3.現代音楽
昨年の現代音楽の収穫としては、「民音現代作曲音楽祭’79~’88」と題する8枚組のCDの中で下記の2曲に出会ったことである。
・ソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」 河南智雄作曲
ソプラノ:豊田喜代美 尾高忠明指揮 東京フィルハーモニー交響楽団 1983年ライブ録音
・ピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」 八村義夫作曲
ピアノ:高橋アキ 尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 1986年ライブ録音
八村義夫氏の名前は以前から知っていたし、彼の曲も既に聴いていたが、河南智雄氏は初めて聞く作曲家であった。
この8枚組CDの数多くの現代曲の中で、最も感動したのは河南智雄氏のソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」であった。
水の精で知られる「オンディーヌ」から連想される神話を題材としたのではなく、吉原幸子作詞の「オンディーヌ」という現代詩の第Ⅰ部を歌詞として曲を付けたものであった。
吉原幸子作詞の「オンディーヌ」は第8部まであるが、この曲は第Ⅰ部の詩を扱っている(一部分、詩文がカットされている)が、曲は3楽章からなり、演奏時間30分程にもなる大作である。短いようで長い。
吉原幸子氏の「オンディーヌ」は一般に知られる水の精オンディーヌと騎士ハンスとの悲恋のストーリーとは全く異なり、現代の男女の孤独な愛とむなしさを描いた内容だ。
著作権に触れるかもしれないが、あえてこの曲使用された詩を下記に記す(曲に使用されずカットされた部分は含まれていない)。
Ⅰ楽章
水
わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた
純粋とはこの世でひとつの病気です
愛を併発してそれは重くなる
だから
あなたはもうひとりのあなたを
病気のオンディーヌをさがせばよかった
ハンスたちはあなたを抱きながら
いつもよそ見をする
ゆるさないのが あなたの純粋
もっとやさしくなって
ゆるさうとさへしたのが
あなたの堕落
あなたの愛
愛は堕落なのかしら いつも
水のなかの水のやうに充ちたりて
透明なしづかないのちであったものが
冒され 乱され 濁される
それが にんげんのドラマのはじまり
破局にむかっての出発でした
さびしいなんて
はじめから あたりまへだった
ふたつの孤独の接点が
スパークして
とびのくやうに
ふたつの孤独を完成する
完全に
うつくしく
Ⅱ楽章
わかってゐながら
わたしのオンディーヌ
あなたの惧れたのは
別れではない
一致といふ破局
ふたつの孤独が スパークせずに
血を流して 流した血の糊で溶接されて
ふたりともゐなくなってしまふ
完全燃焼
のむなしい灰
水をひどくこはがったが
泳げないオンディーヌ
月明りの浜辺に
わたしをのこし
もっとたやすい愛の小部屋へ
逃げて行ったあなた
1楽章、2楽章はソプラノが上記歌詞を歌うが、3楽章はオーケストラのみである。
この詩から受ける印象は、とくに現代の孤独な男女間の荒涼としたむなしさである。
「ふたつの孤独の接点がスパークして とびのくやうに ふたつの孤独を完成する」と「ふたつの孤独が スパークせずに 血を流して 流した血の糊で溶接されて ふたりともゐなくなってしまふ」。
人に心を開けない、孤独な人間どおしの、悲しい運命、結末を洞察したような気持ちでうたっているように感じる。
ソプラノも不気味であるが、バックのオーケストラ、時に静かに、時に激しく奏でる演奏が荒涼としており、不気味さを増している。
詩のフレーズ間、詩の言葉と言葉の間に長い間があり、聴いていて自然と寒気がしてくる。
作曲者の河南智雄氏は「作曲にあたっては、詩の世界に寄りかかって雰囲気的な音を付けていくのではなく、もっと詩の世界と音の世界が総合され、止揚された存在となることを目指した」と言っている。
また、「そのためには、私の音楽がその流れの上に言葉を許す、というよりもっと積極的に詩句も、またその情念をも解放してゆくという状態になるまでは、全くペンは取れなかった」、「詩の一つ一つが実に多様な世界を要求しており、また一つの詩の中でも非常に振幅の大きい言葉が並置されているので、それは困難な作業の連続だった」と言っている。
