緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

芥川龍之介「芋粥」を読む

2015-09-16 21:51:50 | 読書
数年前に芥川龍之介全集を手に入れた。
全12巻で3千数百円という格安であったが、長い間倉庫に眠っていたらしく、箱に夥しいしみの跡が付いていた。
第1巻を読んだが、その後高橋和巳の著作に関心が移り、しばらく中断していた。
芥川龍之介全集の第1巻には、「羅生門」、「鼻」といった彼の代表作が収録されていたが、私が最も印象に残ったのは、「芋粥」という短編であった。
以下簡単にあらすじを紹介したい。

時代は平安時代。摂政藤原基経に仕えている五位の侍に、背が低く、赤鼻で、みすぼらしい服装をした、風采の上がらない40過ぎの者がいた。
彼は宮仕えの職場で、目上の者からは手真似だけで用を足されるというような、およそ人間扱いをされない冷酷な仕打ちを受け、同僚たちからは、その風貌や失態を真似されて嘲笑の的となったり、日常的に、たちの悪い悪戯をされたりしたのである。
このように大人とはいっても毎日すさまじいいじめを受けていた五位であったが、彼はそのいじめやいやがらせに無感覚であり、腹を立てたことは無かった。彼は一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間であった。
ではこの五位という主人公は、ただ軽蔑されるだけのために生まれてきたばかりで、何の希望も持っていなかったわけではなかった。彼は「芋粥」という、山芋を甘葛で煮た粥を飽きるほど飲んでみたいという欲望を抱いていた。
ある日宮中で饗宴が催された。宮仕えの侍たちにもご馳走がふるまわれたが、その中に例の芋粥があった。
五位が毎年楽しみにしている芋粥であったが、今年出された芋粥はとくに少ないものであった。五位は独り言のように「いつになったらこれに飽ける事かのう」と言った。
それを聞いた藤原利仁という位の高い武人が嘲笑し、「お望みなら、利仁がお飽かせ申そう」といい、「どうぢゃ」と五位の答えを催促すると、五位は「忝うござる」と答えるやいなや、利仁をはじめ周りの者から嘲笑の嵐を受ける。
数日後、五位は藤原利仁は京都東山の温泉に誘われ、2人の従者を従え馬で旅に出る。
しかし東山を過ぎても、山科を過ぎても利仁は歩みを止めなかった。そして利仁はついに自分の屋敷のある敦賀まで連れていくことを切り出す。
敦賀までの道中は盗賊が出るといううわさがあり、五位は不安になる。そんな心細い気持ちを持ちながら荒涼とした道を進むうちに、一匹の狐に出くわす。利仁はその狐を見事な腕前の捕らえ、その狐に「明日、家来の男たちを迎えに来させる」ように命じて逃がした。
次の日、果たして昨日利仁が狐に命じたとおりに、家来の者たちがニ、三十人2人を迎えに来ていた。
そして五位は利仁の屋敷に招待され、暖かい寝床につくが、時間が経っていくのが待ち遠しい気持ちと、芋粥を食べるということが、そう早く来てはならない、という2つの矛盾した気持ちを感じ、なかなか寝付けない。
あくる日目を覚ますと、外で大勢の男たち、女たちが忙しそうに2、3千本もあるかと思われる大量の山芋を切り出し、大きな鍋に入れて調理していた。
そして五位は朝飯の膳に出された先の大量の芋粥を前にして、食欲が失せ、自分を情けなく思うようになる。
それでも利仁は意地悪く笑いながら「ご遠慮は無用じゃ」といいながらなおも膳を勧める。
その時外で一昨日出会ったあの狐が座っているのが利仁の目に入った。そして利仁はこの狐にも芋粥をふるまうよう命じる。
この狐が芋粥にありつく姿を見て五位は心の中で、この敦賀の屋敷に来る前の、多くの同僚たちから愚弄される、憐れむべき孤独な自分、しかし同時に芋粥を飽くほど飲みたい欲望を大事に守ってきた自分をなつかしく振り返る。そしてこれ以上芋粥を飲まずに済むという安心感に浸るのである。

