先日、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番の演奏の記事で紹介した、アメリカのピアニスト、チャールズ・ローゼンの著作、「ピアノ・ノート」(みすず書房)を図書館から借りて読んでみた。
完読に至っていないが、興味を惹かれたテーマとローゼンの見解について考えてみたいと思う。
この本の第6章「レコーディング」をまず読んでみた。
まず、現代のレコーディングは、「テープ・スプライシング技法」のおかげでずっと簡単になったと言われているが、これは真実の一部に過ぎないと言う。
「テープ・スプライシング技法」とは、テープの切り貼りであり、ミスしたり、気に入らない部分を別テイクの録音から選び出し、入れ替える技術である。
昔小学生の時に、刑事コロンボで、このテープの切り貼りのシーンを見たことがある。
テープをはさみやカッターで切断し、セロテープで接着するようだ。
このような作業を行うのは家内工業的な技術者が行っていたとのこと。
(下記に実演があるので参考になる)
http://www.nihon-onkyo.co.jp/report/splicing_guide.html
LPレコードの時代、すなわち1980年代半ばまではこのテープ・スプライシング技法により編集録音が行われていた、ということになる。
ローゼンが言うには、ピアノ演奏のアナログ・テープ録音の場合、スプライシングはほとんど児戯とも言えるほど簡単な作業だったそうだ。
ギターの場合、確かに切り貼りしているのではないかと感じた録音はある。
高校時代に何度も繰り返し聴いていたジュリアン・ブリームの録音、そしてイエペスのバッハのリュート組曲の録音でそれらしきものを微妙に感じたことがある。
ピアノの例では、フリードリッヒ・グルダが弾くベートーヴェンのピアノソナタであるフレーズの音がその前後の音とはっきりわかるくらい違っていたので、切り貼りしていることは容易に認識できた。
しかし、デジタル録音の時代になると、今までのアナロクのような手作業ではなく、もっと精巧な技術で編集が可能となり、演奏時の背景の雑音ですら取り除くこともできるが、その反面、アナログ録音よりも繊細さに欠けていると言う。
その理由として、「人間の耳は、現行のデジタルシステムがとりこぼす音楽のダイナミックなニュアンスを聴きとることができるので、背景の雑音を消した音楽が妙に無菌的な印象を与えるためである」と言う。
デジタル録音では恐らく切り貼りしていることは全くというほどわからないのであろう。
無菌的な印象はたしかにある。真空状態での演奏と言ってもいい。
背景の雑音は一切無く、楽器の音だけが浮かび上がる。
クリアであるが、何か自然さに欠けている。
私はデジタル時代になってから録音された演奏よりも、アナログ時代に録音された演奏の方を好む。
その理由としては、背景の雑音、例えば演奏者の息遣い、ホールの残響、ピアノのハンマーを叩く音、など、その曲が演奏されている空間に居合わせている感覚を感じることができるからだ。
ピアノの録音では、ジャン・ドワイアンが録音したフォーレの夜想曲で聴こえてくる楽器のハンマーと金属弦が触れる音や、フレーズとフレースの境目で譜面をめくる音までが聴こえてくる。
ギターの録音では、イエペスが録音した、ロドリーゴの「祈祷と踊り」で聴こえてくる、鳥の鳴き声とも違う正体不明?の音が断続的にかなり長く聴こえてくるものもあった。
この2つの録音は、とても音がリアルに聴こえてくるものであり、私は今まで聴いた録音の中でも最上位に入るものである。
このような編集録音は「ライブ録音」でも行われることがある。
演奏会でノーミスで弾くことはまず稀だ。
どんな一流の演奏者だって必ず破綻がある。
ライブ録音の音源をレコード化、CD化しようとする際、ライブの演奏をそのまま、すなわち破綻や不出来も含めそのままで編集する場合と、リハーサルなどで別録音した音源の一部分を破綻した部分や気に入らない部分と入れ替えて編集する場合とがある。
後者の例として、園田高広が残したベートーヴェンのピアノソナタ全集の3度の録音のうちの2番目、これは1983年の東京文化会館小ホールでのライブ録音であったが、編集されていることが解説書に記されている。
つまりライブ録音ですら編集されているということである。
