緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2017(5)

2017-01-22 00:22:59 | 音楽一般
3.現代音楽

昨年の現代音楽の収穫としては、「民音現代作曲音楽祭’79~’88」と題する8枚組のCDの中で下記の2曲に出会ったことである。

・ソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」 河南智雄作曲
 ソプラノ:豊田喜代美 尾高忠明指揮 東京フィルハーモニー交響楽団 1983年ライブ録音

・ピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」 八村義夫作曲
 ピアノ:高橋アキ 尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 1986年ライブ録音

八村義夫氏の名前は以前から知っていたし、彼の曲も既に聴いていたが、河南智雄氏は初めて聞く作曲家であった。
この8枚組CDの数多くの現代曲の中で、最も感動したのは河南智雄氏のソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」であった。
水の精で知られる「オンディーヌ」から連想される神話を題材としたのではなく、吉原幸子作詞の「オンディーヌ」という現代詩の第Ⅰ部を歌詞として曲を付けたものであった。



吉原幸子作詞の「オンディーヌ」は第8部まであるが、この曲は第Ⅰ部の詩を扱っている(一部分、詩文がカットされている)が、曲は3楽章からなり、演奏時間30分程にもなる大作である。短いようで長い。

吉原幸子氏の「オンディーヌ」は一般に知られる水の精オンディーヌと騎士ハンスとの悲恋のストーリーとは全く異なり、現代の男女の孤独な愛とむなしさを描いた内容だ。
著作権に触れるかもしれないが、あえてこの曲使用された詩を下記に記す(曲に使用されずカットされた部分は含まれていない)。

Ⅰ楽章

わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた
純粋とはこの世でひとつの病気です
愛を併発してそれは重くなる
だから
あなたはもうひとりのあなたを
病気のオンディーヌをさがせばよかった

ハンスたちはあなたを抱きながら
いつもよそ見をする
ゆるさないのが あなたの純粋
もっとやさしくなって
ゆるさうとさへしたのが
あなたの堕落
あなたの愛
 
愛は堕落なのかしら いつも
水のなかの水のやうに充ちたりて
透明なしづかないのちであったものが

冒され 乱され 濁される
それが にんげんのドラマのはじまり
破局にむかっての出発でした

さびしいなんて
はじめから あたりまへだった
ふたつの孤独の接点が
スパークして
とびのくやうに
ふたつの孤独を完成する
完全に
うつくしく

Ⅱ楽章
わかってゐながら
わたしのオンディーヌ
あなたの惧れたのは
別れではない
一致といふ破局
ふたつの孤独が スパークせずに
血を流して 流した血の糊で溶接されて
ふたりともゐなくなってしまふ
完全燃焼
のむなしい灰

水をひどくこはがったが
泳げないオンディーヌ

月明りの浜辺に
わたしをのこし
もっとたやすい愛の小部屋へ
逃げて行ったあなた

1楽章、2楽章はソプラノが上記歌詞を歌うが、3楽章はオーケストラのみである。
この詩から受ける印象は、とくに現代の孤独な男女間の荒涼としたむなしさである。
「ふたつの孤独の接点がスパークして とびのくやうに ふたつの孤独を完成する」と「ふたつの孤独が スパークせずに 血を流して 流した血の糊で溶接されて ふたりともゐなくなってしまふ」。
人に心を開けない、孤独な人間どおしの、悲しい運命、結末を洞察したような気持ちでうたっているように感じる。

ソプラノも不気味であるが、バックのオーケストラ、時に静かに、時に激しく奏でる演奏が荒涼としており、不気味さを増している。
詩のフレーズ間、詩の言葉と言葉の間に長い間があり、聴いていて自然と寒気がしてくる。

作曲者の河南智雄氏は「作曲にあたっては、詩の世界に寄りかかって雰囲気的な音を付けていくのではなく、もっと詩の世界と音の世界が総合され、止揚された存在となることを目指した」と言っている。
また、「そのためには、私の音楽がその流れの上に言葉を許す、というよりもっと積極的に詩句も、またその情念をも解放してゆくという状態になるまでは、全くペンは取れなかった」、「詩の一つ一つが実に多様な世界を要求しており、また一つの詩の中でも非常に振幅の大きい言葉が並置されているので、それは困難な作業の連続だった」と言っている。

この曲は無調であり機能調性は一切出てこないが、人間の心の深淵にある複雑な負の感情やエネルギーを表現するためには、調性音楽の枠組みの中では不可能であろう。
調性、拍子といった制約から開放され、オープンで自由な土俵で音を組み合わせ、構築していく。その世界はそれが故に、作曲家自身のあるがままの姿、能力に対峙させられることを避け得ず、生半可な姿勢では人に聴かせるだけの作品を生みだせないのではないかと思う。
機能調性の枠組みの中で、人間の幸福感、喜び、悲しみ、躍動感などを表現することは芸術としてのレベルの相違はあっても、比較的取り組み易いものである。
現代の人間が抱える、「闇」のような感情を音楽で表現するのは容易ではない。
その「闇」の感情を経験できなければ、作ることも出来なければ、その作ったものを味わうことも出来ない。
現代音楽といっても様々なものがあるが、あえて人間の負の感情に焦点をあてた作品を作り上げることほど難しいものはないと思う。
このソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」という曲は自分としては現代音楽の力作、傑作だと評価したい。
作曲者の河南智雄氏の情報は殆ど得られなかった。現在までの間、作曲はされていなかったのか。
若い時期にこれだけの作品を書ける力があったのに、埋没してしまっているのは残念である。