以上がこの物語のあらすじである。
この小説について作者が何を意図して書いたのか、いわゆるテーマとか主題というものについて、一般的には次のことが言われているようである。
インターネット等で取り上げられている一般的な見解には、「望は実現しないときに最も価値があり、いざ実現すれば価値がなくなってしまうもの」とか、「 人間は長年一定の環境につかると、変化よりも安定を求めてしまう、欲望を実現するよりも実現しなくてよいと思ってしまう。無下に扱われていても、その扱いに納得してしまい、自ら状況を変えようしないもの」というようなものを目にする。
確かにそのような人間の本質的なものを暗黙裡に示そうとした狙いがあることはもっともだと思う。
私はこの小説を読んだ後、以下のように感じた。

この小説は、藤原利仁と五位という、身分、育ち、風貌、性格、体力等の全く異にする人物の、芋粥という食べ物を通して浮き彫りにされる人間性の違いをテーマとして描かれたものだと思う。
藤原利仁はある饗宴で、五位が年1回の楽しみにしている芋粥を前にして言った「何時になったら、これに飽ける事かのう」という独り言を聴いて、軽蔑と憐憫の入り混じった嘲笑を浴びせかける。
そして半ば強引に芋粥をご馳走することに同意させ、周囲の人たちの失笑を誘う。
ここで作者はこの利仁を「この朔北の野人は、生活の方法を二つしか心得ていない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑う事である」と評している。この「笑う事」とは、嘲笑、すなわち人を見下げ、馬鹿にする笑いのことである。
利仁には、五位に芋粥をたくさんご馳走し、喜んでもらい、また自分も五位と喜びを分かち合うという、自然なやさしさから出てくる気持ちが無い。
利仁の招待の真意は、自分の偉大さ、権力や財力の誇示である。その力を五位に賞賛させることで、自分に力や価値を感じたいためである。

五位は利仁の敦賀の屋敷で、夜の寝床の中で、こんなにも早く芋粥にたくさんありつけることに不安を感じる。また家来が一夜のうちに集めた山芋、2、3千本を見て自分を情けなく思う。
いざ一生かかっても食べきれないほど調理された芋粥を前にして、五位は食欲をすっかり失い、顔中に玉のような脂汗をかく。
何故心待ちにしていた芋粥を前にして食欲を失ってしまったのか。長い間待ち望んでいたことが実現してしまったことで、急に欲望がしぼんでしまったと言えるのだろうか。
私は、五位が前の晩の寝床で不安を感じたり、翌日の朝の膳で食べきれないほどの芋粥を前にして食欲を失ったのは、利仁の招待の真意を無意識に感じ取り、恐怖と怒りを感じたからではないかと思う。
五位は意識の上では、こうもあっさりと芋粥にありついていいのか、と疑問に感じているが、このもてなしが芋粥を楽しむものではなく、屈辱を味わあされるものであることを心の底の無意識では分かっていたからではないか。

五位は、最後にこの芋粥をこれ以上食べずに済むという安心と共に、満面の汗が乾いていくのを感じ取る。
五位はこの屋敷に来る前の、多くの同僚たちから愚弄され、飼い主のない犬のように朱雀大路をうろつく孤独な自分であるが、芋粥に飽きたいという欲望を唯一大事に守ってきた幸福な自分をなつかしく感じる。
五位はここで人間として何が大切なのかに気が付く。
五位は利仁のこの招待の動機に気付き、利仁の心の貧しさに気付いたのではないか。
利仁は見かけと違って、本当は不幸な人間であることを悟ったのではないか。
利仁は表向きは位が高く、裕福で、立派であるが、人間としての内面の価値は五位自身よりも劣っていることに気付いたに違いない。

作者はこの2人について、個人的な感情を入れていない。すなわちこの対照的な2人の言動や、人間心理をあるがままに描写しているのみである。ここがこの作品の素晴らしいところである。
読者はこの芋粥という料理に対する、2人の人間の感じ方、価値観にあまりにも相違があることを暗黙のうちに感じ取る。
作者は実は、芋粥というささやかなものを通して、身分や財力の違い、勇敢さや頼りなさといった表に出ていることとは全く無関係の、人間の心の最も核となるものの違いを暗黙のうちに浮き彫りにしたかったのではないかと思うのである。

私は若い頃、利仁のようなタイプの人間と接し、またそのようなタイプの人の多い環境の中にいて、苦しんだことがあった。
しかし時が経ち、今、この利仁のようなタイプの言動に全く影響されなくなった。
それは利仁のような人間が、実は心に問題をかかえた不幸な人間であることに気が付いたからである。


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