このような録音方法の実態についてローゼンは次のように述べている。
「レコードをつくる過程で必要な計算は、なんであれ隠しておくべきもので、見せびらかすものではない。わたしたちは演奏が自然なもので、音楽は作曲家や演奏家の心の表現そのものであるようなふりをしなければならない。この過程で録音機器やマイクは受動的な記録係に過ぎない。わたしたちがクラシックのレコードに求めるのは忠実さであり信頼性である。つまり、録音機材などいっさい存在しないかのような、演奏サウンドへの忠実さと、いかなる方法であれ混ぜ物や変形のない、演奏されたままの音だと保証する信頼性だ。だが実際にはライブ録音でさえ、こうした条件はほとんど神話である。」
聴く側からこのような信頼性が求められるから、編集録音は倫理的なジレンマに陥る。
つまり、まがい物、ニセ物を聴く側にお金を払ってもらって提供しているという、一種の罪悪感のようなものだ。
この本によると、ホロヴィッツはスプライシングが一般的になると、わがままな要求をするようになったと言う。
すなわちプロデューサーや技術者泣かせの難しい入れ替えの要求をしていたというのだ。
このようにたとえ世界最高レベルの演奏家ですら、この編集録音の誘惑に勝てない人がいるという事実である。
しかしローゼンは編集録音に対し次のように結論づけている。
「現代の編集慣行に倫理的とまどいを覚えるのがわからないではない。だが、つまるところ、わたしはまちがった音をスプライスで消すのと、納得のいくまで全曲とおして十六回弾くことのあいだに大した差があるとは思えない。
」と。
つまり、録音プレッシャーの中で16回も精魂尽き果てるまで納得のいく演奏をしつづけるのと、普段の環境でリラックスした最高の状態でノーミスで演奏されるのと同じレベルでスプライシングが行われるのは、そう変わらないといっているのである。
私もギターの録音をたまにやるが、短い簡単な曲は別として、全曲とおしてノーミスで録音できたことは皆無である。
もちろん私の場合、練習時間が少ない(週2回、土日の各2時間程度)ので当然練習不足でそうなることは明らかであるが、それでも納得の行く録音をできるまでには何十回も、それも何日もかけて行わなければならないと感じる。それでも運よく幸運にも1回はいいのが録れるのがいいところだ。
カメラを意識すると、独りで弾いていても緊張してくる。
プロデューサーや録音技師などがつきっきりで側にいられたら、プロの演奏家であっても大曲、難曲をノーミスで弾くことは極めて困難なことに違いない。
だから私はローゼンの見解と同じく、スプライシングであれば許容できると思う。
しかし1990年代から主流となった音加工はどうであろう。
音加工とは、電気処理により、生の音を全く別の音に置き換えてしまう技術だ。
リバーブ、エコー、エフェクトなどの技術があげられる。
ローゼンはこの音加工という技術には何も触れていなかったが、恐らくこの著作を書いた時にはその技術が未だ確立していなかったに違いない。
しかし悪く言えば、音加工とは、悪い素材にきらびやかなメッキを施し、表面上綺麗に見せているのと同じことである。
カラオケボックスのあのやたらエコーのかかったマイクで歌を歌うと、下手な人でもそれなりに聴こえてしまうのと同じような効果をもたらす。
自分の生の音に自信がなければないほど、このような電気処理技術にたよるようになるであろう。
スプライシングは聴いてもなかなか分からないが、この電気処理は如実に認識できる。
Youtubeなどで、この電気処理を施した演奏がやたら氾濫しているが、一体演奏者の生の音は何なんだ、と言いたくなる。
プロの演奏家の場合、ここまで露骨ではないが、電気処理に頼っている演奏家は沢山いる。
現代の演奏家が昔に比べ、生の音に魅力が無くなってきている要因の一つに、この電気処理による音変換の技術が横行しているのではないかとさえ思う。
つまり生の音で真剣勝負(ちょっと大げさだが)しなくなったことの結果なのではないか。
要するに生の音そのものを考える機会、追求する姿勢、研鑽する努力が失われてしまったのではないか、ということである。
録音技術も、LPレコード時代のようなホールや舞台で実際に演奏されるそのものの音を再現することに最大限の技術とエネルギーを注力していた時代よりも、電子技術が進歩した現代の方が衰退していると感じる。