この曲は無調であり機能調性は一切出てこないが、人間の心の深淵にある複雑な負の感情やエネルギーを表現するためには、調性音楽の枠組みの中では不可能であろう。
調性、拍子といった制約から開放され、オープンで自由な土俵で音を組み合わせ、構築していく。その世界はそれが故に、作曲家自身のあるがままの姿、能力に対峙させられることを避け得ず、生半可な姿勢では人に聴かせるだけの作品を生みだせないのではないかと思う。
機能調性の枠組みの中で、人間の幸福感、喜び、悲しみ、躍動感などを表現することは芸術としてのレベルの相違はあっても、比較的取り組み易いものである。
現代の人間が抱える、「闇」のような感情を音楽で表現するのは容易ではない。
その「闇」の感情を経験できなければ、作ることも出来なければ、その作ったものを味わうことも出来ない。
現代音楽といっても様々なものがあるが、あえて人間の負の感情に焦点をあてた作品を作り上げることほど難しいものはないと思う。
このソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」という曲は自分としては現代音楽の力作、傑作だと評価したい。
作曲者の河南智雄氏の情報は殆ど得られなかった。現在までの間、作曲はされていなかったのか。
若い時期にこれだけの作品を書ける力があったのに、埋没してしまっているのは残念である。
次に八村義夫氏のピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」であるが、氏の代表作と言える。
この曲の解説文で八村氏は、「私が恐らく、色々な音楽から何を一番最初に感じるかといえば、その音楽に秘められたあらゆる種類の、<負の感情>というべきものの質と量であり、自分の作品においても、まずそれを第一に考える」と言っている。
この作品は、「ある錯乱のあるフレーズを思い浮かべ、一つ一つの音の持つ表情と痛覚とを自在に呼吸させながら、生育させ変更させようとした」と書かれているように、「錯乱」という精神的状況に焦点を当て、その様を表現したものである。
演奏時間約10分の短い曲であるが、非常に難解であり、何度も聴かないと作者の意図を理解することは困難だ。
先にも書いたが、このような難解な現代音楽は調性音楽では取り扱わない、表現できない領域、例えば人間の「闇」に代表される負の感情や、哲学的論理などの表現を対象としているから、聴き手にとって理解不能、難解、ときに不愉快に感じるのは当たり前である。
だから聴き手を選ぶわけであるが、このような音楽でも好きな人はいる。
私も好きな方であるが、このような音楽を音楽では無いとして認めない専門家や愛好家もいる。
恐らく、音楽、ひいては芸術とは、多くの鑑賞者が感動したり、幸福感を感じたり、するべきものであるとの前提があるのだと思う。
それはそれで一つの考え方であるが、狭い見方のような気がする。
つまり現代音楽とは普通の調性音楽とは一線を画すものであり、別次元の音楽であり、それなりの楽しみ方がある。
「無視された聴衆」という著作で、機能調性を持たない無調音楽を徹底して批判したのは作曲家の原博であるが、いくら現代音楽を批判し排除しようとしても、この音楽に芸術的価値を見出し、評価する聴き手がいる以上は、この分野が消滅することはあり得ない。
1960年代から1970年代にかけて、八村義夫のような高い構築性、完成度をもつ芸術的価値の高い作品から、現代音楽の技法(例えば12音技法、セリー、クラスター)を表層的に使っただけの作品まで多数の前衛的な作品が作られ、音楽界は活況があったのだが、聴き手に理解されないことの虚しさを感じるようになった1980代以降、急速にこの分野の音楽活動はしぼんでしまった。
この時代現代音楽を多数作曲していた作曲家も人の趣向の変化に合わせるように、調性音楽に鞍替えしてしまった。
早世した八村義夫氏や毛利蔵人氏のような作曲家は、もし生きていたとしたら、このような時代の変化に合わせて自分の音楽を変えてしまったであろうか。私は決して彼らは信念を曲げることは無かったであろうと思う。
調性音楽であろうと、現代音楽であろうと、それぞれの分野でそれが自分の天性に合致した音楽であり、聴衆の趣向の多い少ないに関係なく、自分の天性と信念を信じて曲作りを貫き通すような作曲家が現代には少なくなってしまったのではないか。
八村義夫氏の「錯乱の論理」を聴いたあと、彼の初期のピアノ曲2曲を聴いた。
・「ピアノのためのインプロヴィゼーション 作品Ⅰ」
・「ピアノのための彼岸花の幻想 作品6」
これら2曲のものすごく難解で理解に苦しむが、何度か繰り返し聴いた。
