rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

プロテスタンティズムの倫理と五箇条の御誓文

2013-02-20 17:15:55 | 社会

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は社会学者のマックス・ウエーバー(1864−1920)が亡くなる直前に集大成されて世に出された氏の代表作で20世紀の世界の動きの中心となる資本主義が繁栄する源になった宗教的背景と資本主義が発展した先にあるものについて警鐘を鳴らした書として有名です。この書も翻訳本であってもなかなかの大部であり、原著を読破するのは大変なので、私は解説本で要領よく内容把握をしてしまったのですが、それには光文社新書516 牧野雅彦 著 —新書で名著をものにするー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」2011年刊 が読みやすく、また原著のみならず、この論文に影響を与えたマルクスの資本論やニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などとの関連も解説されていて有用でした。

 

手短かにまとめると、資本主義が発達した背景にはプロテスタンティズムに基づく禁欲的な勤労習慣の広まりが必要であり、神への奉仕として禁欲的に労働を続ける(天職の思想)によって労働の対価としての資本が蓄積されて資本主義の発達につながったのだ、というものです。さらには、資本主義が発達した先には宗教的な勤労奉仕の理念が消失し、確立した経済秩序がむしろ人間の生き方を決定づける「鉄の檻(殻)」の中に人々を閉じ込めることになるのではないか、と警鐘を鳴らします。そして物欲に支配されて鉄の檻の中で暮らすようになる人々は「精神なき専門人、心情なき享楽人」として生きる無価値な人間にすぎない存在に成り果てるのではないか、と予想するのです。

 

拝金主義に支配された現在の世界経済や、震災後に露になった「既存の社会構造の変革を拒否する日本の現状」を顧みるに、ウエーバーの予想どおり「精神なき専門人、心情なき享楽人」に成り果てた現代人を見る事になるのです。

 

マルクスによれば労働の対価としての価値の「余剰」は搾取の対象となり、その結果として発達する資本主義は疎外の原因となるから「破壊するべきもの」となって、人間本来の生き方は「類的存在」に求められる、ということになりそうですが、概念としては何となく分かるものの、現実にこれを実行する試みは歴史的事実として全てうまくゆかなかったという事でしょう。

また「精神なき専門人、心情なき享楽人」はニーチェの言う「末人」に相当する存在と思われますが、ニーチェは末人からの脱却には神に頼らず自己で道を切り開く「超人」になることを「ツアラトゥストラ」で説きますが、これまた気持ちの上では何となく分かるものの、現実社会ではどうすれば良いか何とも言えません。

 

ウエーバーは具体的にどうしろという指示を文章では示していないのですが、ある程度「鉄の檻(殻)」での生活を仕方のない物として認めつつも、「天職」というプロテスタンティズムに基づく勤労の精神を忘れず持ち続け、欲に支配されずに働く事が大事であると当時の若者達に説いていた、と記録されており、これは人間味のある実行可能な示唆ではないかと私は感じます。

 

プロテスタンティズムの言う、勤労を「大地を管理することを任された人間の神への奉仕」と捉えることとは異なりますが、勤労を我欲の達成のための手段と捉えず、社会を成り立たせるための奉仕の一部とする考え方は、伝統的な日本の労働に対するとらえ方に通じるものがあります。明治維新において、日本社会のありかた、日本人の生き方として明治天皇が示された「五箇条の御誓文(図)」は、終戦後に昭和天皇が「人間宣言」において占領軍の許可を得て引用したとされることからも、日本人や日本社会の伝統に違和感を抱かせない内容なのだと思います。その中で3項目の「それぞれの立場の国民が、その本文を存分に尽くして志を遂げることができる事が良い」というあたりは、日本社会の伝統的な労働に対する考え方を示しているのではないでしょうか。以前拙ブログで日本の平等社会は滅私奉公のおかげで成り立っていたのではないかと指摘しましたが、田中良紹氏の記事にもあるようにバブル前の新入社員と社長の給与差が10倍しかない日本社会が高度成長期において多くの中間層を育てて、一億総中流という共産中国ではなし得なかった豊かな社会を築く事ができたのだと思います。私は日本人の伝統的な勤労意識というのはいろいろと批判されたりもしましたが、結局世界の模範になる素晴らしいものなのではないかと考えます。

(五箇条の御誓文ー静岡県教育委員会のwebから)

 

超人は無理としても生きる価値のない「末人」に我々は成り果てるべきではないし、疎外を逃れた類的存在に近づく方策として、社会のために勤労するという日本の伝統的勤労の概念はこれからの日本人の生き方として見直してみるべきではないかと思います。また前のブログで考察した「帝国」を管理するリヴァイアサンのヒントもそのあたりにあるのではないかと愚考します。

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