やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

輪の先 2

2006-11-14 | 神丘 晨、の短篇
        
      


 波留子は、ペットボトルのお茶を飲み干すと、小さくため息をついた。
 コンビニで買った時にはよく冷えていたのに、お客からの電話を受けている間に温くなってしまっていた。ダッシュボードの上になど置かなければ、こんなに温くもならなかったはずだった。些細なことを悔んだ。
 長袖が苦にならないままで夏が終わったと思ったら、九月の中旬になって酷い暑さがぶり返してきた。農家の知人は、天候に翻弄される毎日に半ば呆れたように空を見上げていた。
 すべてがこんな調子だ。いいことなんて、ひとつも起こる気配もない。
 波留子は、耳元にまだ残っているお客の声を掻き消すように車のドアを開けた。契約するつもりだったがやめるわ、と電話口であっさりと云われた。ランスの会へ収めるお布施が、波留子の生活に影響を与えはじめていた。すでにお布施ではなく、要求に近いものになっていた。スーパーのパートを止め、生命保険の営業を始めたが、生来の口数の少なさが災いしてうまくはゆかなかった。
 昼休み時間を過ぎた公園は、駐車している車もまばらだった。波留子は所在無げに駐車場を歩いた。
 公園を囲むように山並が見えていた。夏をやり過ごした木々は、一様に葉を茂らせ、今年の生育を充分に終わらせたように見えた。
 春先には、山の斜面に山桜が見えていたはずだったが、今はその木が何処にあるのかもわからなかった。あの木を見つけるには、来年まで待たなければならないのか。あの山桜は、それで充分満足している。誰に見つけられるでもなく、誰に愛でてもらえるわけでもなく、自らに与えられた周期を繰り返す。
 ベンチの横に枯れかかったような椿の木が二本見えた。共に大きな木だが、揃えたように中央の幹が枯れていた。
 今の生活は、何の意味も無い…。
 宗教に頼るには、それに身を任せるには、自分自身にそれなりの覚悟と決意がなければ入ってゆけない。
 ランスの会がどうという問題ではない。私の問題なのだ。私が、何と向かうかの問題なのだ。
 覚悟と決意…。
 そういえば、そんなことを云っていた人がいた。波留子は、枯れかけたような椿を見つめながら記憶を整理した。
 あのマンションの人だ。
 急いで車に戻ると、波留子は携帯電話で番号案内を呼んだ。確か、しまもとこうぼう、というのですが、と尋ねる電話口の先で、嶋本工房をお知らせします、という間延びした声が流れていた。
 数回の呼び出し音の後、嶋本ですが、と落ち着いた声がした。
「あのー、いつかそちらへお邪魔したランスの会の瓜生といいますが」
 波留子は、台本を読むように一息に云った。
「やあ、暫くです。元気でー」
「一日で結構ですから、お休みの日にお付き合いをしていただけませんか?」
 波留子は、嶋本の声を遮るようにひと息に云い切った。

 
「狙いすましたように、何もない季節に来てしまいましたね」
 嶋本孝次郎は、笑いながら、わびるように云った。中尊寺の境内は観光客もまばらだった。あと一週間で師走にはいる、十一月の末だった。
 雪なら雪でよかった。勿論花の季節であれば、申し分もなかった。確かに何もない季節だった。北上川から吹き上げてくる冷たい風を避けるように、波留子は薄手のコートの襟を立てた。
 嶋本は時おり立ち止まって、杉の根元を写真に収めていた。
「何を撮っているんですか?」
 波留子は、すこし手持ち無沙汰に聞いた。
「いや、花も何も無いから杉の根でもと思ってー。しかし、この雪で捻じ曲げられた杉の根は凄い。生きるって事は、こんなに周りにいじめられるものだ、と云っているような曲がり具合だな」
 嶋本は、ひとしきり写真を撮ると「仏像を見に行きましょう」といって先を歩き出した。
 中尊寺へ来るまでの車中で、嶋本は世間話に終始した。現在の自分の仕事の状態、山形の商店街の景気の具合―。
 波留子は、時折あいづちを打ちながら、もどかしい思いをしていた。山形の商店街の物の売れ行き具合なんて、自分にはどうでもよかった。
 九月の末、やっとの思いで嶋本へ連絡をとったのだ。その時、嶋本はこころよく波留子の願いを聞いたが、現場の仕事が忙しく、結局十一月の中旬になって「中尊寺へ行きましょうか」という連絡がきた。
 波留子が、疲れ果てる寸前だった。
 嶋本は、入場券を波留子に渡すと建物に入っていった。
 薄暗い通路の先が人ごみになっていた。嶋本の姿は無かった。波留子はその集団のなかにまぎれていった。
 大きな展示室に入ると、柔らかな照明の中に像があった。阿弥陀如来像だった。
 その三体の姿を目の前にしながら、いく人もの観光客の口からため息のような声が場内に漏れていた。波留子も、何の説明も無いままにその像と対峙して、小さく声をあげた。二、三歩下がると三体の像が一堂に見られた。波留子と像との間を関西弁を話す一団が通りすぎていった。
 金箔ははがれて黒い生地が露出していたが、像全体を形つくっているゆるやかな曲線が場内の喧騒を消していた。穏やかな姿だった。 
 波留子は、場内の隅で、小さく手を合わせた。

