伊福部昭(1914-2006)の曲に初めて触れたのは大学2年生の頃だったと思う。
中学生の時に買った、全音楽譜から出ていたギター教則本の巻末の広告に、伊福部昭作曲「古代日本旋法による踏歌」と「箜篌歌」の楽譜の紹介が掲載されていたが、「海外でも注目されるであろう」という紹介文が何故か強く記憶に残っていた。
しかしこれらの楽譜は既に絶版となっており、他の曲を探して大学2年生の時に、全音ギターピースで出ていた「ギターのためのトッカータ」を買って弾いてみたのである。
これが多分伊福部昭の音楽との最初の出会いだ。
そしてほどなくして、阿部保夫編「ギター珠玉アルバム」という曲集に収められていた、「古代日本旋法による踏歌」の楽譜も手に入れて、その一部をマンドリン・クラブの休憩時間に弾いたものだった。
この後学生時代、超おんぼろアパートに住んでいた時に、ラジオで「交響譚詩」という伊福部昭の初期作品を聴いた。
彼の本格的な代表作品を初めて全曲聴いたのが、この「交響譚詩」だった。
就職で東京に出てきてまもなく、秋葉原の石丸電気で「日本狂詩曲」と「交響譚詩」と「古代日本旋法による踏歌」の古い音源が収録されたCDを手に入れた。
「古代日本旋法による踏歌」の演奏者は故、阿部保夫氏であった。
このCDを会社の寮で何度も聴いた。
とくに「交響譚詩」の第2譚詩は何度も何度も聴いた。
日本人の心を強く刺激する音楽だった。
西洋の音楽に慣れきってしまった今日の我々にとって、この音楽は人によっては全く感じるものが無いかもしれない。
また人によっては新鮮な感動を覚えるかもしれない。
しかしこのような音楽は日本古来から親から子へと脈々と伝わってきたものであり、いわば日本人のDNAに深く刻み込まれたものであり、西洋の文化にすっかり凌駕され、浸透された現代においても、決して日本人の心から失われるものではないと確信しているのある。
今日紹介する「ヴァイオリン・ソナタ」(1985年作曲、正式名称は「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」)は、ヴァイオリニストの小林武史氏のために作曲された。
この曲を初めて聴いたのは30代半ば。
実家に帰省する時に乗った寝台列車の中で聴いた。
その後、1,2回聴いたのみに終わってしまっていた。しかし、今回2週間くらいかけて何度も聴いてみたら、この曲の素晴らしさが分かってきた。
小林武史氏はこの曲を、「名曲中の名曲で、伊福部昭の代表作の1つ」と評価している。
この曲の作曲は1985年と後期の作品であるが、曲想は先の、「日本狂詩曲」と「交響譚詩」に聴かれる伊福部昭の音楽のルーツに通じるものがある。
第2楽章「カンティレーナ、アンダンテ」が素晴らしい。
冒頭の主題からしばらくすると、何とももの悲しい子守唄のような旋律が現れるが、とても美しいのだ。
遠い昔の日本の暗い、静かな夜を思わせる。
このような音楽は賑やかな喧噪のなかから、贅沢な華美な暮らしから生まれるものではない。
貧しい庶民の表に決して出されることのなかったであろう、苦労、悲しみなどの気持ちが音をとおして伝わってくるようだ。
もしこの曲を聴く機会があったら、是非この部分の旋律は耳を澄まして心を無にして聴いて欲しいと願う。
第3楽章「アレグロ・ヴィヴァーチェ」は速い激しいリズムに刻まれて始まるが、その後速度を落とし、第2楽章のような、悲しくも美しい旋律が現れる。
この部分も素晴らしい。
この旋律も、何かを求め、幸福を願いながらも、何かの理由でついに実現できなかったり、阻害されたり、失われたりした時の無念の叫びが聴こえてくるようだ。
ここに西洋の音楽と決定的な違いがある。
西洋の音楽ばかり聴いていると、感覚は鈍くなると思う。
西洋の音楽は、形式、リズム、和声、構成に素晴らしいものが多いが、素朴な旋律、それも生の人間の抑圧された感情が裏に秘められた旋律を持つ曲は少ない。
また伊福部昭の音楽を聴いていると、日本の夜の静けさを常に感じる。
この独特の夜の静けさが表現されている曲を西洋の音楽に見出すことは難しい。
「夜想曲」とは本質的に違う。
このCDの演奏者、小林武史氏の演奏はものすごく感情に満ちている。
先に述べた第2楽章の悲しい旋律などは、聴く者の感情を強く刺激する。
ヴァイオリンは今まであまり聴いてこなかったが、今後聴く機会を増やしていこうかと思う。
