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世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

あれから2年

2013年03月11日 | Weblog
あの東日本大震災から2年。
2時46分。会社の近くの施設から、黙とうをお願いするアナウンスと大音量のサイレンが鳴り響いた。
如何せん、仕事中なので黙とうは出来なかったが、心の中で手を合わせた。職場もあの1分間だけ心なしか静かになった。

この2年間、自分自身が復興の力になった事なんて皆無だ。
僅かな義援金を出したぐらいである。出来ることといったら、あの震災を忘れない事ぐらいだろうか。


5年前、病死で祖母が亡くなった。その時の悲しみは相当なものだった。
あの震災で亡くなった方は2万人。
私の感じたようなあの悲しみが2万件も起こったんだと思うと、改めて震災のむごさを感じる。
しかも、さよならもありがとうも言えず、いきなり大切な人の命が消えてなくなったのである。
テレビやネットで震災で亡くなった方一人ひとりの背後を知って、命って何だろう、死って何だろうと思う2年間だった。



あの日、私は有楽町に外出していた。一人で。(2011年3月12日 昨日から今日まで
揺れが起きた瞬間、頭上のガラスが一斉に揺れた。あの不気味な音は今も耳に焼き付いている。
そして、まさかの帰宅難民。
心細さよりも「しっかりしろ、自分」と自分を奮い立たせた。
「長期戦になる」と本能が察し、空腹じゃなかったが、まずラーメン屋でラーメンを食べた。
やっと動きだした地下鉄を乗り次いで深夜に帰宅した。

あの時、一人で生きていくことについて痛感した。
東京だ。人はいっぱいいる。でも私は一人。一人なんだ。
実家ならば父に泣きついて車で迎えに来てもらうこともできる。でも私は東京で一人。一人なんだ…。
誰も助けてくれない。一人で生きていくってこういうことなんだ…。

東日本大震災 [2011.3.11] M9.0 帰宅困難者、銀座あたり





震災から1週間後。
被災地の店舗に、新潟経由のバスで物品を運んだ課長がいた。
総務が用意したカップラーメンや薬などがぎゅうぎゅうに入ったバッグを担いで。
出発前、社長に
「いってらっしゃい!」
と送りだされた彼の不安げだがやけにかっこよく見えた事など、ふと思い出した。

輪番停電で薄暗い中、悴む手を擦り合わせて働いたこと。
余震に怯えながら開催した合コンで食べたダチョウのステーキの味。
品薄のスーパーやコンビニ。
震災後に会う友達と交わす「震災の時、どうしていた?」という会話。
煙草の買い溜め。
地震の度に我先に非常口に走りだし、部下の信頼を失墜させた経理の部長。

悪夢のような非日常。
今日、町中に鳴り響いたサイレンが様々な事を思い出させた。

今は会社の照明が薄暗いことぐらいしか震災を思わせるものは無い。
いたって普通に暮らしている。


震災から半年後、両親と東北に行った。
そこで見たものは生涯忘れることはないと思う。
2011年10月9日 この目で見た津波の爪痕


あれから2年。
様々な想いを胸に。

改めて、黙とう。