普段ブログに書き連ねている内容について、某所に懸賞論文として出してみたのですが「選外」だったので自分のブログに載せます。海外への情報発信も行う旨うたわれていたので稚拙ながら英文にしたものを次の回に載せます。
日本の医者にとって英文で医学論文を書くのはかなり骨の折れる仕事で大変なのですが、この手の論文も英訳してみてけっこう手のかかるものだと実感しました。まあこのような辺境ブログを見に来る外国人はいないでしょうが、1−2名でも読んでくれれば幸いです(どこぞの危険思想自動解析コンピューターには引っかかるかも知れませんが)。
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倫理的善悪の決め方が歴史観に反映する
1. はじめに
21世紀に入り、経済のグローバル化が進む中、日本は日常生活においてもさらなる諸外国との交流が求められています。平成の開国と言われる環太平洋経済連携協定(TPP)が締結されると、否応なしに欧米流の商慣習や思考法と今以上に対峙することになり、日本人特有の思考法(エトス)では理解できない事象が増加すると思われます。私はその理解不能となる原因が日本人とキリスト教圏の人々との倫理的善悪の決め方の違いにあるのではないかと考えてきました。そして近代史を語る時に常に問題となる歴史観の違いも、実はこの倫理的善悪の考え方の違いが反映しているだろうと推測しています。以降、私の考える倫理観の違いからくる歴史観に対する認識の相違を、一刀両断、ざっくりとした分析にはなりますが、考察してみたいと思います。
2. 日本とキリスト教圏における倫理的善悪の決め方の違い
ここで述べる倫理観とは、物事の善悪を決める際に判断の根拠となる価値観のうち非論理的な部分、つまり自然と身に付いている習慣のようなものを指します。日本人は単一の宗教的倫理観に日常深くかかわっていないことから、私は日本人にとって「倫理的善とは、自分の属する集団の利益になること」と定義できるだろうと考えます。「自分の属する集団」とは、家族、勤める会社、住む町、県、国家、そして場合によりアジア、世界全体、或は未来の人類まで含まれますが、それは判断する事象によって、また個々人の考え方によってどの範囲を対象にするかが分かれます。但しそれが自分の属する集団であることに変わりはありません。そして倫理的に善であるとされれば、論理的には矛盾や誤りがあっても目を瞑ることが許されます。「筋論からはこうだけど、今回はこの決定で・・」といった事は日常よく行われています。この倫理観は日本人の集合体になると山本七平氏が表現した「空気」といったものにつながるかも知れません。江戸時代からの儒教的思考から、時には自分の属する集団の利益ためには自分自身が犠牲になることも厭わないと考える事も日本人特有のものでしょう。また法の遵守を社会秩序に必須の要件と考え、交通ルールのような約束規範にさえ守ることに倫理的な意義を見いだして、車が来ない赤信号を渡る時にも後ろめたさを感じてしまうといった事も日本人ならではのエトスであると思います。
一方で一神教であるキリスト教(イスラム教、ユダヤ教も含まれますが)においては、倫理的善悪の基準は宗教的倫理と深くつながっていて、神との契約に反するか否かで決まります。法の解釈においても、神が決めたとされる「自然法・神の法(神が創造した世界の物理や化学の法則から自然権など神から与えられたと定義される権利も含む)」は絶対的なものとされ、人間同士で決めた商法、税や刑罰についての法は「王の法」として利害が対立する場合にはより論理的に正しい(rationalな)ものを討論によって、また法を戦わせる事で決着をつけることが良いとされます。自己の利益をrationalであることを基準に争う場合には倫理的葛藤はありません。それは神との契約とは別の問題だからです。
西洋においてrationalである事を争って、利害の対立を調整するやり方が定着したのは、日常生活が教会法の束縛から解放された中世ルネッサンス以降のことだろうと推察されます。しかしイスラム教圏においては、世俗的である度合いにもよりますが、現代でもイスラム法によって社会が営まれる事が良いとされる風潮があり、社会生活に宗教的倫理観が深く介入している事が、キリスト・ユダヤ教社会と対立する原因になっています。経済学者の副島隆彦氏は筆者との個人的書簡において「ユダヤ・キリスト教はルネッサンス以前から、もともと教理の中に論理や理性といった物を重視する傾向があって、そこに嫌気がさした人達がイスラム教を起こしたのだ」と主張されています。確かにギリシャ、ローマの文化や神学の探求においても、論理や理性といったものが重視されており、これらは元来現在のキリスト教圏の人達の思考において違和感なく身に付いていたものと言えるでしょう。