スプライシングは許容されても電気処理による音加工は絶対にさけるべきだと思うのである。
完読に至っていないが、興味を惹かれたテーマとローゼンの見解について考えてみたいと思う。
この本の第6章「レコーディング」をまず読んでみた。
まず、現代のレコーディングは、「テープ・スプライシング技法」のおかげでずっと簡単になったと言われているが、これは真実の一部に過ぎないと言う。
「テープ・スプライシング技法」とは、テープの切り貼りであり、ミスしたり、気に入らない部分を別テイクの録音から選び出し、入れ替える技術である。
昔小学生の時に、刑事コロンボで、このテープの切り貼りのシーンを見たことがある。
テープをはさみやカッターで切断し、セロテープで接着するようだ。
このような作業を行うのは家内工業的な技術者が行っていたとのこと。
(下記に実演があるので参考になる)
http://www.nihon-onkyo.co.jp/report/splicing_guide.html
LPレコードの時代、すなわち1980年代半ばまではこのテープ・スプライシング技法により編集録音が行われていた、ということになる。
ローゼンが言うには、ピアノ演奏のアナログ・テープ録音の場合、スプライシングはほとんど児戯とも言えるほど簡単な作業だったそうだ。
ギターの場合、確かに切り貼りしているのではないかと感じた録音はある。
高校時代に何度も繰り返し聴いていたジュリアン・ブリームの録音、そしてイエペスのバッハのリュート組曲の録音でそれらしきものを微妙に感じたことがある。
ピアノの例では、フリードリッヒ・グルダが弾くベートーヴェンのピアノソナタであるフレーズの音がその前後の音とはっきりわかるくらい違っていたので、切り貼りしていることは容易に認識できた。
しかし、デジタル録音の時代になると、今までのアナロクのような手作業ではなく、もっと精巧な技術で編集が可能となり、演奏時の背景の雑音ですら取り除くこともできるが、その反面、アナログ録音よりも繊細さに欠けていると言う。
その理由として、「人間の耳は、現行のデジタルシステムがとりこぼす音楽のダイナミックなニュアンスを聴きとることができるので、背景の雑音を消した音楽が妙に無菌的な印象を与えるためである」と言う。
デジタル録音では恐らく切り貼りしていることは全くというほどわからないのであろう。
無菌的な印象はたしかにある。真空状態での演奏と言ってもいい。
背景の雑音は一切無く、楽器の音だけが浮かび上がる。
クリアであるが、何か自然さに欠けている。
私はデジタル時代になってから録音された演奏よりも、アナログ時代に録音された演奏の方を好む。
その理由としては、背景の雑音、例えば演奏者の息遣い、ホールの残響、ピアノのハンマーを叩く音、など、その曲が演奏されている空間に居合わせている感覚を感じることができるからだ。
ピアノの録音では、ジャン・ドワイアンが録音したフォーレの夜想曲で聴こえてくる楽器のハンマーと金属弦が触れる音や、フレーズとフレースの境目で譜面をめくる音までが聴こえてくる。
ギターの録音では、イエペスが録音した、ロドリーゴの「祈祷と踊り」で聴こえてくる、鳥の鳴き声とも違う正体不明?の音が断続的にかなり長く聴こえてくるものもあった。
この2つの録音は、とても音がリアルに聴こえてくるものであり、私は今まで聴いた録音の中でも最上位に入るものである。
このような編集録音は「ライブ録音」でも行われることがある。
演奏会でノーミスで弾くことはまず稀だ。
どんな一流の演奏者だって必ず破綻がある。
ライブ録音の音源をレコード化、CD化しようとする際、ライブの演奏をそのまま、すなわち破綻や不出来も含めそのままで編集する場合と、リハーサルなどで別録音した音源の一部分を破綻した部分や気に入らない部分と入れ替えて編集する場合とがある。
後者の例として、園田高広が残したベートーヴェンのピアノソナタ全集の3度の録音のうちの2番目、これは1983年の東京文化会館小ホールでのライブ録音であったが、編集されていることが解説書に記されている。
つまりライブ録音ですら編集されているということである。
このような録音方法の実態についてローゼンは次のように述べている。