中学生の時に買った、全音楽譜から出ていたギター教則本の巻末の広告に、伊福部昭作曲「古代日本旋法による踏歌」と「箜篌歌」の楽譜の紹介が掲載されていたが、「海外でも注目されるであろう」という紹介文が何故か強く記憶に残っていた。
しかしこれらの楽譜は既に絶版となっており、他の曲を探して大学2年生の時に、全音ギターピースで出ていた「ギターのためのトッカータ」を買って弾いてみたのである。
これが多分伊福部昭の音楽との最初の出会いだ。
そしてほどなくして、阿部保夫編「ギター珠玉アルバム」という曲集に収められていた、「古代日本旋法による踏歌」の楽譜も手に入れて、その一部をマンドリン・クラブの休憩時間に弾いたものだった。
この後学生時代、超おんぼろアパートに住んでいた時に、ラジオで「交響譚詩」という伊福部昭の初期作品を聴いた。
彼の本格的な代表作品を初めて全曲聴いたのが、この「交響譚詩」だった。
就職で東京に出てきてまもなく、秋葉原の石丸電気で「日本狂詩曲」と「交響譚詩」と「古代日本旋法による踏歌」の古い音源が収録されたCDを手に入れた。
「古代日本旋法による踏歌」の演奏者は故、阿部保夫氏であった。
このCDを会社の寮で何度も聴いた。
とくに「交響譚詩」の第2譚詩は何度も何度も聴いた。
日本人の心を強く刺激する音楽だった。
西洋の音楽に慣れきってしまった今日の我々にとって、この音楽は人によっては全く感じるものが無いかもしれない。
また人によっては新鮮な感動を覚えるかもしれない。
しかしこのような音楽は日本古来から親から子へと脈々と伝わってきたものであり、いわば日本人のDNAに深く刻み込まれたものであり、西洋の文化にすっかり凌駕され、浸透された現代においても、決して日本人の心から失われるものではないと確信しているのある。
今日紹介する「ヴァイオリン・ソナタ」(1985年作曲、正式名称は「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」)は、ヴァイオリニストの小林武史氏のために作曲された。
この曲を初めて聴いたのは30代半ば。
実家に帰省する時に乗った寝台列車の中で聴いた。
その後、1,2回聴いたのみに終わってしまっていた。しかし、今回2週間くらいかけて何度も聴いてみたら、この曲の素晴らしさが分かってきた。
小林武史氏はこの曲を、「名曲中の名曲で、伊福部昭の代表作の1つ」と評価している。
この曲の作曲は1985年と後期の作品であるが、曲想は先の、「日本狂詩曲」と「交響譚詩」に聴かれる伊福部昭の音楽のルーツに通じるものがある。
第2楽章「カンティレーナ、アンダンテ」が素晴らしい。
冒頭の主題からしばらくすると、何とももの悲しい子守唄のような旋律が現れるが、とても美しいのだ。
遠い昔の日本の暗い、静かな夜を思わせる。
このような音楽は賑やかな喧噪のなかから、贅沢な華美な暮らしから生まれるものではない。
貧しい庶民の表に決して出されることのなかったであろう、苦労、悲しみなどの気持ちが音をとおして伝わってくるようだ。
もしこの曲を聴く機会があったら、是非この部分の旋律は耳を澄まして心を無にして聴いて欲しいと願う。
第3楽章「アレグロ・ヴィヴァーチェ」は速い激しいリズムに刻まれて始まるが、その後速度を落とし、第2楽章のような、悲しくも美しい旋律が現れる。
この部分も素晴らしい。
この旋律も、何かを求め、幸福を願いながらも、何かの理由でついに実現できなかったり、阻害されたり、失われたりした時の無念の叫びが聴こえてくるようだ。
ここに西洋の音楽と決定的な違いがある。
西洋の音楽ばかり聴いていると、感覚は鈍くなると思う。
西洋の音楽は、形式、リズム、和声、構成に素晴らしいものが多いが、素朴な旋律、それも生の人間の抑圧された感情が裏に秘められた旋律を持つ曲は少ない。
また伊福部昭の音楽を聴いていると、日本の夜の静けさを常に感じる。
この独特の夜の静けさが表現されている曲を西洋の音楽に見出すことは難しい。
「夜想曲」とは本質的に違う。
このCDの演奏者、小林武史氏の演奏はものすごく感情に満ちている。
先に述べた第2楽章の悲しい旋律などは、聴く者の感情を強く刺激する。
ヴァイオリンは今まであまり聴いてこなかったが、今後聴く機会を増やしていこうかと思う。