緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

一色次郎「青幻記」を読む

2015-09-26 23:03:33 | 読書
ふと訪れた町の図書館の片隅に、今まで聞いたことのない作家の著作が置いてあった。
この作家の名前を、一色次郎(1916~1988)と言う。
その著作を手に取って、ページをパラパラとめくってみた。
何となく直観で読んでみようか、という気持ちになった。
家に帰り、インターネットで一色次郎のことを調べてみた。
彼を紹介する情報量は決して多くはなかった、「青幻記」という著作を紹介したコラムをいくつか目にすることができた。
かんたんな内容であるがその紹介文や感想文を読んで、すぐにでも読みたいと思った。
この本は既に絶版となっており、中古本を探したが数がわずかしかなかった。異常に高い値段が付いているものもあったが、幸い適価で売られている本が見つかり、翌日さっそく買いに行ったのである。

昭和42年8月初版、筑摩書房発行の198ページのあまり厚くないその本は、人手に渡らず、また最初の所有者もさほど読んでいなかったようで、中身はきれいなものであったが、紙は茶色く変色し、50年近い年月の経過を感じさせた。

この小説は、奄美大島と沖縄との間にある小さな沖永良部島を舞台に、はかなくも不幸な死を遂げた母と、その子とのきずなと純愛を描いた名作と呼ぶにふさわしい内容を持つ物語であった。
全体的にとても暗く、悲しいが、美しい物語だ。

結核を患う父と結婚した母(さわ)は、島で生まれた一人息子の稔を連れて鹿児島の祖父の元で暮らしていたが、父が死に、祖父の事業が傾くと、さわは離別させられ、稔は分家に追いやられる。
稔は分家で無理やり虫取器の行商に出され、暴力を振るわれ、ご飯も満足に食べさせられないという酷い仕打ちを受けた。
祖父から離別させられたさわは、一度島へ帰るが、稔のことが心配で、稔の側にいつも居ることが出来るとの思いで、平田という男と再婚する。
しかしこの平田は次第に粗暴で浪費家という、その正体を現し、さわに暴力を振るうようになっていた。
結核に感染したさわは、平田にも捨てられ、島に帰るための船を待っている時、分家に引き取られていてしばらく会えないでいた稔と再会する。
さわは稔に結核を移す危険を感じながらも稔を連れて島に帰る決意をする。
生まれ故郷の島に着いたさわと稔はやっとのことで実家にたどり着き、祖母と再会する。
稔はこの島で6か月間、母とともに過ごす。
しかしさわは日増しに衰弱していく。備蓄していた食料が底をついてきたからだ。
母の死期は近かった。
それでも島の敬老会の催し物で、さわはその後何十年も語り草となるほどの美しい踊りを披露する。
その母の姿を稔は生涯忘れることはなかった。
ある日、さわと稔は海岸に出て魚を採りに行く。海岸でたくさん魚が採れて2人とも久しぶりに楽しい時を過ごすが、天候が急変し、潮が急に海岸に流れ込み、急いで戻らなければならなくなった。
しかしここでさわは発作を起こし動けなくなる。
さわは稔を助けるため、稔に道筋を教える。さわは自分が助からないことが分かっていた。
さわは稔に何度も「おかあさん」と呼ぶよう強く求める。
翌日さわは海岸で死んでいるのを発見される。

その後40年経ち、主人公である稔が母と過ごした日々を回想するために、鹿児島、そして生まれ故郷の沖永良部島を訪れる。
そして母の面影を思い浮かべ、40年前の日々を回想する。
母を若い頃からよく知っていたニシ屋敷の鶴禎老人から話を聞き、母に関するさまざまな疑問が解けていく。
何故平田と結婚したのか、この魔性の男の暴力に耐え忍んだ理由なども。

