緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

リスト編曲 シューベルト歌曲集を聴く

2014-03-09 21:50:02 | ピアノ
こんにちは。
春も間近ですが、まだまだ寒い日が続いています。
今日、旧ソ連時代の女流ピアニストだったマリヤ・グリンベルクのライブを録音を聴いた。
彼女が残した録音の中では恐らく一番最後のものと思われる、1976年5月2日、モスクワ音楽院大ホールでのライブ録音である。彼女が亡くなる約1年半前の67歳の頃だ。
今まで相当数のピアノのライブ録音を聴いたが、真に大きな感動が得られたのは、1988年のミケランジェリが弾く、ベートーヴェンのピアノソナタ第32番と、今日聴いたこのマリヤ・グリンベルク最晩年のライブ演奏のみである。
曲目はフランツ・リストが編曲したシューベルトの歌曲集から7つ選曲されたもの。

・Der Wanderer
・Liebesbotsbait
・Der Atlant
・Absobiet
・Die Stadt
・Estarrung
・Barcarolle

なんという音の響きであろう。こんなに豊かなピアノの響きを聴いたことがない。初めてグリンベルクの演奏(ベートーヴェンのピアノソナタ第32番 1961年)を聴いたときにまず驚いたのが、その独特な深い底から響いてくるような低音であったが、このライブ録音ではその低音がますます研ぎ澄まされ、力強く、また音というより人間の感情のように聴こえるのである。ピアノでこんな音を出せる演奏家はグリンベルク以外にいない。
それは高音も同じである。高音で奏でられる旋律はどうしようもなく悲しく感情を刺激される。
このシューベルトの歌曲集のライブ演奏は、グリンベルクの人生そのものである。全身全霊で奏でられる彼女の音楽を聴いて、会場の聴衆の多くが泣いたのではないだろうか。
悲劇を体験し、度重なる悲運を乗り越えてきたピアニスト。死ぬまで人々に音楽の素晴らしさを伝え続けた本物の音楽家である。
晩年に重い心臓病を患いながらも聴衆と音楽を分かち合うために演奏し続けたグリンベルク。このライブ演奏ではミスタッチがたくさんあるが、そんなことはどうでもいいくらい音楽の次元が大きくぶれることはない。
下のグリンベルクの顔写真は彼女の多くのCDのジャケットに採用されている。
なぜこの写真が多く使われているかわかるような気がする。
この写真の彼女の目が彼女の全てを物語っているからだ。慈愛に満ちた優しい目でもあり、また多くの不幸を体験した悲しい目でもあるからだ。


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ジャン・ミコーのベートーヴェン・ピアノソナタを聴く

2014-03-08 23:26:09 | ピアノ
こんにちは。
3月も半ばに入りますが真冬のように寒い日が続いています。
昨日の夜は夜中に寒くてエアコンを付けました。夜中に寒くてエアコンを付けたことなんてちょっと思い当たりません。
今日、先日紹介したフランスのピアニスト、ジャン・ミコー(1924~)のレコードを聴きました。先日Youtubeで聴いたのはショパンのワルツ第10番ロ短調、作品69の2番でした。
素晴らしい演奏です。幸福を切に望みながらもかなうことなく39歳で世を去ったショパンの苦悩の気持ちがひしひしと伝わってきます。この曲でこういう弾き方の出来る人はそういないですね。多くは繊細であっても軽やかにさらって弾いている。あるいは必要以上に強く速く弾きすぎている人もいる。
ジャン・ミコーの演奏を聴いてからCDやレコードを探したが全くといいほど無い。やっと探して見つけたが海外から取り寄せるしかなかった。ベートーヴェンのピアノソナタ集が見つかった。2枚組みの中古LPで日本円で2,700円ほど。送料は確か1,600円くらいだったか。
今日それが届きました。注文してから2週間以上かかりました。
曲目は、第14番(月光)、第23番(熱情)、第8番(悲愴)、第24番(テレーゼ)、第19番。
録音年は不明。1960年代から1970年代と思われます。