「レコードをつくる過程で必要な計算は、なんであれ隠しておくべきもので、見せびらかすものではない。わたしたちは演奏が自然なもので、音楽は作曲家や演奏家の心の表現そのものであるようなふりをしなければならない。この過程で録音機器やマイクは受動的な記録係に過ぎない。わたしたちがクラシックのレコードに求めるのは忠実さであり信頼性である。つまり、録音機材などいっさい存在しないかのような、演奏サウンドへの忠実さと、いかなる方法であれ混ぜ物や変形のない、演奏されたままの音だと保証する信頼性だ。だが実際にはライブ録音でさえ、こうした条件はほとんど神話である。」
聴く側からこのような信頼性が求められるから、編集録音は倫理的なジレンマに陥る。
つまり、まがい物、ニセ物を聴く側にお金を払ってもらって提供しているという、一種の罪悪感のようなものだ。
この本によると、ホロヴィッツはスプライシングが一般的になると、わがままな要求をするようになったと言う。
すなわちプロデューサーや技術者泣かせの難しい入れ替えの要求をしていたというのだ。
このようにたとえ世界最高レベルの演奏家ですら、この編集録音の誘惑に勝てない人がいるという事実である。
しかしローゼンは編集録音に対し次のように結論づけている。
「現代の編集慣行に倫理的とまどいを覚えるのがわからないではない。だが、つまるところ、わたしはまちがった音をスプライスで消すのと、納得のいくまで全曲とおして十六回弾くことのあいだに大した差があるとは思えない。
」と。
つまり、録音プレッシャーの中で16回も精魂尽き果てるまで納得のいく演奏をしつづけるのと、普段の環境でリラックスした最高の状態でノーミスで演奏されるのと同じレベルでスプライシングが行われるのは、そう変わらないといっているのである。
私もギターの録音をたまにやるが、短い簡単な曲は別として、全曲とおしてノーミスで録音できたことは皆無である。
もちろん私の場合、練習時間が少ない(週2回、土日の各2時間程度)ので当然練習不足でそうなることは明らかであるが、それでも納得の行く録音をできるまでには何十回も、それも何日もかけて行わなければならないと感じる。それでも運よく幸運にも1回はいいのが録れるのがいいところだ。
カメラを意識すると、独りで弾いていても緊張してくる。
プロデューサーや録音技師などがつきっきりで側にいられたら、プロの演奏家であっても大曲、難曲をノーミスで弾くことは極めて困難なことに違いない。
だから私はローゼンの見解と同じく、スプライシングであれば許容できると思う。
しかし1990年代から主流となった音加工はどうであろう。
音加工とは、電気処理により、生の音を全く別の音に置き換えてしまう技術だ。
リバーブ、エコー、エフェクトなどの技術があげられる。
ローゼンはこの音加工という技術には何も触れていなかったが、恐らくこの著作を書いた時にはその技術が未だ確立していなかったに違いない。
しかし悪く言えば、音加工とは、悪い素材にきらびやかなメッキを施し、表面上綺麗に見せているのと同じことである。
カラオケボックスのあのやたらエコーのかかったマイクで歌を歌うと、下手な人でもそれなりに聴こえてしまうのと同じような効果をもたらす。
自分の生の音に自信がなければないほど、このような電気処理技術にたよるようになるであろう。
スプライシングは聴いてもなかなか分からないが、この電気処理は如実に認識できる。
Youtubeなどで、この電気処理を施した演奏がやたら氾濫しているが、一体演奏者の生の音は何なんだ、と言いたくなる。
プロの演奏家の場合、ここまで露骨ではないが、電気処理に頼っている演奏家は沢山いる。
現代の演奏家が昔に比べ、生の音に魅力が無くなってきている要因の一つに、この電気処理による音変換の技術が横行しているのではないかとさえ思う。
つまり生の音で真剣勝負(ちょっと大げさだが)しなくなったことの結果なのではないか。
要するに生の音そのものを考える機会、追求する姿勢、研鑽する努力が失われてしまったのではないか、ということである。
録音技術も、LPレコード時代のようなホールや舞台で実際に演奏されるそのものの音を再現することに最大限の技術とエネルギーを注力していた時代よりも、電子技術が進歩した現代の方が衰退していると感じる。
スプライシングは許容されても電気処理による音加工は絶対にさけるべきだと思うのである。
おっしゃるように編集録音は好ましいことではありません。極力避けたいものです。
曲の本当の流れが損なわれてしまっているからですね。
