本を買った。これも近いうちに読む。




それと最近、ヨハンナ・マルツィ(Johanna Martzy 1924-1979)という女流ヴァイオリニストの存在を知った。
Youtubeでしか未だ聴いていないが、彼女の弾くバッハのシャコンヌやメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調の音に釘付けとなった。



今まで聴いたヴァイオリニストの誰よりも力強く、生気に満ちた音、演奏であった。
幸いバッハのソナタとパルティータの全曲録音が出ており早速注文したが、楽しみだ。
ギターのセゴビアのように、楽器の持つ音の神髄を真に熟知した演奏家かもしれないと思った。
これもいつか記事にしようと思っているのであるが、Youtubeでセゴビアのドキュメンタリーがいくつか投稿されており、その撮影の中で生演奏されるセゴビアの音が物凄いのだ。
これだけの音を楽器から引き出す能力はまさに神業といっても大袈裟な言い方ではないとその時思った。
ヨハンナ・マルツィの音も同様な感じがした。

あわせてヒラリー・ハーンという若い女流ヴァイオリニストのシャコンヌも聴いてみたが、17、8歳で録音されたというその演奏を聴いて、その年で想像できないレベルの演奏解釈、音の表現、技巧、音程の正確さを聴いて驚嘆したが、何度か繰り返し聴いてみるうちに、何か物足りなさを感じるようになった。
10代後半の未だ若い時の演奏だからなのであろうが、何かもっと深いものが足りないように感じた。

バッハの組曲など、そう簡単にベストの演奏を選び抜くことなどは出来ない。
しかし昨年から今年の初めにかけて何度も聴き比べして少しは前進したような気がする。
今年はもっと聴き込んで、何か掴みたいと思っている。
今年はヴァイオリン鑑賞も新たに加わるからお金がかかりそうだ。
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今年の抱負2017(3)

2017-01-15 14:45:37 | 音楽一般
1.合唱(前回からの続き)

昨年10月初めに東京渋谷のNHKホールでNコン全国大会高等学校の部が開催され、生演奏を聴きに行った。
全国各地の代表校14校による演奏を実際にホールで聴いて、最も感動したのは、演奏順7番目の山形県立鶴岡北高等学校であった。
この演奏を聴いたその日に、感想を記事にした。
数か月後にNコンホームページで全国大会の動画が公開され、早速聴いてみたが、やはり素晴らしい演奏であった。



具体的に何が素晴らしいのか。
最も素晴らしいと感じたのは、この曲を作った人たちの感情を純粋にそのままに聴き手に伝える演奏だったことだ。
その感情は実に繊細で、深く、強く、それらを表現することは大変な努力を要することである。
まず曲を作った人たちが、どのような気持ちを抱いて、その気持ちを曲に託したのか。
頭だけの理解だけならおよその人ができるが、真に自分のものとして共感し、自分の感情として発露できるかどうかは、その人自身の感受性、今生活している環境、人生体験による要素が大きい。
だから、歌を歌う人、いや全ての音楽家は、音楽だけでなく、文学や絵画などの芸術に触れたり、都会を離れて自然豊かな土地でしばらく過ごして、自然が生み出す音や感触に身をゆだねる必要があるのだ。
ただこのような感情表現も技術的な裏打ちがなければ芸術としての価値を感じることはできない。