とくに「ピアノのための彼岸花の幻想」であるが、これほど激しく、心に突き刺さるほどのエネルギーを持つ現代音楽のピアノ曲はかつて聴いたことがなかった。
現代音楽は聴くのに忍耐とエネルギーを要する。
難解な理解不能な哲学書を読むのに似ている。
昔学生時代、マックス・ウェーバーの著作の中でなんでもいいから読んでレポートを出せ、という課題が出されたことがあったが、怠け者だった私は、著作の中で最もページ数の少ない「理解社会学のカテゴリー」という本を選んだ。
しかしその本を読んでみるとものすごく難解で、何度も繰り返し読んでも理解できなかった。
そして理解できないまま、苦し紛れにレポートを書いたことがあったことを思い出す。
しかしその経験は妙に私の心に残りつづけ、この苦し紛れが結構いい体験だったことに後で気付いた。
この「理解社会学のカテゴリー」の本のことは社会人となり、何十年たっても忘れておらず、1年ほど前にまた読んでみたいと思い、絶版になっていたが古本で探して買った(しかしいまだに読んでいない)。
今年の抱負であるが、まず現代音楽のコンサートを探して聴きにいこうと思う。
また、八村義夫氏や河南智雄氏のような作曲スタイルをとる作曲家の発掘をしたい。
この分野の1980年代半ばくらいまでの作品は比較的多い。
図書館でなら楽譜や音源は探し出せるかもしれない。
考えてみればJ.S.バッハのような音楽とは全く別世界の音楽で、全く聴き方、鑑賞のしかたが異なる。
しかし、バッハや、古典形式やロマン形式の音楽だけでは物足りないし、音楽の見方に偏りが出る。
相当の音楽好きでも、多くの人が敬遠する現代音楽だっていいものはあると信じたい。
昨年の現代音楽の収穫としては、「民音現代作曲音楽祭’79~’88」と題する8枚組のCDの中で下記の2曲に出会ったことである。
・ソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」 河南智雄作曲
ソプラノ:豊田喜代美 尾高忠明指揮 東京フィルハーモニー交響楽団 1983年ライブ録音
・ピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」 八村義夫作曲
ピアノ:高橋アキ 尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 1986年ライブ録音
八村義夫氏の名前は以前から知っていたし、彼の曲も既に聴いていたが、河南智雄氏は初めて聞く作曲家であった。
この8枚組CDの数多くの現代曲の中で、最も感動したのは河南智雄氏のソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」であった。
水の精で知られる「オンディーヌ」から連想される神話を題材としたのではなく、吉原幸子作詞の「オンディーヌ」という現代詩の第Ⅰ部を歌詞として曲を付けたものであった。
吉原幸子作詞の「オンディーヌ」は第8部まであるが、この曲は第Ⅰ部の詩を扱っている(一部分、詩文がカットされている)が、曲は3楽章からなり、演奏時間30分程にもなる大作である。短いようで長い。
吉原幸子氏の「オンディーヌ」は一般に知られる水の精オンディーヌと騎士ハンスとの悲恋のストーリーとは全く異なり、現代の男女の孤独な愛とむなしさを描いた内容だ。
著作権に触れるかもしれないが、あえてこの曲使用された詩を下記に記す(曲に使用されずカットされた部分は含まれていない)。
Ⅰ楽章
水
わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた
純粋とはこの世でひとつの病気です
愛を併発してそれは重くなる
だから
あなたはもうひとりのあなたを
病気のオンディーヌをさがせばよかった
ハンスたちはあなたを抱きながら
いつもよそ見をする
ゆるさないのが あなたの純粋
もっとやさしくなって
ゆるさうとさへしたのが
あなたの堕落
あなたの愛
愛は堕落なのかしら いつも
水のなかの水のやうに充ちたりて
透明なしづかないのちであったものが
冒され 乱され 濁される
それが にんげんのドラマのはじまり
破局にむかっての出発でした
さびしいなんて
はじめから あたりまへだった
ふたつの孤独の接点が
スパークして
とびのくやうに
ふたつの孤独を完成する
完全に
うつくしく
Ⅱ楽章
わかってゐながら
わたしのオンディーヌ
あなたの惧れたのは
別れではない
一致といふ破局
ふたつの孤独が スパークせずに
