猟奇的な犯罪や常軌を逸した殺人事件などがおこり、冤罪になりようがない犯人が逮捕されると必ず出てくるのが、犯人は精神錯乱状態で善悪の判断ができる状態ではなかった、或いは責任能力がない、といった主張です。弁護士の職務は「裁判において弁護活動をすることで、容疑者の不利益を少しでも少なくする事」ですから、犯人の真の医学的精神状態がどうであれ、「責任能力がない」と判断されて「犯罪が罪に問われない」結果を得ることは職務を全うした「良い事」になると考えられているようです。
「明らかに犯罪を犯したにも係わらず、罪に問われない」ことが犯罪者本人にとっても「良い事」だと弁護士が本気で考えているとすれば「弁護士たるその人の人生観や倫理観がおかしいのではないか」と言えます。「罪が確定すれば死刑になるからそれを免れるために責任能力を問うのだ」とすればまだ一考の余地はありますが、それでも精神疾患を法廷闘争の手段にするのは倫理的に誤りであると私は主張します。
友人の精神科医は猟奇的殺人などで責任能力が問われる事があるけれど、殆どは本人の倫理観が欠如しているだけで精神疾患などではないと断言しています。実際には、精神病のために重大犯罪が無罪になるケースは年間1-2件、錯乱状態などで減刑になることは年間数件という統計があり、現実問題として本来有罪になって罪を償うべき犯罪者が罪を逃れていることはないのだと言われます。しかし世間を賑わす事件でこの「責任能力を問う」といった報道がよくなされるために、何か責任逃れのために精神疾患が利用されているような印象を持つ人は多いのではないでしょうか。
本来「責任能力がない」というのは、「3歳の子供がたまたま手にしたナイフで横にいた妹を傷つけてしまった」とか、「痴呆になった老人がライターでベッド脇の本を燃やしてしまい火事になってしまった」という明らかに誰が見ても責任能力を問えない事例に対して「これは罪に問えません」というために規定されたものであると考えます。素人では全く分らず(何故責任能力を問うているのか分らずと言う意味)、専門家でも判断に苦しむような事例(判断は簡単だが、それを科学的に立証しがたいという意味)で責任能力を問うのはおかしいのです。
私は精神科医ではありませんが、自動車を普通に運転できる人は「責任能力がある」と判断して良いと考えます。車の運転というのは状況判断の連続であり、それが出来るのに「責任は問えない」ということは論理的にあり得ない話しだからです。また「精神疾患に罹患している人は責任能力がない」というのも全くの誤解であり偏見であります。殆どの患者さんは通常の判断力を持っていて普通の社会生活を送っています。精神疾患を法廷闘争の手段として使うことによってどれだけ多くの患者さんが偏見や差別を受けることになるか、人権を本気で扱う気持ちのある弁護士の方達は考えていただきたいものです。
「法は道徳の一部」というのは大学の法学概論で習う言葉ですが、約束規範の解釈においては専門家の知識が多いに必要でしょうが、傷害や窃盗、殺人といった「道徳規範」で裁く犯罪において「有罪か無罪か」を判定することは難しい事ではないと考えますし、また難しい事であってはならないのです。来年から始まる「裁判員制度」は「重大犯罪」の審判に限り一般人が参加して裁判を行うことになっていますが、法律の素人であり、医学の素人である一般の人達が難しい法律用語と医学用語で弁護士にまくし立てられて「だから責任能力がありません」と言われたときに正しく判断ができるか問題です。
もっともこの制度は「死刑を減らす」ことが蔭の目的であると言われており、一般の人が持つ「自分の審判で人が死刑になるのは否だ」という自然の感情を「死刑を減らす」目的にうまく利用したにすぎないとすれば、「責任能力」などの議論を持ち出さなくても有効に働くことにはなりそうですが。
「明らかに犯罪を犯したにも係わらず、罪に問われない」ことが犯罪者本人にとっても「良い事」だと弁護士が本気で考えているとすれば「弁護士たるその人の人生観や倫理観がおかしいのではないか」と言えます。「罪が確定すれば死刑になるからそれを免れるために責任能力を問うのだ」とすればまだ一考の余地はありますが、それでも精神疾患を法廷闘争の手段にするのは倫理的に誤りであると私は主張します。
友人の精神科医は猟奇的殺人などで責任能力が問われる事があるけれど、殆どは本人の倫理観が欠如しているだけで精神疾患などではないと断言しています。実際には、精神病のために重大犯罪が無罪になるケースは年間1-2件、錯乱状態などで減刑になることは年間数件という統計があり、現実問題として本来有罪になって罪を償うべき犯罪者が罪を逃れていることはないのだと言われます。しかし世間を賑わす事件でこの「責任能力を問う」といった報道がよくなされるために、何か責任逃れのために精神疾患が利用されているような印象を持つ人は多いのではないでしょうか。
本来「責任能力がない」というのは、「3歳の子供がたまたま手にしたナイフで横にいた妹を傷つけてしまった」とか、「痴呆になった老人がライターでベッド脇の本を燃やしてしまい火事になってしまった」という明らかに誰が見ても責任能力を問えない事例に対して「これは罪に問えません」というために規定されたものであると考えます。素人では全く分らず(何故責任能力を問うているのか分らずと言う意味)、専門家でも判断に苦しむような事例(判断は簡単だが、それを科学的に立証しがたいという意味)で責任能力を問うのはおかしいのです。
私は精神科医ではありませんが、自動車を普通に運転できる人は「責任能力がある」と判断して良いと考えます。車の運転というのは状況判断の連続であり、それが出来るのに「責任は問えない」ということは論理的にあり得ない話しだからです。また「精神疾患に罹患している人は責任能力がない」というのも全くの誤解であり偏見であります。殆どの患者さんは通常の判断力を持っていて普通の社会生活を送っています。精神疾患を法廷闘争の手段として使うことによってどれだけ多くの患者さんが偏見や差別を受けることになるか、人権を本気で扱う気持ちのある弁護士の方達は考えていただきたいものです。
「法は道徳の一部」というのは大学の法学概論で習う言葉ですが、約束規範の解釈においては専門家の知識が多いに必要でしょうが、傷害や窃盗、殺人といった「道徳規範」で裁く犯罪において「有罪か無罪か」を判定することは難しい事ではないと考えますし、また難しい事であってはならないのです。来年から始まる「裁判員制度」は「重大犯罪」の審判に限り一般人が参加して裁判を行うことになっていますが、法律の素人であり、医学の素人である一般の人達が難しい法律用語と医学用語で弁護士にまくし立てられて「だから責任能力がありません」と言われたときに正しく判断ができるか問題です。
もっともこの制度は「死刑を減らす」ことが蔭の目的であると言われており、一般の人が持つ「自分の審判で人が死刑になるのは否だ」という自然の感情を「死刑を減らす」目的にうまく利用したにすぎないとすれば、「責任能力」などの議論を持ち出さなくても有効に働くことにはなりそうですが。