ウクライナ情勢はまだ流動的であり、クリミア半島の帰属も住民投票どおりになるかどうかも不明な状態です。今回のウクライナの政変で特徴的なのは、間借りなりにも民主的に選ばれた前ヤヌコビッチ政権が3ヶ月の首都における抗議行動と100人程度の死者によってひっくり返ってしまった事です。民主国家ならば再度選挙をすれば良い事と思われるのに、大統領がヘリコプターで逃亡する必要がある状況にはとても見えませんでした。社会主義専制国家だったルーマニアでチャウシェスク大統領が憎悪に燃えた民衆に虐殺された状況とは背景が全く違います。
東欧における民主主義の脆さ、危うさは西側諸国の人達は容易に理解できないものだろうとは思います。そもそも民主主義の歴史がなく、個々人が自分の意見を日常生活に反映させる経験がない上に、日々の生活自体、経済が思わしくないために余裕がないということもあるでしょう。そのような中で、今回の政変においても活躍したとされる極右勢力というのがポイントになってくるように思われます。
EU域内は軒並み経済状態が悪いのですが、特に中・東欧の経済停滞が深刻と言われます。経済状態が悪いと強いリーダーシップを持つ独裁的指導者が人気を得ると言われていますが、例えばハンガリーのビクトル・オルバン首相、富豪出身のチェコのアンドレイ・バビシュ氏、やはり富豪出身のスロバキアのアンドレイ・キスカ氏、同じくスロバキアの州知事でネオナチと言われるマリアン・コトレバ氏など政治家としての経歴よりも経済力や勢いのようなもので政治の中枢に出てきた人達が多いようです。
ビクトル・オルバン氏 アンドレイ・キスカ氏 マリアン・コトレバ氏
東欧で極右と言われる勢力が伸びている背景をヴィアドリナ大学教授のミンケンベルク氏は次のように分析しています。
1) 民族共産主義・自民族中心主義を是とする専制時代へのノスタルジーがある。
2) 体制変換をきっかけにした民族主義的国境の再編を望む伝統。
3) 政治的未熟さに伴う組織力の脆さ(離合集散が多い)。
4) 経済の停滞による政治・体制への不満。
この経済の停滞というのが実は一番大きな問題と思われるのですが、民主体制といいながら、東欧もロシアも健全な経済発展ができなかったのは、一部の富豪と99%の貧しい民衆という図式が体制変換後の20年たらずのうちに完成してしまったことにあると思われます。ウクライナの富豪リナト・アフメトフ氏はウクライナ人一人当たりのGDPが年間三千ドルといわれる中で百五十億ドルの資産を持ち、フォーブズ誌に世界47位の資産家と認定されています。今回の政変でもドネツク・マフィアのドンと言われる彼が「ヤヌコビッチは終わりで良い。」と引導を渡したために政変が起こり、次の政府に利権を引き継いだとも言われています。
リナト・アフメトフ氏
貴族が経済を含む社会の中心であった時代、彼らは国家の枠に捉われずに自分達の富を自由に生かして生活していたと考えられます。領民や農奴は富に付随する持ち物であって、彼らの生活が豊かになったり、領国全体の名誉が自分の富や名誉に勝るという発想はそもそもありませんでした。そのあたりの生活態様はスタンリーキューブリック監督の映画「バリーリンドン」などを見ると良く描かれています。また一般民衆が広く国民国家的思考を持つに至った第一次大戦(同時に一般民衆が戦争の犠牲になる事が格段に増えた)では、民衆が国家のために兵士として戦い、犠牲になる事が名誉とされるようになりました。映画「ブルーマックス」では貴族しかパイロットになれなかったのに、飛行士が不足して平民からパイロットになったスタッヘルが最高の名誉勲章である「ブルーマックス」を授賞して、不倫相手の貴族の婦人から「戦争に負けそうだからさっさとスイスにでも逃げて暮らしましょう」という誘いを断り、国家の名誉に殉ずる姿が描かれます。
映画バリーリンドン ブルーマックス
20世紀は国民国家の時代でしたが、21世紀は1%のグローバル化した富裕層が99%の土着的貧困層を支配する時代となり、ある意味昔の貴族社会に逆戻りしてきているように感じます。一方で99%の土着的貧困層はグローバル層にしか寄与しない政治に不満を募らせており、より国家社会主義的で「国民全体に富や力をもたらしてくれそうな勢力」に魅力を感ずるようになります。米国における極右ミリシアや東欧におけるファシズム政党が人気を得る背景はそのような傾向によるものでしょう。つまり貧富の差が激しくなるにつれて、国民国家≒ファシズムに傾いて行くと言えます。だから「貴族社会≒グローバリズムvs国民国家≒ファシズム」という対立図式が21世紀に現出してくるように思います。
政治が民衆の要望に答えない時、民衆は民族的な要望をかなえてくれそうな権力に希望を託すようになる事は、戦前の日本の1920年代における政党の凋落にも見いだす事ができます。森山優氏の「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」(新潮選書2012年)から引用します。
政党の凋落(第一章28ページ)
ところで、政党政治の時代とされている1920年代においても、国家予算に占める陸海軍費の比率は、けっして少なくなかった。しかしこのことは軍の政治的な影響力とは無関係であった。軍が閣議に提出した案件も、審議すらされずに廃案になるような状況だったのである。政府は、国会で多数を占めた政党人によって組織・運営され、軍は基本的に陸海軍省を通して政府のコントロール下にあった。
そのような状況が変化したのが、1930年代だった。1927年の金融恐慌に端を発し、経済恐慌が幾度も日本を襲ったが、当時の二大政党(政友会・民政党)は政争に明け暮れ、国民生活の窮乏への対応が鈍かった。財閥が牛耳っていた昭和初期の日本の資本主義は、優勝劣敗の原則が貫徹している原初的な形態だった。そこでは、自己責任が原則であり弱者へのセーフティーネットなど存在しなかったのである。(中略)
政党にとって政権に就くには、国民の支持を得るよりも、政府(政権党)の足を引っ張る方が近道だったのである。議会では国民生活の窮乏そっちのけで、政民両党の泥仕合が続けられた。国民の間に、政党政治に対する幻滅が広がる。そして新たな期待を担ったのが、私腹を肥やすイメージとは対極にあった軍だったのである。
(引用おわり)
東欧の資本主義も当時の日本のような原初的な状態であると思われ、下手をするとこれからの日本も再び1930年代の日本の姿に戻って行く可能性さえ危惧されます。この本はその後の国策遂行方針のいい加減さなどについても詳しく述べられていて「戦争に至る日本の姿」を省み、これからの日本のあり方を考える上で有用な資料であるように思います(また書評を書きます)。「ファシズム=悪」と機械的に規定しても、何故ファシズムが勢力をのばしたのかの原因を絶たなければ、根本的解決にはなりません。経済の悪化と国民の貧困化、政治の劣化がセットになるとファシズムが台頭します。経済を良くし、国民全体が豊かになるよう富の再分配システムを整備し(グローバリズムが土足で乗り込んでくるような状況は阻止しないといけない)、政治が国民の声を正しく吸収しないとファシズムを防ぐことはできなくなるのではないでしょうか。
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