血を流して 流した血の糊で溶接されて
ふたりともゐなくなってしまふ
完全燃焼
のむなしい灰
水をひどくこはがったが
泳げないオンディーヌ
月明りの浜辺に
わたしをのこし
もっとたやすい愛の小部屋へ
逃げて行ったあなた
1楽章、2楽章はソプラノが上記歌詞を歌うが、3楽章はオーケストラのみである。
この詩から受ける印象は、とくに現代の孤独な男女間の荒涼としたむなしさである。
「ふたつの孤独の接点がスパークして とびのくやうに ふたつの孤独を完成する」と「ふたつの孤独が スパークせずに 血を流して 流した血の糊で溶接されて ふたりともゐなくなってしまふ」。
人に心を開けない、孤独な人間どおしの、悲しい運命、結末を洞察したような気持ちでうたっているように感じる。
ソプラノも不気味であるが、バックのオーケストラ、時に静かに、時に激しく奏でる演奏が荒涼としており、不気味さを増している。
詩のフレーズ間、詩の言葉と言葉の間に長い間があり、聴いていて自然と寒気がしてくる。
作曲者の河南智雄氏は「作曲にあたっては、詩の世界に寄りかかって雰囲気的な音を付けていくのではなく、もっと詩の世界と音の世界が総合され、止揚された存在となることを目指した」と言っている。
また、「そのためには、私の音楽がその流れの上に言葉を許す、というよりもっと積極的に詩句も、またその情念をも解放してゆくという状態になるまでは、全くペンは取れなかった」、「詩の一つ一つが実に多様な世界を要求しており、また一つの詩の中でも非常に振幅の大きい言葉が並置されているので、それは困難な作業の連続だった」と言っている。
この曲は無調であり機能調性は一切出てこないが、人間の心の深淵にある複雑な負の感情やエネルギーを表現するためには、調性音楽の枠組みの中では不可能であろう。
調性、拍子といった制約から開放され、オープンで自由な土俵で音を組み合わせ、構築していく。その世界はそれが故に、作曲家自身のあるがままの姿、能力に対峙させられることを避け得ず、生半可な姿勢では人に聴かせるだけの作品を生みだせないのではないかと思う。
機能調性の枠組みの中で、人間の幸福感、喜び、悲しみ、躍動感などを表現することは芸術としてのレベルの相違はあっても、比較的取り組み易いものである。
現代の人間が抱える、「闇」のような感情を音楽で表現するのは容易ではない。
その「闇」の感情を経験できなければ、作ることも出来なければ、その作ったものを味わうことも出来ない。
現代音楽といっても様々なものがあるが、あえて人間の負の感情に焦点をあてた作品を作り上げることほど難しいものはないと思う。
このソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」という曲は自分としては現代音楽の力作、傑作だと評価したい。
作曲者の河南智雄氏の情報は殆ど得られなかった。現在までの間、作曲はされていなかったのか。
若い時期にこれだけの作品を書ける力があったのに、埋没してしまっているのは残念である。
次に八村義夫氏のピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」であるが、氏の代表作と言える。
この曲の解説文で八村氏は、「私が恐らく、色々な音楽から何を一番最初に感じるかといえば、その音楽に秘められたあらゆる種類の、<負の感情>というべきものの質と量であり、自分の作品においても、まずそれを第一に考える」と言っている。
この作品は、「ある錯乱のあるフレーズを思い浮かべ、一つ一つの音の持つ表情と痛覚とを自在に呼吸させながら、生育させ変更させようとした」と書かれているように、「錯乱」という精神的状況に焦点を当て、その様を表現したものである。
演奏時間約10分の短い曲であるが、非常に難解であり、何度も聴かないと作者の意図を理解することは困難だ。
先にも書いたが、このような難解な現代音楽は調性音楽では取り扱わない、表現できない領域、例えば人間の「闇」に代表される負の感情や、哲学的論理などの表現を対象としているから、聴き手にとって理解不能、難解、ときに不愉快に感じるのは当たり前である。
だから聴き手を選ぶわけであるが、このような音楽でも好きな人はいる。
私も好きな方であるが、このような音楽を音楽では無いとして認めない専門家や愛好家もいる。
恐らく、音楽、ひいては芸術とは、多くの鑑賞者が感動したり、幸福感を感じたり、するべきものであるとの前提があるのだと思う。
それはそれで一つの考え方であるが、狭い見方のような気がする。
