やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

内田光子のモーツァルト

2006-11-05 | 音楽を

            


納骨をすませてきました。
10年ほど前、区画整理により改葬になった墓地です。

久しぶりに訪ねたその墓地の周辺は、開発が激しく進み、
小生が学校へと通った雑木山の小道の面影もまるでなく、
人の記憶といふものも悲しいもので、思ひ出す糸口もつかめないまま、
粛々と骨を収めてきました。


前日は妹宅に世話になり、
翌日の四十九日への四方山話のかたはら、テレビでモーツァルトの特集をしてゐました。
決してきれい事だけでは済まされない居間のテーブルでの話を包み隠すやうに、
繰り返し流れるモーツァルトの曲に、時として、耳を奪はれます。

番組自体はさして面白いものではありませんでしたが、
その中で、内田光子のコメントが心に残りました。

「許すことの美しさの音楽」

非常に観念的な解釈だとは思ひますが、
(といふよりも、当時、消費音楽に近かったモーツァルトの音楽に対して、
 余りにも、余計な価値をつけすぎるきらひがあります)
それでも妙に、なるほどー、と納得してしまひました。


急な用事が入り、法事をすませてとんぼ帰りで山形に戻り、
まずしたことは、内田光子のモーツァルトを聴いたことです。

ピアノ協奏曲の26番、27番のディスク。
20年ほど前、内田の30代最後の年の録音。
バックは、ジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団。

内田光子のモーツァルトの協奏曲は、中期から後期にかけてのディスクはすべてあったやうに思ひますが、
結局、一番に手がでるもの、にはならなかった気がします。

当時、イギリスや日本での、協奏曲連続演奏会は絶賛を浴びてゐましたが、
この録音でも、すでにその技量は完璧を期してゐますが、
小生にとっては、いまひとつ、こころに沁みてくるものではありませんでした。
バックのせゐかしらん、と思ひました。
弦のひと弾き、管のひと吹きに、こころ奪はれるものが少なかったやうです。


それでも、内田の云ってゐた、彼女なりのモーツァルトへの解釈は、
小生にとって、しばらく、大きなキーワードになったのは間違ひのないことでした。


(写真は、ジャケット)