こんにちは。
久しぶりにNコンのホームページを覗いてみたら、いつのまにか今年度の課題曲が公開されていた。
早速高等学校部の詩と模範演奏を聴いてみた。
曲名は「共演者」。作詞:小林 香 作曲:横山 潤子
詩も曲も、マイナスの感情を一切寄せ付けない、とても明るく希望に満ちたクリアーで純粋なものを感じる。
色でいうとまぶしい白、または明るい水色を連想する。
人は学校や社会に出るといやおうなしにラベルを貼られる。
それは学校を卒業し社会に出て40年以上も続くのである。
社会にはいろいろな役割が用意されている。高度に発達した現代社会では、原始時代のようにその日に食べるものを探す、安全なねぐらを得る、子孫を残すなど本能的なものだけで生きていくわけにはいかない。
その役割を選び取るのはまさに自分である。
暴力団に入って人から搾取する道も選べるし、看護師になって人を助ける道も選ぶことができる。
舞台の上で自由だと言われても、要は自分が何をしたいかがわかっていないと何にもならない。自分が何をしたいかわかっていないと、舞台の上で人の言われるままに動くだけの自己喪失した人生になる。
フロムやエンデは、人はいざ自由を得ても不安になり自由から逃走することを描いた。
自分が何をしたいかわからないから自由を恐れるのである。他人の意思や決められたマニュアルに従って生きていた方がどれだけ楽か。しかし生きているという実感は感じられない。
このように言う私もかつて自己喪失した時代があった。荒涼とした砂漠を独りさまよい歩くような生き地獄のような人生だった。
日本という国では人がどのように生きるかはほとんど自由であり制約はない。
しかしそれは社会体制とか外面上の話しである。人の内面では誰もが自由を得ているとは限らない。
人は育つ過程で自分の意思に反して、心を縛られたり、自らの心を破壊することを余儀なくされることもある。
この詩に出てくる「ありのままの自分」を破壊して、他人に言われた理想の人間になるために自分にムチを打ち続けて心を病んでしまう人が今の時代は多いのではないか。
しかも「ありのままの自分」を破壊していることすら意識できずに。
「ありのままの自分」を破壊して瀕死の状態となり、そこから這い上がっていくことは並大抵のことではない。心を病んで死を選んだ人は、生きていれば何かいいことがあるかもしれないという、これまでの人生の中でわずかでも光を感じた経験がなかったのかもしれない。
人生という舞台で自らが主役となって自由に生きるためには、心が自分に対し肯定(=Yes)できる状態になってないといけないだろう。
幸せに育った人は何も意識せずにこれができるが、一方でこの状態に達するまでに何十年も苦しみ続ける人がいる。ついに死ぬまでこの状態になれずに死んでいく人もいる。
人間の最大の不公平さは貧富の差ではなく、意識せず自分にYesと言い続けられる人と、自分の意思に反して、Yesと言えない人がいることであろう。
しかしこのNコンを歌える時代、多感な思春期にわずかな時間でも人といて楽しい時間をすごし、その時の自分を好きになれた体験があれば、また何か一つでも好きなことを持つことが出来たならば、たとえ最大の苦境に陥っても何とか這い上がっていけると思う。
「共演者」とは自分を常に肯定し続ける心の中のもう一人の自分のことである。
若い人たちが人生の土台をつくる時期に「共演者」が「ありのままの自分」を破壊しないように生きていかれるようになってもらいたい。
この詩を読み、私自身のこれまでの体験から感じたことを述べさせてもらった。
久しぶりにNコンのホームページを覗いてみたら、いつのまにか今年度の課題曲が公開されていた。
早速高等学校部の詩と模範演奏を聴いてみた。
曲名は「共演者」。作詞:小林 香 作曲:横山 潤子
詩も曲も、マイナスの感情を一切寄せ付けない、とても明るく希望に満ちたクリアーで純粋なものを感じる。
色でいうとまぶしい白、または明るい水色を連想する。
人は学校や社会に出るといやおうなしにラベルを貼られる。
それは学校を卒業し社会に出て40年以上も続くのである。
社会にはいろいろな役割が用意されている。高度に発達した現代社会では、原始時代のようにその日に食べるものを探す、安全なねぐらを得る、子孫を残すなど本能的なものだけで生きていくわけにはいかない。
その役割を選び取るのはまさに自分である。
暴力団に入って人から搾取する道も選べるし、看護師になって人を助ける道も選ぶことができる。
舞台の上で自由だと言われても、要は自分が何をしたいかがわかっていないと何にもならない。自分が何をしたいかわかっていないと、舞台の上で人の言われるままに動くだけの自己喪失した人生になる。
フロムやエンデは、人はいざ自由を得ても不安になり自由から逃走することを描いた。
自分が何をしたいかわからないから自由を恐れるのである。他人の意思や決められたマニュアルに従って生きていた方がどれだけ楽か。しかし生きているという実感は感じられない。
このように言う私もかつて自己喪失した時代があった。荒涼とした砂漠を独りさまよい歩くような生き地獄のような人生だった。
日本という国では人がどのように生きるかはほとんど自由であり制約はない。
しかしそれは社会体制とか外面上の話しである。人の内面では誰もが自由を得ているとは限らない。
人は育つ過程で自分の意思に反して、心を縛られたり、自らの心を破壊することを余儀なくされることもある。
この詩に出てくる「ありのままの自分」を破壊して、他人に言われた理想の人間になるために自分にムチを打ち続けて心を病んでしまう人が今の時代は多いのではないか。
しかも「ありのままの自分」を破壊していることすら意識できずに。
「ありのままの自分」を破壊して瀕死の状態となり、そこから這い上がっていくことは並大抵のことではない。心を病んで死を選んだ人は、生きていれば何かいいことがあるかもしれないという、これまでの人生の中でわずかでも光を感じた経験がなかったのかもしれない。
人生という舞台で自らが主役となって自由に生きるためには、心が自分に対し肯定(=Yes)できる状態になってないといけないだろう。
幸せに育った人は何も意識せずにこれができるが、一方でこの状態に達するまでに何十年も苦しみ続ける人がいる。ついに死ぬまでこの状態になれずに死んでいく人もいる。
人間の最大の不公平さは貧富の差ではなく、意識せず自分にYesと言い続けられる人と、自分の意思に反して、Yesと言えない人がいることであろう。
しかしこのNコンを歌える時代、多感な思春期にわずかな時間でも人といて楽しい時間をすごし、その時の自分を好きになれた体験があれば、また何か一つでも好きなことを持つことが出来たならば、たとえ最大の苦境に陥っても何とか這い上がっていけると思う。
「共演者」とは自分を常に肯定し続ける心の中のもう一人の自分のことである。
若い人たちが人生の土台をつくる時期に「共演者」が「ありのままの自分」を破壊しないように生きていかれるようになってもらいたい。
この詩を読み、私自身のこれまでの体験から感じたことを述べさせてもらった。