つまり現代音楽とは普通の調性音楽とは一線を画すものであり、別次元の音楽であり、それなりの楽しみ方がある。
「無視された聴衆」という著作で、機能調性を持たない無調音楽を徹底して批判したのは作曲家の原博であるが、いくら現代音楽を批判し排除しようとしても、この音楽に芸術的価値を見出し、評価する聴き手がいる以上は、この分野が消滅することはあり得ない。
1960年代から1970年代にかけて、八村義夫のような高い構築性、完成度をもつ芸術的価値の高い作品から、現代音楽の技法(例えば12音技法、セリー、クラスター)を表層的に使っただけの作品まで多数の前衛的な作品が作られ、音楽界は活況があったのだが、聴き手に理解されないことの虚しさを感じるようになった1980代以降、急速にこの分野の音楽活動はしぼんでしまった。
この時代現代音楽を多数作曲していた作曲家も人の趣向の変化に合わせるように、調性音楽に鞍替えしてしまった。
早世した八村義夫氏や毛利蔵人氏のような作曲家は、もし生きていたとしたら、このような時代の変化に合わせて自分の音楽を変えてしまったであろうか。私は決して彼らは信念を曲げることは無かったであろうと思う。
調性音楽であろうと、現代音楽であろうと、それぞれの分野でそれが自分の天性に合致した音楽であり、聴衆の趣向の多い少ないに関係なく、自分の天性と信念を信じて曲作りを貫き通すような作曲家が現代には少なくなってしまったのではないか。
八村義夫氏の「錯乱の論理」を聴いたあと、彼の初期のピアノ曲2曲を聴いた。
・「ピアノのためのインプロヴィゼーション 作品Ⅰ」
・「ピアノのための彼岸花の幻想 作品6」
これら2曲のものすごく難解で理解に苦しむが、何度か繰り返し聴いた。
とくに「ピアノのための彼岸花の幻想」であるが、これほど激しく、心に突き刺さるほどのエネルギーを持つ現代音楽のピアノ曲はかつて聴いたことがなかった。
現代音楽は聴くのに忍耐とエネルギーを要する。
難解な理解不能な哲学書を読むのに似ている。
昔学生時代、マックス・ウェーバーの著作の中でなんでもいいから読んでレポートを出せ、という課題が出されたことがあったが、怠け者だった私は、著作の中で最もページ数の少ない「理解社会学のカテゴリー」という本を選んだ。
しかしその本を読んでみるとものすごく難解で、何度も繰り返し読んでも理解できなかった。
そして理解できないまま、苦し紛れにレポートを書いたことがあったことを思い出す。
しかしその経験は妙に私の心に残りつづけ、この苦し紛れが結構いい体験だったことに後で気付いた。
この「理解社会学のカテゴリー」の本のことは社会人となり、何十年たっても忘れておらず、1年ほど前にまた読んでみたいと思い、絶版になっていたが古本で探して買った(しかしいまだに読んでいない)。
今年の抱負であるが、まず現代音楽のコンサートを探して聴きにいこうと思う。
また、八村義夫氏や河南智雄氏のような作曲スタイルをとる作曲家の発掘をしたい。
この分野の1980年代半ばくらいまでの作品は比較的多い。
図書館でなら楽譜や音源は探し出せるかもしれない。
考えてみればJ.S.バッハのような音楽とは全く別世界の音楽で、全く聴き方、鑑賞のしかたが異なる。
しかし、バッハや、古典形式やロマン形式の音楽だけでは物足りないし、音楽の見方に偏りが出る。
相当の音楽好きでも、多くの人が敬遠する現代音楽だっていいものはあると信じたい。
今回のテーマ、なかなか難解で、色々なことを考えさせられますね。
まず、吉原幸子さんの書かれた現代詩ですが、彼女が何を表現したかったのか私には伝わってこないのです。この詩をテーマに河南さん(私は存じ上げません)が現代曲を書かれたという事なので、川南さんはこの詩の表現したかったことが理解できていたのでしょうね。
今回、緑陽さんの書かれた文章を何度の読み返していて、私は、こんなことを考えていました。
それは、何事においても自分の伝えたいことが果たして他者にどの程度伝わるものなのか?という事でした。
作曲家は作曲を通じて、演奏家は演奏を通じて、詩人は詩を通じて、画家は絵を通じて、教師は教科を通じて・・・。
何か他者に伝えたいことがある、それを言葉なり、音なり、文章なり・・・を通じて強烈な思いを持って伝えようとしますね。その思いは、他者にどのくらい伝わるのでしょうか。
私は、5%~10%程度ではないかと思うのです。それは、予備校の志望大学への合格率と同じ程度でしょう。素晴らしい授業をすることで人気のある予備校の花形講師の授業を授業を聞いている生徒は、何%くらい理解できるのでしょうか?
