やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

内田光子のシューベルト、を聴く

2006-03-08 | 音楽を

内田光子のシューベルトのソナタ集を聴く。

ずゐぶんと彼女のモーツァルトの協奏曲は聴きましたが、
結局のところ、余り好きにはならずに終りました。
どれも、彫りの深い好演奏でしたが、小生にはややくどい感じがして(その演奏する姿も、悶絶する芸術家、といった趣きですしー)、バックのジェフリー・テイトの指揮がよかっただけに、やはり、彼女の主導権の強さなのかしらん、と思ってゐました。

先日、クラウディオ・アラウのシューベルトのピアノ・ソナタの13番を聴いて、
その少し野暮ったい演奏に閉口したところで、内田光子の演奏を聴いて彼女のよさを再認識しました。

シューベルトが22歳の頃! に書き上げたこのソナタは、まるで、ハミングするやうに曲が始まる愛らしいものです。
クララ・ハスキルが録音した旧い演奏が好きでしたが、内田光子の演奏も、細部のディテールを充分に彫り込んで、でも聞こへてくる音楽は、そんな作為を感じさせない自然の仕上がりになってゐました。

小生の最愛の女優ジュリエッタ・マッシーナの演技のやうに、自然で天真爛漫な演奏は、家族も持たず、友人達の所を転々と渡り歩いたさすらひ人のフランツ・シューベルトにこそふさはしいものではないかな、と思ってゐます。





(写真は、ジャケットから)



しら鳥がー

2006-03-06 | 大岡山界隈




お客様の所へ伺った帰り道、一寸写真を、と思って撮ってゐたら、
からす達に混ざって、しら鳥が二羽、餌をあさってゐました。




昨年の秋の落ち穂を探してゐるのか、出始めた虫達を狙ってゐるのか、
しらさぎにしては少し大きい気がします。

白鳥は、この時期はすでに北帰行を済ませてゐるはずですしー。
あるひは、マイペースで集団生活が嫌ひな二羽なのかー。

いずれにしても、ここ風間の地で少し体力をつけてー、と
彼ら(彼女ら?)の無事を祈って去ってきました。





明日は、啓蟄

2006-03-05 | 大岡山界隈

穏やかな、日差しと暖かさの日曜日、でした。



午前中は仕事で出かけましたが、
昼から、暖かさに促されて庭の整理を始めました。


春蘭とエビネだけの、小さな前庭を造りました。
まう、春蘭の芽も大きくなってゐます。



明日は、啓蟄。
虫達も顔を出す頃でせうが、
芍薬の赤い芽も、顔を出してゐました。



自然は、この冬の寒さを弁解するやうに、意外に春の兆しは早いやうです。













藪柑子

2006-03-03 | 大岡山界隈

雪が融けた夏椿の根元に、藪柑子の実が覗いてゐました。

昨年の引越のあと、慌しく庭木を植ゑてすぐ、雪の日々になってしまひました。
五センチ程のこの藪柑子も、簡単に根元に植ゑただけでしたが、豪雪と名の付いた今年の冬をしっかりと生き延びて、なほ、珠のやうな紅い実を付けてゐました。

小生の好きな樹のひとつで、その生命力に感服します。
まう少し暖かくなったら、藪柑子と春蘭の、小さな前庭をつくる予定です。


ムラヴィンスキーの「悲愴」、を聴く

2006-03-02 | 音楽を

エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハモニー管弦楽団による、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴く。

1960年の録音ながら、リ・マスターされたCDで、以前のLPやCDに較べると、はるかに音がやはらかくなり、透明感が増してゐました。

日常、チャイコフスキーの「悲愴」なんて、さう滅多に聴くものでもありませんが、本当にこの演奏は素晴しい。

竹、のやうに無駄のない、長身のムラヴィンスキーが紡ぎだす音は、やはり、孟宗竹のやうに、余分なものをそぎ落とし、妙な思ひ入れや恣意的な解釈を突き放し、
早めのテンポで、ダイナミックも大きく取り、そして、しなるやうなしたたかさを見せてゐる!

小生が愛するモントゥ-爺さんがステレオ初期に録音したボストン響との演奏のやうに、すっきりと、都会的に演奏してゐます。
曲が曲だけに、情緒てんめんとした演奏が多いのですが、やはり、繰り返し聴くには、ムラヴィンスキーのこの盤のやうに、太い筆で一気に書き上げたやうな演奏に限るやうな気がします。
それでも、いやそれゆゑ、見事にこの曲のもつ絶望感がひしひしと感じられるます。

同じディスクに、同時期に録音された第4番、第5番もあるのですが、5番の演奏も素晴しかった。
第二楽章のホルンが、旋律を引きずるやうに、哭くやうに演奏して、凍てついた景色を表現してゐるやうでした。





(写真は、ジャケット、より)



弥生、あま雪

2006-03-01 | 雑記

三月一日。
昨日までの春迎への暖かさとはうって変はって、生憎の、みぞれ雪になりました。

我が家の愚女も、県立高校を卒業することになりました。
忙しさにかまけて、たいしたこともしてあげられなかったので、せめてーと、
卒業式に出向きました。

とてもつまらない卒業式で、寒い体育館で二時間近くを我慢した、といふ想ひでした。
まるで絵に描いたやうな、ひと昔前の結婚式のやうに、「誰のための式?」といふものでした。

今日で別れ、離れる子供達への”たむけ”の言葉ではなく、まさに壇上の演説のやうな祝辞が延々と続いてゐました。

紆余曲折があった小生の愚女ですが、あるひは、小生に似て、そんな雰囲気に何かしらの反骨をもってゐたのかもしれません。
小生にしてからも、高校生時代は、時代背景はありましたが、毎週のやうにデモへ参加し、ストライキやボイコットを試行錯誤し、制服の廃止やカリキュラムの変更を要求したりー、と意気盛んな時でした。

そんな、遙かに昔のことを想ひだしながら、ルーティンワーク化してゐる”教育”の一面を見た思ひがしてゐました。

とまれ、桜の季節までは、あとひと月半余ー。