早速「月光」から聴いてみる。音が非常に独特。芯が強く、タッチも強い。こういうタッチの演奏は聴いたことがありません。初めて聴いたショパンのワルツ第10番も同様の音のタッチであったことを思い出す。現代のピアニストからは聴けない演奏だ。ギターであればアルアイレ主流ではなく、アポヤンド主流の奏法だ。
エミール・ギレリスが鋼鉄の指を持つピアニストと呼ばれていたが、ジャン・ミコーの音もギレリスとは印象が違うが鋼鉄のようなタッチを感じる。
タッチが強いので速い速度が要求される月光の第3楽章は軽快な演奏を聴きなれている人はもどかしく感じるかもしれません。しかしこの独特の音はなかなか聴けるものではない。
最も感動したのは「熱情」。音の強さと共に低音の響きが凄い。底から響いてくるような重厚な音。マリヤ・グリンベルクやアルトゥール・シュナーベルの低音とも違うが、凄い響きの音である。
このピアニストは音を最も重視していると思います。
器楽にとって最も重要なのは音だと思います。以前のブログで述べましたが、1.楽器そのものが持つ音の魅力を最大限に引き出しているか、2.音に感情エネルギーが伝達されているか、の2点が器楽演奏の最も重要な要素だと思います。
ジャン・ミコーの演奏を聴くとこの2点の要素を強く感じます。
心に突き刺さるような感情がこもった強い音、こういう音を演奏家から聴くことがだんだん少なくなってきたと思います。ギターでいうとアンドレス・セゴビアなど数人に限られます。
ピアノの音の魅力に気づいたのは今から十年ほど前です。それまではピアノの音の違いがなかなか分からなかった。
ピアノの音の魅力に初めて気づいたのはジャン・ドワイアンの弾くフォーレの夜想曲第6番を聴いたときです。なんという重厚な響きをするのだろうと感心しました。ジャケットに楽器がベーゼンドルファーと記されていました。
でもその後楽器に関係なく、タッチによりピアノの魅力的な強く重厚な音を引き出しているピアニストがいることもわかってきました。マリヤ・グリンベルクやクラウディオ・アラウがそうです。そして今日聴いたジャン・ミコーもピアノの音の魅力が存分に伝わってきます。グルダやポリーニの音とは全く次元の違う音です。
ジャン・ミコーの演奏はグルダのような軽快で流麗なものとは性質が違います。よって聴き手を選びますが、演奏を聴いて心に刻まれる深さは強いです。
ジャン・ミコーはある方のサイトによると、コルトーの弟子であり、パリ・エコール・ノルマル音楽院の教授、ギーゼキングの後任としてドイツ国立ザールブリュッケン音楽大学の名誉教授にもなったほどの演奏家と紹介されているが、殆ど知られていないのは録音を殆ど残さなかったからに違いない。高い実力を持ちながら録音嫌いのために知られていない実力者はピアノ界では結構いるようである。
ナルシソ・イエペスが若いとき、ヴァイオリニストで作曲家のジョルジュ・エネスコやピアニストのギーゼキングの教えを請うたことは結構知られているが、私がもしギタリストだったとしたら、ギリアやポンセなどのギタリストに習わず、ジャン・ミコーのような音楽家に音楽や音の出し方を学ばせてもらいたいと思うくらいです。
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感動した合唱曲(全日本合唱コンクール高等学校部門) (3)

