やまがた好日抄

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Brahms - Ein Deutsches Requiem, Op. 45: I. Selig sind, die da Leid tragen (Part I)

2012-03-10 | 音楽を
動画で、ヘルベルト・ケーゲルの『ドイチェ・レクヰエム』を見つけてしまった。

Brahms - Ein Deutsches Requiem, Op. 45: I. Selig sind, die da Leid tragen (Part I)


ケーゲルのCDは、ベートーヴェンの交響曲の演奏が2枚ほどあったはずだったが、すごくクセのある演奏で、さほど感銘した記憶もなく、棚の後ろに後退してゐた。

しかし、もともと合唱の指揮者だったといふことで、その後、モーツァルト全集のミサ曲での演奏にウロコが数枚こぼれ落ちた。

全集のミサ曲を集めた巻では、ケーゲル/ライプツィヒ放送管にてミサ曲やミサ・ブレヴィスが演奏され、大曲のハ短調ミサ曲とレクヰエムはカラヤンによってゐますが、圧倒的にケーゲルの演奏の方が素晴らしい。

モーツァルトの初期や中期の演奏としては、余りに深く、余りにえぐるやうな演奏ですが、カラヤンの、ヌメッとした演奏よりは、はるかにマシ、です。


そして、件のブラームスのドイチェ・レクヰエムですが、やはり! 振幅の巾の大きい、穏やかさとはかけ離れた、彫りの深い演奏になってゐました。

この、華々しいドイツ統一の後、東ドイツの運命を憂ひ、また、自らの運命に絶望して、70歳でピストル自殺した指揮者の、生きるよすがを託したやうな演奏です。
(彼からすれば、ナチ党員であったにも関はらず、戦後の混乱をうまく切り抜け、謹慎を装ったあと上手にレコード会社に擦り寄り、名門ベルリン・フィルのポストも手に入れ、金と名誉を充分に手にしたヘルベルト・フォン・カラヤンなどといふ指揮者は、歯牙にもかけない人物だったのでせうー)