この山形県立鶴岡北高等学校のもう一つの素晴らしいところは、高い技術に支えられていたことである。
まず、各パートの音が明確に分離され、それぞれのパートの音が織りなすハーモニーや、高低差の音の重なり合いや掛け合いが見事だったこと。
特に低音パートの音がしっかり出ていたことである。
低音を上手く出せる生徒は探しても極めて少ないであろう。
これも訓練なのであろうか。素質のある部員の獲得、そして訓練の賜物以外の何物でもないであろう。
あと音のコントロール上手く多彩だったこと。
例えば課題曲の「立体としての世界の構造を」の盛り上がりの次の静けさ、間、そして「私は想像する」の息の長いフレージング、音の強まりと減衰の表現、「名前を付けるだけでは」の後のアーの音量。
結構多くの学校が、大きな音を出し過ぎて、せっかくの音色の持ち味をつぶしてしまっているように感じたが、鶴岡北高等学校は曲の要求する音量や強弱のコントロールを的確にとらえていたと感じる。
自由曲は女声合唱曲集「笑いのコーラス」から 贈り物 (作詞:高階 杞一 作曲:横山潤子)であったが、これはコンクールでは久しぶりに聴くいい曲であった。
この曲も演奏者次第では曲のもつ本来の価値を表現しきれない、難しい曲だと思うのだが、鶴岡北高等学校の演奏はこれ以上ないという表現をしてくれている。
「そこではたくさんの夢が星座のように積み上げられて」の部分の盛り上がりと減衰、「いつでも好きな夢に手が届く」を経て、「その中の一番素敵なやつをもらってこよう」のこの曲の最大のクライマックスの部分は胸のすくような素晴らしい感動を与えてくれた。
「そっと、君の夜に届けよう」の部分で始まる低音パートの旋律と、その旋律と織りなすように聴こえてくる美しいソプラノの伴奏から旋律に変化する部分は、何というか静かな幸福感というか、人の純粋な優しさのようなものを感じた。

あらためて考えて見ると、音楽表現というものは、結局のところ人間の生の感情を、芸術的価値に支えられ、裏付けられながら、ありのままに真に表現するということなのかもしれない。
決して頭でコントロールできるものではないと思う。

他に印象に残った演奏は、演奏順1番目:福島県立安積黎明高等学校、演奏順2番目:山口県立萩高等学校、演奏順11番目:北海道立釧路湖陵高等学校であった。
とくに、 山口県立萩高等学校の自由曲、「混声合唱とピアノのための「もうひとつのかお」から あなた」(作詞:谷川俊太郎 作曲:鈴木輝昭)はいい演奏だと思う。



この演奏から感じられるのは「素朴さ」。
力みがない、自然さというのは重要な要素だと思う。
何故力むのか。何故高校生以上の音色を出そうとするのか。何かを期待しているからだと思う。
普通のことをやっていてはコンクールに入賞できない、という考え方はあるのかもしれない。
しかし高校生には高校生らしい魅力がある。高校生の頃でないと出せない音色、、感受性、感情エネルギーがある。
だから指導者の役割は極めて絶大である。高校生の持ち味を生かすのも殺すのも指導者次第である。
1年前に「今日の陽に」という合唱曲の聴き比べをしていた時に、学校により実に様々な曲の解釈、演奏をしていたが、演奏者である高校生の自然さをつぶして指導者の価値観により完全にコントロールされた学校の演奏もいくつかあった。
そのような演奏は上手くてもそれ以上のものは何も感じない。
それに頭でコントロールすると、部分的にちぐはぐな表現が散見され、それが表面、綺麗な統一された音色と対称的に、違和感という形で聴こえることもあった。

コンクールというのは入賞、それも金賞をとらないと価値がないと思っている方が多いと思うが、私は全くそんなことはないと思っている。
コンクールに入賞していなくても、素晴らしい演奏は必ずある。
たった1回の演奏、たった5人程度の審査で決まるものに絶対的なものはない。
以前あるQ&Aのサイトで、某高校がNコンでは金賞は多いが、全日本合唱コンでは受賞歴が少ないので、その高校はそれほどではないのか、と質問した方に対して、怒りを込めて、その高校の過去の輝かしい受賞歴を挙げて、その高校がいかに素晴らしいかを示し、反論していたコメントを目にしたことがあったが、驚きとともに馬鹿げたことだと思った。

「いい演奏とは何か」。自分にとっては永遠のテーマであると思っている。
器楽でもピアノやギターはかなり、これを識別できるようになってきた。
合唱も聴き始めて5年程度であるが、かなり進んできたと思っている。
過去の音源を手に入れたり聴いたりすることは大変なことであるが、時間の許す限りすこしでも合唱曲をたくさん聴いて、何度も繰り返し聴きたくなるような隠れた名演を掘り出していきたと思っている。
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