2014-03-02 21:57:12 | 合唱
こんにちは。
寒い1日でした。冬に逆戻りしたようです。
久しぶりに合唱曲の話題です。このところピアノ曲の話が多いですが合唱曲も聴いています。
今日聴いたのは朝日新聞と全日本合唱連盟が主催する合唱コンクールの高等学校部門で、2004年度のものです。
曲は、作詞:工藤直子、作曲:松下耕、女声合唱のための組曲「愛するもののためにうたう歌」より「こころ」、「ばら」、「手をください」です。
演奏は北海道地区代表、北海道立中標津高等学校です。
7つの組曲から3曲選ばれていますが、無伴奏で詩も曲もとても短いです。
とても繊細な曲で30人前後の少人数編成の女声合唱でないと表現できない曲。
「こころ」は簡素な詩であるが、難しい詩でもある。理解しようと何度も繰り返し聴きなおす。
砕け散ったこころの破片をひとつひとつやさしく拾い上げることは自分を肯定できる人でないとできないですね。自分を嫌い憎んでいる人には絶対にできない。破片を放置する。時に自ら心を破壊する。そして不幸にも自ら砕いていることを意識できないでいる。
誰にも心が砕けることはあります。自分で破片を拾い上げられる人は幸せな人です。
しかし破片を拾い上げられない人、自ら砕いてしまう人は人生を苦しみます。
破片をていねいに拾い上げられるかどうかは、自分を肯定できるようになれるかどうかにかかっています。
この詩は心が砕けてもそれは自分のものだから大切にすることを言いたいのではないか。
人生の途上には砕けた心を修復するのが絶望的なほどの体験をすることがありますね。
しかしもし生きることを選択したならば、ひとつひとつ砕けたかけらを時間をかけて拾いあげていくしかないことを、この詩の作者は平易な表現のなかで教えているのではないか。
「ばら」を聴いていると安らかな気持ちになります。ちょうどいい湯加減のお湯に浸かっているときのような。いい旋律の音楽だ。
「はなびらが散るそこに、なにか楽しいことがやってくる」。女性でないと感じられない繊細さですね。つらいことから開放されて得た幸福感、何かを乗り越えたときの充足感、この先の希望という明るさが感じられる。
「手をください」は何ともいえない気持ちにさせる。「ばら」とは対照的な曲だ。
「からっぽの手」とは何を意味するのか。空虚な心だろうか。さびしく冷たく凍った心を意味していると思う。
孤独で荒涼とした人生の中で凍った心の中で、何かとつながりたいが出来ない葛藤を抱えている。その苦しみはたとえようもないものであろう。
作者はからっぽの手の人に対し、ポケットからその手を出して、私に下さいと語りかける。凍った心を溶かすのは本能的な愛情のみである。しかしこれは他人だけが行えるものではない。これは自分自身でも行えることを言いたかったのではないか。これをできるのは、自分に対し愛情を感じたそのときからである。
この「こころ」、「ばら」、「手を下さい」の3つの詩はばらばらに見えて、実は関連しているものだと思います。少なくても私にはそう感じられた。
さて演奏の方ですが、中標津高校の演奏は本当に素晴らしいです。
このような短い曲を詩の意味するものに同化し、繊細でかつときに内に秘めながらも激しい感情も表現しています。
詩の意味するものを純粋に聴き手に伝えることにしか集中していない、何も見返りを求めず、歌うことに全てのエネルギーを注いでいることが伝わってきます。
歌声が自然で、彼女たちの歌声の奥にある感情を感じ取ることができた。
地味で素朴な高校であるが、このような演奏をする学校が好きだ。



