晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

遠藤周作 『王の挽歌』

2010-06-03 | 日本人作家 あ
先日、NHKで毛利元就をやっていて、一般的に知られる「三本の矢」
の話で、元就はとても子供想いで含蓄のある、そして信長や秀吉も
彼には一目置いていた、ということでさぞかし立派な戦国大名であった
と思っていたのですが、『王の挽歌』では、九州の大名、大友宗麟を
描いていて、当時敵方としてこの元就が登場し、大友側にとっては
「狡猾な卑しい毛利狐」と評していたのが、なんとも立場の違いで
こうも変わるのか、と。

九州北部、現在の熊本と宮崎の北部から、大分、福岡、佐賀にかけて
六ヵ国の領主であった大友義鑑(よしあき)の嫡男として、幼名塩法師丸、
のちの大友宗麟が生まれます。

母を幼くして失くし、守役に武芸を厳しくつけられますが、もともと
宗麟は、武士としての戦の稽古よりも、詩や歌、踊りといった、公卿の
稽古を好み、それが父にも父の重臣にも頼りなくうつります。
のちに、この宗麟の守役が、父義鑑に謀反を起こし殺害、そして他国へ
と逃れるといった事件があり、宗麟はただでさえ自分は武家の統領には
向いてないと感じていたのに、さらに人間不信に陥ります。

なんとかして戦をせずに、中央権力である幕府や朝廷に貢ぎ物を贈り、
叛乱や敵国との争いを回避してきたのですが、戦国乱世はますます混沌
としてきて、尾張では織田家がどんどん勢力を伸ばし、海を渡った中国
地方では毛利元就が九州を虎視眈々と狙っていています。

しかし、宗麟は戦に秀でた重臣が多くいて、彼らの勇敢な戦いで大友領国
はなんとか守られています。そんな中、南蛮渡来の切支丹宣教師である
フランシスコ・ザビエルが、豊後の大友宗麟に接見を求めてきて、豊後の港
を貿易のために開港してほしいと要求。
宗麟はこの時ザビエルに会い、彼らの宗教であるキリスト教について、ほんの
基礎的なことを聞きます。
はじめこそ、性能の高い武器などを輸入するために、キリスト教の布教も「ついで」
に認めていたくらいだったのですが、妻との不和、相次ぐ領国土豪たちの叛乱
で、次第にキリスト教の考えが宗麟の心に滲み入ってくるのです。

息子に家督を譲り、戦乱の世とは離れたいとする宗麟ですが、その息子は宗麟
に輪をかけて優柔不断、戦の才能はからきし無く、しかも中国地方からは毛利が、
そして九州南部からは島津が攻め入ろうとしてきて、やむなく立ち上がった宗麟
は、中央でもはや天下人となった豊臣秀吉に会いに、大坂へと向かい・・・

この当時のヨーロッパは大航海時代で、続々とアジアへと進出し、植民地化して
いくのですが、ここにキリスト教も入っていて、神(デウス)は奴隷や人種差別は否定
するのではないのか、なぜヨーロッパ人はアジア人を見下すのか、この背反した
状況を遠藤周作は指摘していて、日本に来たポルトガル人宣教師のなかにも、
あきらかに東洋人を見下し、布教というよりは同化政策に近いことを信者に強制
したりしていたといいます。
さらに、戦乱の世において、武将の生き方は、まさに屍の山の上に立つような
ものであり、神はそれを許してくださるのか、との問いには、「正義の戦いなら
神は認める」という、それはとても曖昧な、立場によって正義という言葉は
いかようにも見方は変わるし、正義だと肯定しなければ分かって貰えないようなもの
ですら「正義」とみなす人には都合のいい言葉で答えるのです。

しかし、宗麟がはじめ帰依していた禅であり仏教の教義にも、納得できない部分
が多々あり、最終的にはキリスト教の洗礼を受けます。
これは「逃げ」なのか、いや「立派な信念であり決断」なのかは読者に委ねられ
ます。

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