モンテスキューの「法の精神」やトマス・ホッブズの「リバイアサン」を読んでいて感ずるのは「人間は本来何をやっても自由である」という神から与えられた自然権としての「徹底した自由」への信奉です。人を殺すことも自由であるという無秩序(万人の万人に対する闘争)の状態を調整するために「法」を作り自由の一部を差し出す事がrationalであるとすることから国家や社会の法が作られたのであり、これらの法は神が定めた自然法の下位におかれるものだと規定されます。しかし一度法を定めたならば「例え銃で脅されて結んだ契約」でも守らなければならないという遵法精神(compliance)も説かれており(文句があるなら法同士をratioで戦わせて自分の利益を通しなさいと続くのでしょうが)、日本人の感覚からは違和感を覚えます。日本の社会ではコンプライアンスの重視は「既定の法への盲従」の意味で使われているのが現実であり、徹底的に「法における合理性を争った上で結論が下されたら不本意な結論であっても従いなさい」という欧米流のcomplianceの概念とは異なる使い方をされています。その点で今後欧米的裁判社会に日本が巻き込まれて行った際、法の遵守に倫理観がつきまとう我々日本人は始めからハンディキャップを負わされた状態となるでしょう。
ところが日常生活において合理性が強調されるユダヤ・キリスト教社会においても、宗教的倫理観に基づく決断や評価が一度なされてしまうと、彼らはその決断や評価に対してなかなか合理や理性に基づく批判を受け入れようとしません。堕胎や同性愛に対する異常とも見える反応や、科学に基づく進化論をかたくなに受け入れない姿勢は、日常あれほど論理性(ratio)を強調している同じ人種と思えない、日本人には理解しがたい姿と言えます。
3. 倫理的善悪に基づく戦争の定義
古来、戦争は領土の拡張、資源の争奪、奴隷の確保など「国益を追求する一手段」として行われてきました。近世国民国家の成立以降、西欧列強における戦争は植民地や資源の獲得のため、外交交渉で決着がつかない国際紛争の解決手段として繰り返し行われてきました。その立ち位置はあくまで「倫理的な善悪」ではなく、合理性に基づく正しさ、rationalな物として行われてきたと定義できます。しかし日本においては、維新以来の戦争は殆ど「列強による植民地化から民族を守る」「自存自衛のため」国家の存亡をかけて行われてきた、のが実情でした。それは自分達の共同体を守るための切羽詰まった「善なる行為」として認識されていたことは明らかです。勿論日本においても国益に資するためrationalな判断の下に行われた「第一次大戦」や「シベリア出兵」などの目立たない戦争もありましたが、歴史上重きをおかれる事は少なく、日本では戦争といえば日清日露・太平洋戦争などの「負けたら日本はおしまい」という国を挙げての「自衛のための戦い」をさす事が主でした。しかし諸外国から見ればこれら日本が行ってきた戦争も、自国が侵略された訳でもないのに戦争をしているのであり、「国益のために国際紛争を解決する手段として戦争している」と見えていた事は明らかなのです。満州事変や日華事変も日本的倫理観に基づく「五族協和」や「大東亜共栄圏」といった自分の属する集団に対する相互利益的なスローガンが掲げられ、戦争でなく事変と定義されていても欧米の倫理観にはそのような項目はないのであり、単なる「国益のための戦争」に映っていたことでしょう。
戦後の日本国憲法において、「戦争放棄」を日本人は「自衛のための戦争もいけない」と即断したのに対して、欧米では自然権である自衛権まで放棄することなどありえない事なので、自衛隊ができた時に問題視したのは外国でなく日本国内だけ、という奇妙な事態が生ずる結果になりました。「国際紛争を解決する一手段として戦争をしない」とは、諸外国からみて日本が戦前に行ってきたような戦争をするな、という意味以上のものではありえないのです。その点で諸外国の視点では当然の権利である「専守防衛」をかかげて国防に専念してきた自衛隊が国内では日陰者として扱われてしまったのは悲劇と言わざるを得ません。
欧米諸国にとって国益のためにrationalな判断に基づいて行われてきた戦争において、第二次大戦で圧倒的勝利を納めた米国は戦後秩序を自国中心で形成するにあたって今までになかった概念、つまり「この戦争は倫理的善悪の判断に基づいて行われたものであり、ファシズムという悪を退治し世界に自由と民主主義を広めるために行われた正義の戦争である」と定義づけました。それは自国が侵略されておらず、また敵国といえあまりに多くの市民を無差別に虐殺し、戦争に参加しないと約束して政権についたにも関わらず、多くの米国の若者達の犠牲を出してしまったルーズベルト政権の国内事情もあったとは思います。しかし「神に与えられた任務」と言わんばかりの「倫理観に基づく戦争」という定義付けは予想以上に戦後の世界における米国の立場を盤石にし、国内に向けても国民の賞賛を得られる良い結果をもたらしました。これは大きな成功体験として受け継がれて行くのです。