-「完全ではなくともそこから、そこはかとなく演奏者の息遣いや人間性を見て取れることが大切なように思います」- 本当にその通りだと思います。
セゴビアの録音も音のビリツキや抜けがありますが、そんなことはどうでもいいくらい、音楽のスケールが大きすぎます。
ラッセルのようなギタリストがわずかでもミスをすると、その部分だけが浮かび上がり、気になってしょうがなくなるではないでしょうか。
音楽の骨格がしっかりしていないから、ちょっとした破綻でもろくも崩れるように思えます。
しかし今のギター界って、どうして音楽の構成力、感情の強さに欠けている奏者を巨匠などと安易に言うのでしょうか。本当に不思議です。
マイルスデイビスの「Kind Of Blue」。
私も20代前半にジャズにのめり込んだ時期があり、もしかするとレコードが家に残っているかもしれません。探してみます。
セロニオス・モンク。懐かしい名前です。
20代前半に聴きました。前衛的なジャズだったと記憶しています。
コンサートなどで演奏者の生の音をそのまま聴けるような音作りを目指した録音エンジニアは姿を消し、いかに電気処理で味付けした音を競うかのような録音が氾濫しています。
Youtubeなど手軽で多くの演奏を聴けるようになりましたが、逆に聴く側の耳の感性は鈍くなっていくことは間違いないと思います。
北海道はもう寒いのでしょうね。
でも私は北海道のこれからの季節が一番好きです。
関東の晩秋はあまり情緒がありません。
この時期になると学生時代のマンドリンクラブの練習を思い出します。
今年も母校の定期演奏会を聴ききに行きたいのですが、かなうかどうか。
ありがとうございました。
今回の録音編集と音加工についての考察、大変に面白くまた興味深く読ませていただきました。
納得できなかった箇所を再度録音しなおし編集するという考え方は、私自身あまり好ましいこととは思えません。
一番最初に購入したイエペスのロンドン盤(6弦時代の)魔笛の主題と変奏ではテーマのところで明らかにミスをしています。そのことから人間イエペスの指使いが感じられ大変に好ましいものでした。
難しい個所をバラバラに演奏して編集すると、あたかも滑らかに演奏できる錯覚に陥ってしまいます。
完璧な演奏が果たして聴くものに感動を与えることができるのでしょうか。私は錯覚ととらえています。完全ではなくともそこから、そこはかとなく演奏者の息遣いや人間性を見て取れることが大切なように思います、
マイルスデイビスの「Kind Of Blue」というレコードの録音は、リーダーのマイルスが数時間前にスタジオに現れ何種類かのモード(スケール)を提示し曲のだいたいの感じを示したそうです。そのことにより瞬間芸術(集団即興演奏)が誕生しました。取り直しもほとんどなかったようです。このレコードが名盤として何度も再発されているのは演奏している人間のドラマが透けて見えるからでしょう。
そう考えると、ジャズのレコードには、録音中寝ているメンバーを起す声や「自分のバックでピアノの伴奏をするな」と言われた、セロニオス・モンクがソロを途中でやめてしまうハプニング、ドラマーが勢い余って曲の途中でロール(連打)をしてしまいビックリしたコルトレーン(録音中うつらうつらしていた)が急にシャキッとし素晴らしい演奏をしたり、逆におろおろしたり・・・。
実に人間らしいドラマがレコードを通じて伝わってきます。
これらの演奏に鋏を入れ完璧な演奏に仕上げても人の心など打つものではないでしょう。
音響処理についても、サウンドをより良く引き出すためのものであれば賛成ですが。エコーをかけたり、生の音を変質させるものは感心しませんね。デイビッドラッセルやバルエコなどの漂白剤で漂白したような音からは感動などは伝わってきません。
昔、ルディー・ヴァン・ゲルダーというジャズの録音エンジニア―がいました。彼の目指した、サウンドは、録音する会社のサウンドの個性を創るものでした。
ブルーノート・コロムビア・リバーサイド・プレステッジ・サボイなど・・・聞いた瞬間にどのレコード会社のレコードか分かったものです。
SPレコードからLPレコードへ、そして、CDへとデジタル化が進んできたことにより、個性の乏しい漂白された音楽が粗製乱造される昨今、また、簡単にダウンロードができ「良い音で」「良い音楽」というのが死語になってきたように感じるのは私だけではないでしょう。
それではまた…。