きっと、5%~10%程度だと考えます。もし、100%の生徒が理解できていたなら、自分の志望する大学への合格率は100%になるはずですよね。
音楽がコミュニケーションの手段であるならは、きっと、それを発信するものは、表現したいものを受けての立場になって必死に発信していますよね。
しかし、5%程度しか伝わらないので、芸術としてなかなか広がらないのが現状のような気がします。
商売として考えるならば、予備校のように8%程度しかいない合格者数を強かに100%と思い込ませる手段をとるから、衆愚は騙されるのでしょう。
それに比べ、芸術家は、あまりにも精神が繊細で、傷つきやすいのかもしれませんね。
緑陽さんが、その5%程度の中に入り解釈しようと考えていることに敬意を表します。
少し前(といっても10年ほど前ですが)、ポーの短文や、マイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」などを読んだのですが、何度読み返しても、何を言っているのか私の頭では無理でした。しかし、それらのものは、心の中に瘡蓋のように張り付いて何となく心に安らぎというほどでもないですが、ほっとさせるものを持っていました。
緑陽さんも難解な音楽の中に人の心の襞の一つ一つを手に取って何かを見つけ出そうとしているのかもしれませんね。
職業柄、他者に伝えたいことが伝わらないという事は、いやというほど経験しています。5%程度しか伝わらないのであれば、20回形を変えて伝えよう。理解できないのであれば、理解できるまで話を聞こうと思って日々を送っています。
私は、インテリジェンスとは、人に対する敬意と、謙虚になって話を聞き、鵜吞みにせず自分の意見を持つことだと考えるからです。
先日、ある国立大学の美術家の2次試験を受ける生徒の、小論文の指導をしました。
問題(過去問)はクレーの「ドルカラマ島」とスーラの「アニエールの水浴」のどちらかを選び、意見を述べよ、という漠然としたものでした。何でも「観察眼」と「論理性」が見られるのだそうです。
わたしは、それらの絵に描かれているものを、一つ一つ観察し、言葉にすることから小論文を書くようにしました。
中心には何が描かれている、その横には何が…というように言語化してゆくと、なんとなく文章がまとまってくるではありませんか。
観察したことを文章にする(言葉にする)ことが大切であることを理解できました。
また、昨日、高校2年生の保護者の方から「化学がわからないので教えてほしい」という問い合わせが来て、先ほど、高校の化学の教科書の序文を読んでいた時、ひらめきました。興味を持てるかどうかが得意になるか嫌いになるかの分岐点だ!・・・と。
いくら、わからないところを説明しても、相手に伝わるのは5%程度、序文を一緒に読んであげて、興味を持たせることができると、OKその生徒は化学がわかるようになる。と感じたわけです。
またしても、たわいのない文章を長々と書いてしまいました。
緑陽さんの現代音楽への答え、楽しみにしています。
それではまた。
昨日は帰宅が遅く、返信するのが遅くなってしまいました。すみません。
吉原幸子さんのこの現代詩と同じ詩を歌詞にして曲を付けた合唱曲(作曲者は河南氏とは別の方)を聴いたことがありますが、全く雰囲気の異なるものでした。
吉原幸子氏の「オンディーヌ」という作品に対する解釈、感じ方が人により、大きく違うことが分かります。
私は河南氏のこの曲を聴いて、彼がこの難解な詩への取り組みに、決して安易な妥協をしてこなかったと感じました。
現代音楽や現代詩など、何を表現したいのか、何を意図しているのか、理解に苦しむものが多いですね。
その中には表層的でチープなものもありますが、緻密な構成力を持ち、音や言葉を生みだすのに大変な苦労をしてきたことを感じさせるものもあります。