その後の朝鮮戦争やベトナム戦争は米国にとって良い結果をもたらさなかったのですが、これらの戦争は米国にとって「倫理観に基づく戦争」ではなく、国際紛争を解決する手段、rationalな判断に基づく戦争であったことも特徴です。朝鮮戦争は北の侵攻に対して「国連軍」として戦わざるを得なかったものであり、ベトナム戦争は東西冷戦の一環としてアジアのドミノ的共産化を防ぐという「国益」に根ざした戦争でした。これらは米国にとって散々な結果であった以上に、ベトナム戦争に至っては「倫理的に誤りであった」と国内から批難される結果となり、米国のトラウマにさえなっていると言えます。
翻って、911以降「テロとの戦争」「アフガニスタン、イラクとの戦争」を始めるにあたり、米国はこれが国益を度外視した倫理的正義に基づく戦争であるという定義をことさら強調しました。ブッシュ大統領の唱えた「axis of evil」邪悪なる枢軸という表現は神の教えに背く国々は第二次大戦の枢軸国と同様、国益を度外視してでも征伐するという意味を持たせるものでした。またこの戦争に倫理的な意義を与える事は敵を倒すにあたってrationalであること、論理や理性を考えなくても良いという免罪符を与える事にもつながりました。だから非民主主義的な愛国者法(patriot act)が制定され、テロリストの疑いがかかれば民主社会では許されない「拷問」を加える事も可能になり、容疑者を裁判なしに無人機からミサイルで処刑することも問題なしとされるのです。ボストンの爆弾事件はテロリストの犯罪と定義された結果、その容疑者には憲法で保証されたミランダ法の適応もされないと決められた事も同じ流れです。「神罰には論理や理性は適応されない」という身勝手で恐ろしい考え方です。それは敗北が見えている日本に原爆を投下することに何の躊躇も見せず、また戦後においても一切の見直しがなされない事にも通じる思考と言えます。韓国の中央日報が原爆を「神罰」と表現した事に、さすがに日本のメディアは一斉に批難をしましたが、欧米からそのような批判がなされない事は、原爆投下を神罰とする見方が案外現在も西欧社会では違和感なく受け入れられているからかも知れません。結論的に言うと、911以降の戦争が倫理的な正義に基づくものであるためには、第二次大戦が倫理的に正義の戦いであったという前提が覆されてはいけないという事です。米国はこの前提を変えないという事について、一切譲らない(譲れない)であろうと私は思います。
4. これから
以上のことから、ユダヤ・キリスト教圏の人達は、倫理的善悪を決める基準が我々日本人とは異なっている上に、方便として倫理と論理を使い分けて自分達を正当化する手法に長けた人種であると推測できるのです。戦後マッカーサーは日本の社会が非民主主義的だとして日本人を「小学生」と揶揄したそうですが、それは日本的倫理観に基づいて社会生活を送る事が必ずしも論理的でない場合が多いという事を非民主的だと見ただけであり、社会・民族が未熟であるという事ではないと私は思います。アメリカでも宗教的倫理観に基づいた決定は決して論理的・民主的ではないのであり、どちらも倫理観に関する社会の背景が異なるだけの事なのです。そして歴史や戦争の評価にこの「論理では突き崩せない倫理的評価」が入っていると、いつまで議論しても共通の認識が得られない不毛の議論を続ける結果になってしまいます。国家・国民にはそれぞれ特有の倫理的基準があり、それらは必ずしも論理では突き崩せないものであり、それらに基づく歴史の評価というものはそれぞれにあって良い物だろうと私は思います。しかし、異なる国同士が共通の歴史の評価を行おうとする時、お互いの倫理観に基づく評価は一度全て棄却して、証明された事実に基づいて論理的理性的に事象を評価しなければなりません。中世以前の歴史認識においてはそれぞれの事象に共通の評価ができるのに、近世以降の事態になると簡単にできないのは、そこに各民族・国民が持つ独特の倫理観に基づく評価が入っているためだと思われます。共通の歴史認識で常に問題となる中国や韓国の倫理的善悪の決め方について、実は私はまだ結論を得ていないのですが、恐らく日本とも西欧とも異なるものではないかと推測しています。
大阪市の橋下市長は「戦時においては兵士の精神的安定を維持するために慰安婦が必要だった」と論理で意見を述べたのですが、返ってきた反論は倫理に基づく批判でした。論理を倫理に論点をすり替えてしまうことは卑怯な手法ですが、第二次大戦に関する議論では頻繁に行われる手法です。ユダヤ人虐殺問題を含めて、第二次大戦に関する事柄で論理を受け付けない事柄は多数あります。論理と倫理を使い分ける事に長けたユダヤ・キリスト教圏の人々に翻弄されないためにも、我々はお互いの倫理的善悪を決める基準について認識を新たにしておく必要があるのです。倫理的善悪の決め方が歴史観に反映されるのです。
以上
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