次に八村義夫氏のピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」であるが、氏の代表作と言える。
この曲の解説文で八村氏は、「私が恐らく、色々な音楽から何を一番最初に感じるかといえば、その音楽に秘められたあらゆる種類の、<負の感情>というべきものの質と量であり、自分の作品においても、まずそれを第一に考える」と言っている。
この作品は、「ある錯乱のあるフレーズを思い浮かべ、一つ一つの音の持つ表情と痛覚とを自在に呼吸させながら、生育させ変更させようとした」と書かれているように、「錯乱」という精神的状況に焦点を当て、その様を表現したものである。
演奏時間約10分の短い曲であるが、非常に難解であり、何度も聴かないと作者の意図を理解することは困難だ。
先にも書いたが、このような難解な現代音楽は調性音楽では取り扱わない、表現できない領域、例えば人間の「闇」に代表される負の感情や、哲学的論理などの表現を対象としているから、聴き手にとって理解不能、難解、ときに不愉快に感じるのは当たり前である。
だから聴き手を選ぶわけであるが、このような音楽でも好きな人はいる。
私も好きな方であるが、このような音楽を音楽では無いとして認めない専門家や愛好家もいる。
恐らく、音楽、ひいては芸術とは、多くの鑑賞者が感動したり、幸福感を感じたり、するべきものであるとの前提があるのだと思う。
それはそれで一つの考え方であるが、狭い見方のような気がする。
つまり現代音楽とは普通の調性音楽とは一線を画すものであり、別次元の音楽であり、それなりの楽しみ方がある。
「無視された聴衆」という著作で、機能調性を持たない無調音楽を徹底して批判したのは作曲家の原博であるが、いくら現代音楽を批判し排除しようとしても、この音楽に芸術的価値を見出し、評価する聴き手がいる以上は、この分野が消滅することはあり得ない。
1960年代から1970年代にかけて、八村義夫のような高い構築性、完成度をもつ芸術的価値の高い作品から、現代音楽の技法(例えば12音技法、セリー、クラスター)を表層的に使っただけの作品まで多数の前衛的な作品が作られ、音楽界は活況があったのだが、聴き手に理解されないことの虚しさを感じるようになった1980代以降、急速にこの分野の音楽活動はしぼんでしまった。
この時代現代音楽を多数作曲していた作曲家も人の趣向の変化に合わせるように、調性音楽に鞍替えしてしまった。
早世した八村義夫氏や毛利蔵人氏のような作曲家は、もし生きていたとしたら、このような時代の変化に合わせて自分の音楽を変えてしまったであろうか。私は決して彼らは信念を曲げることは無かったであろうと思う。
調性音楽であろうと、現代音楽であろうと、それぞれの分野でそれが自分の天性に合致した音楽であり、聴衆の趣向の多い少ないに関係なく、自分の天性と信念を信じて曲作りを貫き通すような作曲家が現代には少なくなってしまったのではないか。

八村義夫氏の「錯乱の論理」を聴いたあと、彼の初期のピアノ曲2曲を聴いた。

・「ピアノのためのインプロヴィゼーション 作品Ⅰ」
・「ピアノのための彼岸花の幻想 作品6」

これら2曲のものすごく難解で理解に苦しむが、何度か繰り返し聴いた。
とくに「ピアノのための彼岸花の幻想」であるが、これほど激しく、心に突き刺さるほどのエネルギーを持つ現代音楽のピアノ曲はかつて聴いたことがなかった。

現代音楽は聴くのに忍耐とエネルギーを要する。
難解な理解不能な哲学書を読むのに似ている。
昔学生時代、マックス・ウェーバーの著作の中でなんでもいいから読んでレポートを出せ、という課題が出されたことがあったが、怠け者だった私は、著作の中で最もページ数の少ない「理解社会学のカテゴリー」という本を選んだ。
しかしその本を読んでみるとものすごく難解で、何度も繰り返し読んでも理解できなかった。
そして理解できないまま、苦し紛れにレポートを書いたことがあったことを思い出す。
しかしその経験は妙に私の心に残りつづけ、この苦し紛れが結構いい体験だったことに後で気付いた。
この「理解社会学のカテゴリー」の本のことは社会人となり、何十年たっても忘れておらず、1年ほど前にまた読んでみたいと思い、絶版になっていたが古本で探して買った(しかしいまだに読んでいない)。

今年の抱負であるが、まず現代音楽のコンサートを探して聴きにいこうと思う。
また、八村義夫氏や河南智雄氏のような作曲スタイルをとる作曲家の発掘をしたい。
この分野の1980年代半ばくらいまでの作品は比較的多い。
図書館でなら楽譜や音源は探し出せるかもしれない。

考えてみればJ.S.バッハのような音楽とは全く別世界の音楽で、全く聴き方、鑑賞のしかたが異なる。
しかし、バッハや、古典形式やロマン形式の音楽だけでは物足りないし、音楽の見方に偏りが出る。
相当の音楽好きでも、多くの人が敬遠する現代音楽だっていいものはあると信じたい。
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