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大江戸捜査網 DVDコレクションを観る

2014-03-01 22:23:43 | その他の音楽
今から40年くらい前のことである。「大江戸捜査網」という時代劇の名作が放映されていた。昭和48年から昭和59年までの11年間続いた長寿番組でもあった。
この「大江戸捜査網」は時代劇の中でも最高傑作であり、不朽の名作である。
私がこの番組を初めて観たのが小学校5年生くらいの頃で、杉良太郎が主役をやっていた時である。
初めて見たときの頃を覚えている。当時時代劇という「水戸黄門」しか見ていなかったが、確か週末のある日、夜10時頃に放映されていたこの番組を家族との団欒のときに、ふと見てみようか、とういうことになったのがきっかけだった。
見てみたらとても面白かった。「また見ようね」と親に話した記憶が残っている。
以来、殆ど毎週この番組を見た。この番組の始まる時刻がやってくるのが楽しみで楽しみで、学校では友だちとチャンバラや忍者の真似事をしたり、ノートに刀や鎖鎌、手裏剣の絵を書いて自己満足にふけっていた。
里見浩太朗が主役だった頃、中学に上がってからしばらくして、この番組を見なくなってしまった。今から考えるととても惜しいことをした。
しかし20代になり、社会人になってからしばらくして、この大江戸捜査網をまた見たいと思うようになった。チャンバラはとっくに卒業したのに、この時に何故また見たくなったのかわからなかった。でもずっと見たいという気持ちは消えなかった。再放送はやっていないのかと気になった。
30歳を過ぎてからしばらくして、1990年代半ばにこの大江戸捜査網を東京12チャンネルで夜中の3時に再放送しているのを新聞のテレビ欄で見つけた。嬉しくて心が躍った。早速ビデオをセットして録画して終末の土曜日にまとめてみた。この再放送は里見浩太朗が主役の時であった。
この再放送の録画を見てなぜこの番組を無性に見たくなったのか、その理由がわかった。
それはこの番組の役者が迫真の演技をしていたからだ。まさに真剣勝負の演技、演技と言うより実際の出来事を見ているようにリアルだったからだ。それは主役だけでなく、脇役も同じだった。この時代の俳優たちがいかに優れていたか、人生を賭けた仕事をしていたかが分かる。殺陣の迫力など今の時代劇と比べたら雲泥の差である。
理由はそれだけではない。この番組の脚本が実に素晴らしかったからだ。今の時代では殆ど失ってしまった、人に対する純粋な優しさが俳優たちの迫真の演技により見事に描かれているからだ。それは弱い立場の者に対する優しさであり、親が子に対し抱く無償の愛情であり、仲間との固いきずなであったりする。
今の時代にドラマや時代劇でこのようなテーマを表現したり、言葉に出すこともあるが、しらけるから敢えて抑制する傾向があるのではないか。しかし大江戸捜査網ではこれらの感情がストレートに表現されている。この時代でしか出来なかったのではないかと思う。
1960年代後半から1970年代半ば過ぎまでが戦後の日本で最もいい時代であったと思う。幸いにも私はこの時代に多感な少年期、思春期を過ごすことができた。私の今までの人生で最も楽しく、充実した時代でもあった。
新聞の投書などで思いかけず人のふれあいでいい体験をした話を読むことがあるが、大江戸捜査網が放映されていた時代はそのようなふれあいは極く自然にあり、当たり前のことであったのだ。
1月に入ってから朝日新聞でこの大江戸捜査網の解説付きDVDが販売されることを知り、創刊号から購読し始めた。
今1970年代に放映されたこの番組のDVDを見ると、今は殆ど失われてしまったものを思い起こすことができる。失われてしまったものとは先に書いた人と人との間の打算のない純粋な感情である。そしてこれらの感情を俳優たちがまるで実際に本当に出しているのを見て驚く。
話を元に戻すが、この番組を20年以上経っても何度か見たいと思った理由は先に書いたこと以外にもある。それは音楽が素晴らしかったからだ。オープニング・テーマ曲や最後の悪人を成敗する時に決まって流れる挿入曲もいいが、時折流れる短い挿入曲がまた素晴らしいのだ。実際に聴けばわかるが、素朴で簡素でありながら実にしみじみとしたいい曲なのだ。この曲の旋律は庶民の日常生活から感じ取ったものであることは間違いない。安堵するような優しい旋律もあるが、実に寂しく悲しい旋律もある。しかしその旋律は一度聴いたら深く心に刻まれるものである。小学生の時に聴いたこの挿入曲を40年経った今でもはっきりと覚えているほどである。大江戸捜査網が何度か再放送され、今回40年以上経ってからDVDで発売されたのは、この番組の配役や脚本が素晴らしかっただけでなく、音楽も素晴らしいものであったことは間違いないであろう。この曲を作曲した方はどのような方なのか。素晴らしい感性の持ち主であることに疑いの余地はない。
しかしこの時代の番組の音楽は決して軽くない。アニメでいえば1970年前後に放映されたアニメ、タイガーマスクの音楽も今の時代には決して書けないものである。エンディング・テーマ曲などは今の時代の子供が聴いたら驚くに違いない。
時代も変われば人の感じ方も変わるのが常である。今の時代が全面的に悪いとは思っていないが、少なくてもこの大江戸捜査網の時代には確かにあったものが失われてしまっていることは否定できない。
この大江戸捜査網のDVDを宣伝するわけではないが、このDVDを見てこの時代の人が当たり前に持っていた大切なものを思い起こすことができたことに対し、少なからず驚きを感ぜすにはいられない。