「いい能舞台でしょう」
 嶋本は、杉の切り株に腰を下ろすとそう云った。胸元からタバコを口にくわえ、「ああ、この一帯は禁煙だったんだ」と慌てて胸元に仕舞った。
 波留子は、目の前の古びた建物のどこが素晴らしいというのか、見当も付かないでいた。
「宝物館の阿弥陀如来像は有無をいわさず素晴らしいが、金色堂は興醒め以外の何ものでもないな。それに比べると、これは建物としてはあちこちに傷みはあるが、北上川を望むこんな崖っぷちで能を見たいと我儘を云った当時の人間のしゃれっ気に感服するな」
 能舞台の横には小さな社があった。その前に二メートル程の大きさの草で編んだ輪が立っていた。
「嶋本さん、あの草で出来ている輪はなんですか?」
「ああ。確か、茅の輪だと思うけれどー」
「ちのわ?」
「神事のひとつで、夏に行う行事なんだけれどもー。正月から六月までの罪や穢れを夏に祓って、残りの半年を無事に過ごせますようにと、あの輪をくぐるんです。忘れているのか、観光用に残してあるのか」
 二人の前を、老夫婦が低い声で話しながら通り過ぎた。
「あの、嶋本さんはお独りなんですか?」
 言葉の継ぎ穂を失って、波留子は急に聞いた。
「わたしですか?」
 嶋本は、波留子の顔を見ずに、茅の輪をくぐっている老父婦の姿を見ながら返事をした。手を添えながらゆっくりとくぐり抜ける姿を、眩しそうに見ていた。
「確かに、独りになってしまいました。いずれは皆一人になるのでしょうが、自分でもこんなに早く独りになるとは思わなかった」
 嶋本は十年前に起きた交通事故の話をはじめた。
 何の変哲も無い、梅雨明け間近の日曜日だった。
久しぶりに福島の爺ちゃんの所へゆくか、と前日に嶋本が話すと、妻の妙子は、そうね、しばらく実家にも行ってなかったわね、父さんも喜ぶわ、と笑った。三年前に妻に先立たれた義理父の、気弱な話し振りが気にかかっていた。
福島市内の実家で半日を過ごし、妙子が仙台で買い物をして帰りたいと言うので高速道路に入った。少し疲れた? という妙子の問いかけに、嶋本は、ああ、と言った。パーキングエリアで飲み物を買ったときに、運転は妙子に代わった。
 白石を過ぎたあたりで、突然横殴りの雨になった。大丈夫か? と嶋本は心配したが、あと少しだから、と妙子はハンドルを握り締めて前を見ていた。2人の子供は、後部座席で気持ちよさそうに寝ていた。
 前を走る車が少し左に寄ったな、と思ったときにその車はガードレールに接触した。妙子は、反射的にハンドルを右に切った。その時、追い越し車線を走っていた車が嶋本の車を弾き飛ばした。嶋本には、叩きつける雨の中を裸で転がってゆくような感触だけが残っていた。
 妻の泣き叫ぶ声と救急車のサイレンが錯綜した。
 一ヶ月後、私は二人の子供を殺してしまった、と妙子は蔵王山の谷に身を投じて命を絶った。嶋本も、二ヶ月の入院ののちに職場の建設会社へ戻ったが、左手と足に後遺症が残り、それまでの部署だった営業が急にうまくゆかなくなっていた。上司が他の部署への配置換えをしたが、すでに新しいことをはじめる気力は無かった。
「本当に、何もかも嫌になりました。自暴自棄になっても、何も得るものはないと頭ではわかっていても、それを抑える気持ちがおこってこない。結局、会社は辞めました。食べていくだけならと、自分で仕事を始めたんです」
 能舞台を見つめながら、嶋本は淡々と話した。その話し振りは、十年前の事故と、その後の他人には云えない苦しみを昇華し終えたから話せるような穏やかな話し方だった。
「まるで、ユダのようだ、と思いましたよ」
「ゆだ?」
「事故は仕方がない。あのときの雨や、後続の車を責めても何も帰らない。幾度も、幾度も何故運転を代わってしまったのかと自分を責めたときもありました。それらがひと段落したら、手元に金があったんです、保険金です。その時、そう思ったんです。何に使える金でもない。もし神というものがあるとすれば、人間をどこまで弱くさせれば気が済むものか、まるで私への踏み絵のように保険会社から金が振り込まれたんです」
 そこまで自分をせめなくても、と波留子は穏やかに話す嶋本の横顔を見ながら思った。
 裏手の竹林が、通り過ぎる風に鳴いていた。軋むような音も聞こえた。
 私は、この人を好きになろうとしている。
 波留子は、久しくなかった自分の中に起こっている意志を感じた。
「そう云えば、会の活動は?」
 嶋本が顔を向けて聞いた。波留子は、その目線から逃げるように、社から帰る老夫婦の後姿を追った。
「止めたんです、私」
「そうですか。それで、良かったのかも知れません。詳しいことは分からないけれど、信仰というものを押し付けるのは、いや、布教というのだろうが、ろくなものを生まない。そうですか、止めましたか。ウム。それで、良かったのかもしれません」
 さて、と声を出して嶋本が腰をあげた。
「私、くぐって来てもいいですか?」
 波留子は、立ち上がった嶋本に云った。
「何をですか?」
「あの輪です。季節外れでも、まだご利益が少しでも残っているような気がしますから」
 波留子は、嶋本が少し頭をかしげる姿を残して小走りで社へ向かった。
 茅の輪の横に簡単な由来を書いた板が立っていた。嶋本が云っていたのと同じだった。そして、くぐり方が書かれてあった。
 波留子は、「いいですよね」と社に向かって云うと、輪の下の方から茅を数本抜き取った。それを胸のあたりで大事そうに持つと、ゆっくりと輪の中に入った。最初は左にまわり、戻ると今度は右に回った。そして、再び輪をくぐると、左へと回った。
 回り終えると、社に向かってゆっくりとお辞儀をした。そして、振り返ると嶋本の姿を探した。
 嶋本は、能舞台をカメラに収めていた。舞台の背に描かれた青松は、色がはがれ、老木のようになっていた。
「さあ、行きましょうか」
 嶋本は、近づいてくる波留子に向かって云った。