誰もが共感できる親しみやすい旋律、リズム、言葉で表現することを価値とする人もいれば、そう簡単に理解できない、言い換えれば、作者のエゴ、自己陶酔とも受け止められる難解な作品に価値を置く人もいます。
どちらが、いい悪いか、芸術的か否かという客観的な判断基準は無いと思います。
人により創造された難解な音楽、芸術、学問、またその難解なものを自身で理解した上で第3者に価値を減ずることなく、最高の状態で伝達しようと努力する人々。
おっしゃるように、創造されたものを真に理解できる割合は少ないと、私も思います。
まず、その対象に興味や関心を持てるか、何かこころに引っ掛かるものがあるかどうかで決まると思います。
これは伝える側ではなく、受けてから見た場合です。
何かその対象に引っ掛かるものがあれば、もう一度聴いてみよう、読んでみよう、となって、そこから対象がどんどん拡がっていき、楽しさ、やりがいが生まれていくと思います。
昨年の初夏の頃からバッハのヴァイオリン無伴奏組曲を本格的に聴き始め、途中ブランクもありましたが、これまでに14、5の録音の聴き比べをしました。
これまでバッハの音楽はほとんど関心が無かったし、自分の求めている音楽とは違っていると感じていました。
しかしこの無伴奏組曲をさほどの理由もなく聴いたのをきっかけに、自然にもっと、他の奏者の演奏を聴いてみたいという気持ちが急激に湧き起り、今では毎日、多くの奏者の音楽解釈や音の違いを聴き分けてみて、演奏者の人間性などを想像したり、結構のめりこんでいます。
何か、きっかけだと思うのです。
10年ほど前、たまたま東京国際ギターコンクールで、早世したある無名の現代音楽作曲家のギター曲を聴いて、その暗く、荒涼とした、死を目の前にして書いたような音楽に衝撃を受け、楽譜を入手し、自己流であるが、その不気味で、精神的苦しみが伝わってくるような音楽を弾き続けてきました。
そしてこの作曲家のことをもっと知りたくなり、彼の経歴の断片や、自筆譜(ギターだけでなく、ピアノや弦楽合奏などの曲も)も見る機会を得ました。
しかしこの曲が多くの人が耳を塞ぎたくなるような音楽でも、身を削るような努力で作り上げていることに感動を覚えるし、よく聴衆に迎合することなく自分の感性を貫き通せるものだと感心します。
今まで関心外だと思っていたものにあるきっかけでのめりこむ。でもそれは元々受け手にそのあるものに潜在的に波長が合致していて、たまたまのきっかけを通して潜在的なものが表面に出て、意識できたのだと思うのです。
つかみどころのない難解な創造物でも、それを作った人が真に人生を賭けて作ったものであれば、その内容がどのようなものであれ、強いエネルギーが伝わってくるし、その創造物の緻密さや、深く隠された意図などを探求する気持ちも湧き起ってきます。
音楽や学問の場合、創造者の作品の真価をそのままに第3者へ伝達する存在としての介在者の能力が問われます。
伝えるということは、fadoさんがおっしゃった、まさに「人に対する敬意と、謙虚になって話を聞き、鵜吞みにせず自分の意見を持つこと」だと思います。音楽表現も全く同じだと思います。聴き手抜きの音楽表現などありえません(一人で演奏する時は、弾き手と聴き手が一人二役)。
音楽も、聴き手の心の奥深くに届かせることを信条としていないと、独りよがりで自分は上手いと錯覚しているだけの演奏で終わってしまいます。
ギター界では、このことを誰よりも分かっていたのがセゴビアですが、彼の死後今日まで、聴き手の心を動かせないのに、上手いとい思い込んでいる奏者が多くなっているように思えます。
ピアノ界やヴァイオリン界に比べ、表現力も解釈力のレベルも低いのに、凄いと思い込んでしまうのは、ギター界の愛好家や評論家たちの過大評価のせいもあります。
私は若い頃、人に話をするのも人の話を聞くのも苦しくて出来ない時期がありました。
