緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ジャン・ドワイアンの貴重な1960年のフォーレ・リサイタル録音を見つけた

2022-08-15 21:37:48 | ピアノ
フランスのピアニストでフォーレの演奏で知られたジャン・ドワイアン(1907~1982)の貴重な1960年の録音をYoutubeで見つけた。
ジャン・ドワイアンの名前はピアノ愛好家の中でも知られていないかマイナーな存在ではないかと思う。
1972年にエラートから出されたフォーレのピアノ作品全集は今でも廃盤にならずにロングセラーとなっているが(ただ一時期販売が途絶えていた時期があったが復刻された)、フォーレ以外の録音はほとんど知られていないし、ラベルなどフランスの作曲家の曲がわずかにあるくらいである(珍しいものとしてショパンのワルツ集はあるが)。

それでもジャン・ドワイアンの残したフォーレのピアノ曲の録音は最も優れたものといえる。
(ほかには、ジャン・フィリップ・コラールやジェルメーヌ・ティッサン・ヴァランタンの録音がお勧め)

60代半ばで録音を残したフォーレの夜想曲の演奏はどれもが素晴らしいが、とりわけ優れているのが第6番変ニ長調Op.63である。
ベーゼンドルファーを使用して演奏されたこの録音は、これ以上の演奏が今後現れることが無いといえるくらいの完成度の高さ、レベルの高さを有しており、感性の合う聴き手であれば聴いている最中に脳が強く覚醒してくるのを感じるであろう。
表現が難解で並大抵の解釈ではとても人に聴かせることのできない厳しさを持つフォーレの夜想曲をこれだけの表現力で演奏できるピアニストは、巨匠と言われるピアニストを含めてもごくわずかしかいないだろう。

ジャン・ドワイアンがこれだけの実力を持ちながらもあまり知られずに生涯を終えたのは、フランスの作曲家以外の曲を録音しなかったことや、恐らくではあるが表舞台に出ることを好まなかった彼の性格のためであったように思える。
実際、彼の写真はここ数年の間で復刻版のジャケットやYoutubeでようやくわずかばかりではあるが公開されるようなった。

以前どこかの記事で、ジャン・ドワイアンは誰もいない静かな夜に、自分のためだけに演奏するようなピアニストである、ということを読んだことがある。
またピアニストを紹介する本で、喜多尾道冬氏(音楽評論家)がジャン・ドワイアンのことを次のように評している。

「彼はじっくり落ち着けて、綿密に楽譜を読み、どんな音も弾き漏らすまいとする。そして物語的なめりはりと情景の色合いをバランスよく織り混ぜながら展開してゆく。そのやり方は囲碁と似て、何手も先を読みながら、じっくりと布石を打ってゆく細心さに近いと言えるだろうか。
そのためていねいではあるが、フランス音楽に必要な軽快さや鋭敏な反応に欠けがちとなる。曲の構造はよくわかるが、ゆっくり時間をかけ、ていねいに解析してゆくので、聴き手によってはじれったい思いがぬけないかもしれない。きまじめで説明的になる箇所もなきにしもあらずで、そんな場合は音楽学者の講義を受けているような気にさせられる。それも講義している最中に、自分ひとりの世界に没入して、相手の存在を忘れ、ひとりごとをつぶやいている調子にさえなる。
悪く言えば、木を見て森を見ない微視的な展開に近い。しかし森のなかの苔や茸にまで注目し、それらをひとつひとつ慈しみ、愛でるといった風情に欠けない。その没入の純粋さは他の演奏からは聴けないものだ。
ドワイアンの演奏が好きになるかどうかは、小さい生き物ものへの愛と、ファーブルのような忍耐強い観察力があるかどうかが決め手になる。また森のなかで孤独に湧き出る泉のせせらぎの音にいつまでも聴き惚れられるかどうかにも。そういった陰に隠れ、眼につきにくいものへの共感、それがドワイアンのポエジーの源となっている。だから彼の音楽は森の孤独を愛するものにいちばんよく理解されるだろう。」

フォーレのピアノ曲、とりわけ夜想曲は構成が緻密で旋律と伴奏で構成というような単純なものではない。
またフォーレは華やかな社交の場で披露されることを念頭に置いた曲を多く書いた中で、このピアノ独奏曲のうちでも夜想曲に関しては、そのようなものを意識せず、フォーレ自身の内面のありままをそのままに表現するために書かれたのではないかとさえ思える。でなければそれ以外の目的で第9番以降のあの暗く荒涼とした聴き手を寄せ付けないような曲をあえて作ったとは思えない。
つまりフォーレの夜想曲とはフォーレ自身のために作られた曲なのではないかと思うのである。
作品を世に問うというような野心的な要素とはかけ離れた、そのような制約にとらわれない自分の生の感情を解放するために作曲したように思えるのである。
このような性格を帯びる作風の曲を演奏するには、「自分ひとりの世界に没入して、相手の存在を忘れ、ひとりごとをつぶやく」ような演奏が必然的に求められるのではないか。
ドワイアンがフォーレのピアノ曲を愛し、フォーレのピアノ曲を最も理解するにまでに至ったのであれば、結果として上記の評論で描かれているような取り組みになっても不思議いではないだろう。
逆に言うと、フォーレの夜想曲のようなピアノ曲の演奏に軽快さや華麗さといった要素は相いれない。
自分の心の内面に深く降りていくようなアプローチ、心理的観察眼が必要になると思う。

下に貼り付けさせていただいたYoutubeの録音に聴く1960年録音の夜想曲第6番(30:44~)は1972年の録音とほぼ同じ解釈であるが、感情的エネルギーの強さという点ではやはり1960年の方が一歩抜きんでているように思える。それは第1番(00:00~)の演奏にも言える。
モノラル録音で細部の状態が聞き取れないのが残念だ。
しかし全体的には1972年の録音の方が優れている。この1972年の録音以上の録音は今後まず現れることはないだろう。

Jean Doyen (1960) A Fauré récital
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