40年ぶりに島を訪れた稔は母の遺骨を持ち帰るために、墓から頭蓋骨を出したが祖父と祖母と一緒に収められていいたため、どれが母のものか判別するの苦労した。
しかしやっとこれが母のものと確信した頭蓋骨は、鶴禎老人によると長い間墓から持ち出され、野ざらしにされていた。

この小説のすばらしさは、あらすじだけでは全く分からない。
ここ数年読んだ本の中では高橋和巳の「捨子物語」以来の深い感動を味わった。
幼いうちに両親を亡くし、分家に引き取られたが、そこで酷い仕打ちを受けながらも20歳過ぎまで過酷な人生を耐え忍んだ主人公の、わずかな期間でも幸せな時を過ごした母への思いの強さと、不幸な生涯を閉じた母とのきずなの強さが心に突き刺さる。
稔が分家で虐待されたり、学校でいじめられながらも、まっとうな人生を歩むことができたのは、この母親とのきずなが深かったために違いない。
どんなに過酷な人生であっても、その途上でたとえ短い間であっても、人間の無私の愛情を受け取ったものは、耐え忍んで生きていくことができるのである。

著者は一色次郎は、この本のあとがきによると父親は無実の罪で獄死し、母親は島で無残な死をとげたと書いている。
この小説は、著者自身の実体験をもとにして描かれていると言える。
だから文章から伝わってくるものがとても作り事とは思えない。
自分自身が真に味わったものから出てくる言葉で描かれているから、読む者に深い感動を与えるのである。

ところでこの小説は、1973年に映画化された。
監督:成島東一郎、脚本:平岩弓枝、音楽:武満徹
出演:田村高廣(稔)、賀来敦子(さわ)
全く幸いなことにこの映画を某サイトで観ることができた。最近投稿されていたので驚いた。
映画だと時間の制約か、微妙ないきさつを伝えきれていなかったり、一部原作と違っていた部分もあったが、とても感動に値するものであった。
15夜にさわが敬老会で披露した踊りの美しさが際立っていた。



【追記20150927】
一色次郎著、旺文社文庫版「左手の日記」の巻末に著者自身の年譜が記載されていた。
これによると、一色氏の幼い頃に父が亡くなっており、母と鹿児島で祖父の元に身を寄せていたが、祖父の事業(虫取器や大島紬などの製造)の失敗により、祖父の二号の分家へ引き取られ、母とはここで生別している。
11歳の時に大阪にいた母が結核療養のために帰島することになり、一緒に沖永良部島へ行くが、半年後に母は病死したと記載されている。
そして著者が47歳の時に勤め先の退職金で沖永良部島を36年ぶりに訪れ、母の事跡を訪ね歩く。
つまりこの「青幻記」の物語は、著者の実体験そのものをベースにしていると言える。
10代終わりからの一色氏の人生は職業と住居を何度も変え、作家を目指しながら放浪の生活を重ねている。
この年譜を見ているだけで過酷な人生を送ってきたことが分かる。

【追記20150927】
一色次郎氏の著作の2冊目「左手の日記」を読んでいる。
この小説は著者自身の18歳から20歳頃の日記を元に書かれたものであるが、熊本でいくつかの職に就いた後、鹿児島の分家に戻ってきた頃の生活が描かれている。
この分家で冷酷な仕打ちを受けながらも、作家を目指し、何とか強く生きようとする気持ちが伝わってくる。
この作家はありのままに自分の気持ちを表現しており、自分を恰好良く見せようとしていないところがいい。自分の弱さを否定していない。
こういう作品をもっと若い頃に読んでおけばよかったと思う。
仕事に役立つ読書や勉強は社会に出てからいくらでもできるが、それは仕事をしている間に役に立つというだけのことである。
若い頃に、人としての土台をつくる時期に、人の生き様を考えさせられるような本をたくさん読んでおいた方が良いと本当に感じる。
ノウハウを身に着けたり、一時的な感嘆を味わうような書物は、もっと後回しにするか封印しても損は無いと思う。

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