緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2017(1)

2017-01-04 22:36:28 | 音楽一般
今年も無事に新年を迎えることが出来た。
新年のあいさつというわけではないが、昨年を振り返りつつ今後の抱負などを書いてみたい。
このブログを始めて昨年12月で2000日を超えた。もう5年半にもなる。
記事数は427。ほぼ5日に1回の頻度である。少ない方だと思う。
しかし閲覧数は年々増えており、ありがたいと思っている。
元々自己満足を目的に始めたこのブログ。このような記事でも読んでいただけるのは嬉しく思うし、感謝している。
ましてコメントを書いて下さった方には本当に感謝している。
閲覧数が多くなった反面、書く内容にも気を付けなくてはならないという気持ちも出てきたが、これまでどおり出来るだけ感じたことをストレートに書いていきたい。
読む人を意識して無難な内容にするのは本意ではない。

昨年は1月に23年間住み慣れた所を離れ、転居したという大きな出来事があったが、それ以外は特段変わることはなかった。
平和にどっぷりつかってこんな記事を書いてのんきなものだと思う。こんな幸福がいつまで続くのか。
国の借金は今や1000兆円。国民一人当たり800万円を超えるという。世界1位の借金大国にまで成り下がった。
政府は今、お札をじゃぶじゃぶ発行して国債を買って無駄な公共工事を増やして雇用を支えるということをやっているが、こんなことをやっていていいわけがない。
高度成長期から1980年代までの右肩上がりの時代のように、売れるものをたくさん作って経済活動が活発になって人手不足になったのではないのに、工事業界や外食産業などで人手不足と聞く。これは不自然だし、危ない兆候だ。いつ財政破綻してもおかしくない。

しかしこのブログは音楽中心のものだ。本題にもどしたい。
ジャンル別に分けて、昨年の成果や今後の意気込みなどを書いていきたい。

1.合唱

昨年の3月に2つの高等学校の合唱部の定期演奏会を聴きに行った。
神奈川県立多摩高等学校と共立女子高等学校である。
多摩高等学校の定期演奏会は第50回記念とあって、大勢のOB・OGとの共演であり、大ホールの客席が殆ど埋まるほどの盛況であった。
多摩高等学校の演奏はこれまでNコン全国大会CDやNコンホームページでの地区大会などの動画で聴いていたが、生演奏を聴くのは初めてであった。
木島始作曲、信長貴富作曲の混声合唱組曲「ねがいごと」という曲が印象的で、その後Nコンホームページで多摩高等学校の録音を探し出し、何度も聴いた。
共立女子高等学校は一昨年の冬に新井和江作詞 高嶋みどり作曲の「きょうの陽に」という曲の聴き比べを何百回もやって選び抜いた高校である。
素晴らしい演奏であり、何度も繰り返し聴いた。
共立女子高等学校の定期演奏会はお嬢様学校らしいものであったが、卒業生の見送りの歌のシーンは感動的であった。このような経験をできるのはとても羨ましく思ったものだ。
この2つの高校はNコンや全日本合唱コンクールの全国大会にも出場したことのある実力校であるが、歌い方が実に自然で素朴なのだ。強豪校のような野心的なものを感じられないところが好きだ。
毎年全国大会に出場することを狙っていると、どうしても頭(意識)を使った演奏になる。
審査員やプロの指導者から細かく指摘したことを忠実に克服し、洗練された歌い方になるのであろう。
しかし本当に聴きたいのは歌い手の声や技術ではなく、歌声の裏から聴こえてくる気持ちである。
(もちろん技術も大切であるが高校生の演奏では優先度は2の次だ。)
その歌い手の日常の人間そのものと言っていい。つまり聴き手は歌い手の潜在的なものとの共有を求めているのである。歌い手が歌を作った人の感情と完全一体化し、そこから放出される感情との共有を得たいのである。

昨年の6月だったであろうか、会社の飲み会が終って帰路についたが、途中で飲み足りなかったのかコンビニで酒を買って家で飲むことにした。
酒を飲みながらYoutubeでパコ・デ・ルシアの演奏を見ていたら、偶然以前聴いていた、平成15年度のNコン課題曲である「あしたはどこから」(三枝成彰作曲、平峯千晶作詞)の動画が目についた。
演奏者は福島県立橘高等学校(Nコン全国大会)であった。
パコ・デ・ルシアを止めて、橘高等学校の「あしたはどこから」を聴いた。
一度聴いたらもう止められなくなった。この時、20回くらい連続して聴いたと思う。
そしてその後もこの演奏を何度も繰り返し聴いた。
曲や詩も素晴らしいが、この橘高等学校の無心の演奏に非常に心打たれた。
前半の「闇」の表現と転調してからの暗闇から抜け出た「陽」との対比が見事であるが、この転調してからの歌い方が物凄いのである。
特に「春の声がともに問うだろう」の部分は、聴き手の感情も持ちこたえられずガーっと出てしまう。
曲と詩の持つ感情との完全一体化に他ならない、としか言いようのない演奏だ。
審査員からすると細かく注文を付けたくなる箇所はあるかもしれない。
しかしそんな細かいことは取るに足らないのである。
演奏でどれだけ聴き手の心の奥まで届かせることができるか、大袈裟な言い方をすれば「聴き手の魂を揺さぶるほどの」演奏ができるかどうかが、いい演奏の評価基準ではないのか。
コンクールが終ってその演奏を「長年にわたって何度も聴き続けてくれる人が何人いるか」、これが最終的な演奏の良し悪しのメルクマールであると言えるのであって、金賞、銀賞を取ったからといってその演奏全てが一番優れているとは言い切れないのである。
コンクールで優勝して自分たちの演奏は最高なんだ、と思うことは決して正しいとは言えないと確信している。

(続きは後日、昨年のNコンブロック大会や全国大会の感想と今後の抱負を記事にする予定です)
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