世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

「下妻物語」

2006年05月29日 23時59分01秒 | Weblog
「人生なんて甘いお菓子とおんなじ。スウィートな人生に溺れる。溺れまくる。それがロココのココロなのです。」

「人間は一人なの。一人で生まれて一人で死んでいくの。寄り添わなくては生きていけないなんて、…だったら私は人でなくていい。ミジンコでいい。寄り添わなくては生きられない人間よりも、ずっとずっと自立しているもの。」

独自の冷めた感覚、そしてロリータ街道まっしぐらの桃子。
彼女は日傘を差しながら、今日もちんたら歩く。
ここが、おフランス郊外にある田園地帯だと妄想しながら…。

でも…

ダメ。
無理。
だって、ここは21世紀の茨城県。

その名も下妻。

田園というより、ただの田んぼ。
私はここで生きているのです。


理想と現実の差に失望しながらも、桃子は孤高の精神を持ち、ロリータに身を包み、下妻で生きる。

ロココの快楽精神に則り、父親から巻き上げた金銭で代官山まで行って服を買うなど、マジで心根が腐敗している桃子。

ふとしたきっかけでヤンキー娘の白百合イチゴと出会う。
ロリータとは間逆に位置するようなイチゴの格好は、化石級のヤンキーそのもの。
初めはイチゴのことを下品なヤンキーだと避けていた桃子だが、いつしか二人は刺繍の糸によって引き合うように、知らず知らずのうちに近付いていく。

イチゴが失恋したら、桃子は思いきり泣かせてあげる。
桃子がウジウジ悩んでいたら、イチゴは側にいてその背中をポンと押してあげる。

互いが今一番してほしいことを想像して実行できる彼女達のさりげない優しさは、観る度に胸が熱くなる。

冒頭のような発言をする桃子だが、「走れメロス」を彷彿とするようなクライマックスで見事に裏切ってくれる。
「イチゴが何か大変なことに巻き込まれている」と感付き、乗ったこともないバイクを爆走させて、牛久大仏まですっ飛ばすのである。

ずっと孤独だった桃子。
大切なものを守る為に、なりふり構わず走る彼女の姿は、作中で一番美しいと思う。

桃子は、今の私を作り上げた大きな要素である。

二年前のあの初夏の日。
そう、この作品を銀座で観たあの日。

桃子の生き方は、私の生き方を優しく肯定してくれた。
映画館を出た後、世の中が眩しく、そして鮮明に見えたぐらい、心がすっきりした。

人と少し違っていても、自分が気持ち良ければオッケーじゃん。
御意見無「様」!

そんなふうに思える自分との出会いでもあった。

もう一つのみどころは、やはり笑いの部分だろう。
この作品の随所に散りばめられているギャグは、凄く洗練されている。
カメラワークや効果音も笑う箇所を活かしているし、何よりテンポが良い。
出てくる単語がやたらレトロかつマニアックで、それも笑える(「ねるねるねるね青りんご味」、「JUSCOだよ!」など)。


とにかく、この作品は私のバイブルであり、好きすぎてどういう風に表現したら良いのか、今までずっと分からなかった。
どんな風に書こうか、そっと胸であたためてきた。

今回初めてこのブログに、「下妻物語」への熱き思いを綴った。

桃子への想いを中心に書いたが、イチゴも好き。
純情で、素直。
二人とも本当に愛しく想う。

★写真は2年前の夏、下妻市にロケ地巡りに行ったときのもの。
(水戸線の車内から撮影)

「小貝川河川敷」、「貴族の森」、「ジャスコ下妻店」を日傘を差しながら巡った。



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