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ジャン・ドワイアン演奏 ショパン・ワルツ集を聴く

2014-03-01 01:25:53 | ピアノ
こんにちは。
今日は(もう日付が変わりましたが)とても暖かい日でした。先日まで雪が残っていたのが、いっきに春に近づいたようです。
さてこの前の土日は出勤で休みがなかったので、今日は午後、半日休暇を取らせてもらいました。長い間寝不足が続いていたので真っ直ぐ家に帰って寝ようとも思いましたが、折角の休暇なので東京に出ました。
2、3日前に沖縄のギター製作家Mさんから東京で開催される地元手工芸品の展示会の案内状が届き、これに行ってみることにした。
Mさんはギターの裏板を通常のハカランダやローズ・ウッドではなく、金属製(チタン)の薄い板を使用した特殊なギターを製作する方です。
裏板の材質変更だけではなく、下駒の弦の止め方を画期的な方法に変更し、音の伝達ロスを極限まで押えることに成功したとのことで、実際に楽器を弾かせてもらい、Mさん本人からも話を聞き、伝統的方法にとらわれず独自の自分の考え、しかも試行錯誤を何度も繰り返して得たであろう、音の伝達についての改善に対する努力に少なからず感心しました。
特に6弦の底から響いてくるような重く太い音は現代の伝統的ギターには無いもので、私が過去に弾いたことのあるギターでは、カズオ・サトーの2003年製、石井栄のトーレスモデル(サウンドホールの中に金属製のトルナボスが付いたもの)のみでした。これらは楽器店で弾かせてもらったものですが、Mさんの音は恐らくそれ以上ではないかと思う。
高音は9フレット以上のハイ・ポジションの鳴りが非常に良かったです。音は透明度がありかつ芯もあり、サスティーンも長いです。
ただ中音域がもう少しあればいいなと思いました。しかしこれは騒音のする部屋で数十分弾いただけでは判断できるものではありません。やはり自分のいつも弾いている場所で音を聴き取らないと真価を判定できるものではありません。
先に述べた弦の表面板への取付方法は、2年程前に来日して某楽器店でレクチャーしたパウリーノ・ベルナベ(Ⅱ世)氏も自ら紹介しているのを見たことがあるが、この方法をいち早く発見したのはMさんのようである(特許も取得されています)。
30分程度で終わりにする予定が1時間以上も長居してしまい、Mさんにお礼を言い会場を後にした。その足で新宿と御茶ノ水のディスク・ユニオンに寄ってCD、レコード探しをしましたが、思いもよらぬレコードが見つかり思わず買ってしまいました。
フランスのピアニスト、ジャン・ドワイアンの弾く、ショパン・14のワルツ集です。
フォーレやラベル、フランス近代作曲家の演奏家として名高いドワイアンは私の最も好きなピアニストの1人です。とくにフォーレのピアノ曲集はこの曲の最高の演奏であり、今だにこの演奏に追従できるものはありません。
フォーレの夜想曲では第1番を除き最高の演奏であり、第6番と第7番は凄いとしか言いようがない演奏です。第13番は最後の終わり方の解釈が好みが分かれるところです。
私は特に感銘を受けた演奏家の録音は、出来るだけ全部聴きたいと思い、少しづつCD、LPを集めてきました。ピアニストではドワイアンの他にマリヤ・グリンベルクや園田高弘がそうです。
特定のピアニストの録音を数多く聴くことで、その人の人生観とか音楽に対する姿勢、その人がどんな人なのかが分かってきますね。またそのピアニストの成長の過程、演奏表現の変遷も知ることができる。
これは一種の考え方、それも根本的な感じ方の共感、共有というものが起きているのだと思います。有名で華やかな演奏家、地味で知られていないが凄い演奏家、将来性を秘めている若い演奏家、良く宣伝されているけどさほどいいとは感じられない演奏家、世の中には色々なタイプの演奏家がいますが、あまり外に出ている評価とか評判、批評などはあてにしない方が良いと思います。自分で出会った演奏家に自らが心底共感することができるのなら、それで十分です。
今日見つけたのは先に述べたショパンのワルツ集。まだじっくり聴いていませんが、ドワイアンらしい正攻法的な演奏の中にも自らの強い信念が伝わってきます。派手さはないが感情に溺れない硬派な演奏。それでいて繊細さも持ち合わせている。

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