ここずっと、車の中のテープは、
ロベール・カサドシュによるモーツァルトのピアノ協奏曲26番と27番です。
旧い車なので、CDもMDもありません。
(好みとして、当世の車のスタイルがどれも好きではなく、
勿論、買ひ換える余力もないのですが (´ヘ`;)とほほ・・)
暫らく聞いていなかったのですが、やはり、とてもよい演奏です。
何しろ、バックがセルの指揮。
(オーケストラはコロンビア交響楽団となってゐますが、実態は、手兵のクリーブランド管弦楽団、らしい)
26番の、出だしのテンポのいち音が素晴しい。
これに、この演奏のよさがすべてでてゐる。
妙な思ひ入れやテンポの動かしを排し、
カサドシュのピアノも、ケレン味のない、正攻法での演奏になってゐます。
モーツァルトが、当時のどの街のオーケストラでも演奏できるやうにと、
弦を主体にし、管の出番を抑へた曲想が深みを少なくしてゐる、
といふ今日の評価のある26番ですが、前へ前へと進むその演奏に、
モーツァルトの、ある意味、起死回生を願ふやうな気持ちが感じられます。
27番も、勁く突き進んでゆく演奏です。
1791年、モーツァルト死の年の作品ですが、
曲自体の大まかな部分はすでに数年前に出来てゐた、といふ事実を思ひおこさせます。
山紫水明のやうに描いたカーゾンの演奏も、また好きですが(まさに、死の年の作品であることを思はせます)、
演奏会の予約が日に日にとれなくなっていったといふ状況下、
それでも、まだ、最後の数曲の交響曲を果敢に作曲してゐた時です。
生活のため、自らの存在価値のため、
生きゆくこと、を感じさせる演奏、です。