でも、その体験を通して得たのは、人は、無意識に、人の表にでているものでなく、その人の人間の核とコミュケーションしているのだ、ということでした。
だから表に出ているものが気にならなくなりました。
抽象的な話になってしまい心苦しく感じたのではないかと思いますがお許し下さい。
今回もfadoさんの意見にとても考えさせられるものがありました。
ありがとうございました。
私の拙い文章に渾身の力作を以って返信いただき本当にありがとうございます。
「人は、無意識に、人の表にでているものでなく、その人の人間の核とコミュケーションしているのだ、ということでした。」
私は、緑陽さんが上記のように表現しているように、このブログの内面を貫く緑陽さんの生き方に共感していたのだと思いました。
緑陽さんに返信をいただいてから、ジョンコルトレーンの晩年の作品やアルバートアイラー、武田和命など短命なジャズアーティストのCDを聴き続けました。
彼らがその短い人生の中で我々に何を伝えたかったのか?決してわかろうはずの無い解答を求めたいと感じたわけです。
緑陽さんの言うように、彼らが発する、尋常ではないエネルギーの中に自分の身を置き、心の純粋な部分だけで自分自身の存在価値を見出せたなら・・・と。
昨日、ポーの詩集を何度か再読しました。難解でつかみどころのないポーの詩。天才の表現したかったものを、私のような凡人が分かろうはずはありません。
天才の描いたものに立ち向かう凡人は、感性を持って感じるしかないと心得ています。
行きつく先は感性を磨くことですね。
それではまた。
ポーというと、ちょっとした思い出があります。
高校2年生の時の英語の先生が、ポーの「黒猫」の英語の原文(?)を教材に使って、これを和訳するという授業でした。
出来の悪い高校でしたが、この時の授業のことはよく覚えています。
当時、学校に嫌気がさして、授業は適当に聞いて、隠れるように「出る単」という当時流行していた単語集で受験勉強をしていました。
先生はこの内職を見抜いていたのだと思いますが、この「黒猫」の私の和訳を見て、いきなり思いっきり私の頭を本で叩きつけたのです。
つまり授業を半ば無視して受験勉強だけのために英語をやっている私に腹を立てたわけです。
確かに私の和訳はいい加減でした。
頭は殴られたが、不思議に落ち込むようなことはなかったと記憶しております。
この「黒猫」のわら半紙で配られたプリントは今でもその残像が残っています。
就職で上京してまもない20代前半のころ、休日に東京お茶の水の書店街に行くのがちょっとした息抜きでした。
JR御茶ノ水駅から坂を下り、明治大学を通り過ぎると大きな交差点に出るのですが、そのちょっと先に東京堂書店という中規模の本屋がありました。
その本屋には文学書が豊富に置いてあったのですが、その中で立派な装丁のポー全集全3巻を見つけました。欲しいと思いましたが、1巻7千円くらいで当時の安月給では手が出ませんでした。
それから30年近く経ち、数年前に神田の古本祭りで、この3巻が3千円で売られているのを見つけてすぐに買ってしまいました。
その全集も殆ど手つかずの状態なのですが、今日ポーの詩を探したら、3巻の最初から約二百ページにわたり詩が掲載されていました。
近いうちに読んでみたいと思います。
ポーはスリラー小説、推理小説など大衆向けの印象を持っていましたが、この全集をパラパラめくってみると、とても難解そうな評論も載っていました。
因みにポーは不運、不幸な人生を送ったようです。
おっしゃるように、難解な音楽、文学などの芸術は一生かかっても理解できないかもしれません。
しかし繰り返し聴いたり、読んだり、見たりするということは、その作品の何かに触れているのだと思います。
「長い時間」をかけてその意味するところを考え続けていくのも、決して無駄ではないと思っております。
ありがとうございました。