「ガイドさん! 何でこの坂は、月見坂と言うんやろね? こんな大きな杉の木だらけの坂では、月どころか、空も見えないと思うがね」
 波留子たちの前を、観光客の一団が道をふさいでいた。
 ガイドの女性は、待ってましたとばかりに振り向くと説明を始めた。
「皆さん! 藤原の時代は何年前のことだかわかりますか? そう、かれこれ八百年以上も前のことです、この地が京都に匹敵するほどに栄えていたのはー。はっきりとした年代はわかりませんが、この参道にある杉の木は、樹齢約三百年。つまり、中尊寺が栄えていた時にはこれらの杉は苗にもなっていなかった、という訳です」
「ガイドさん、まるで得意満面やな」
 嶋本は、観光客の反応を可笑しそうに聞いていた。そして、その団体客の最後尾にまぎれるように坂を下っていた。関西方面から来たのだろう、言葉に特徴があった。
 波留子は、手にしていた幾筋かの茅を見つめていた。そして、急に公園の椿の樹を思い出した。
 あの二本の椿の木は、もう枯れてしまっただろうか。
 残っているとしたら、枯れた枝は、かろうじて若葉をつけた枝を道連れにしようとしているのか。
 何とか新芽を出していた枝は、枯れた枝を見殺しにしようとしているのか。
 気がつくと、あたりが静かになっていた。波留子は、ひとりで坂を下っていた。
 嶋本は、十メートルほど先を歩いていた。観光客にまぎれて話しながら歩いていた。嶋本と観光客たちの笑い声が杉の梢に消えていった。 
 聴いてみようか、と波留子は思った。
 嶋本が云っていた、受難曲を聴いてみようか、と思った。音楽のCDなんて、ここ何年も買ってはいなかった。どの演奏がいいのか、嶋本に尋ねてみよう。そう決めると、波留子は嶋本の後姿をまっすぐに見つめて坂をくだり始めた。

(完)