小児虐待や自分の子供を養育放棄する悲惨な事例が後を絶たない。犬や猫、小動物でさえ自分の子供を守り育てる本能があるのに情けない親が多いものだと思っていたのですが、22年5月号のマイニチメディカルジャーナルの巻頭言に国立生育医療センター名誉総長の松尾宣武氏が「育児の社会化の危うさ」と題する論説があり、正鵠を射る指摘と思いましたので以下備忘録の意味を含めて転載します。(以下貼り付け)
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育児の社会化の危うさ 松尾宣武 (MMJ2010. vol.6 No5 p233)
小児虐待が、日常茶飯事的にメディアにより報道されるようになって久しい。事実、最近10年間、小児虐待は一貫して増加傾向にあり、児童相談所における虐待相談件数は約4倍、4万件に達している。小児虐待はときに常軌を逸した形をとり、浴槽に漬け溺死させる、栄養失調で餓死させるなど、嬰児殺し(filicide)の形をとる。
メディアの関心は、虐待や嬰児殺しの残虐性、冷酷性にあり、定型的な報道は特別な家族の物語として捉えがちである。しかし、小児虐待の歴史は古い。特別な家族に限定される問題でもない。小児虐待は人間の歴史とともにあり、人間性に根ざす。
小児の歴史研究者である、de Mauseによれば、過去、ヒトの小児期は根拠なく美化され、小児の実際の生活の悲惨な状態は、研究者によって明らかにされることは少なかったという。史的資料は、紀元前1世紀から現在までの約2000年間の育児の歴史が、小児虐待の歴史であることを物語る。
育児は、古今東西、親にとって大きな負担である。それゆえ、育児を放棄したいという親の想いは、普遍性を持つ。ヨーロッパの上中流家庭では、長く育児を乳母〈wet nurse〉に委ねることが 一般的であり、1780年パリ警視庁の推計では、年間出生数21,000人のうち、17,000人は農村の乳母に預けられ、2,000~3,000人は乳児院収容、700人は住み込みの乳母により保育され、実母による育児は700人、3%に過ぎなかったという。乳児院に収容された2,000~3,000人の子どもは捨て子と推測されるが、実態は定かでない。
子どもが乳母宅から自宅に戻った後も、育児は親の役目ではなく、召使に委ねられた。また、自宅にとどまる期間は限られ、7歳までには就学、奉公、教会のいずれかの理由により施設に送りだされ、施設収容による、実質的な捨て子状態(institutionalized abandonments)が続いた。
上述の史実はヒトの育児行動の危うさを示す。言いかえれば、ヒトの育児行動を制御する遺伝的基盤が脆弱であることを示す。ヒトにおいては、子どもの成長・発達に適う育児行動が、それぞれの親に自然に発現するわけではない。岸田秀氏が喝破したように、ヒトの親は生んだ子どもを育てないことができる。殺してコインロッカーに捨てることもでき、お金を取って売ることもできる。
ヒトは育児行動を根拠づける規範、育児思想を必要とする動物である。しかし戦後社会は、伝統的な育児思想である家の継続・親孝行を全否定した。代わるべき新しい育児思想も生み出していない。この状況がどれほど危ういものか、最近急増する小児虐待は、我々に教える。
育児思想の再構築なしに、育児の社会化を進めることは、新しい小児虐待・ネグレクト〈institutionalized abandonments〉を生み、小児虐待増加のトレンドを加速することを訴えたい。
(転載終わり)---------------------------------
子供を育てることで親も成長する、というのは自分自身の実感でもあります。子育ては金がかかる、面倒くさい、自分の自由がなくなる、全てその通りですがそれを我慢して子供を育てなければヒトは子育て本能を持たせなかった神の設定上動物以下の存在でしかないことになります。親に育ててもらった恩は自分の子供を育てることで返す思想、「家庭の存在の必要性」などは子供をきちんと育ててゆこうとする先人の授けた知恵であって、怠け心をもっともらしい理由で権威付けした「子育ての社会化」などという現代の思想は親の責任放棄にほかならないと私も強く思います。
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育児の社会化の危うさ 松尾宣武 (MMJ2010. vol.6 No5 p233)
小児虐待が、日常茶飯事的にメディアにより報道されるようになって久しい。事実、最近10年間、小児虐待は一貫して増加傾向にあり、児童相談所における虐待相談件数は約4倍、4万件に達している。小児虐待はときに常軌を逸した形をとり、浴槽に漬け溺死させる、栄養失調で餓死させるなど、嬰児殺し(filicide)の形をとる。
メディアの関心は、虐待や嬰児殺しの残虐性、冷酷性にあり、定型的な報道は特別な家族の物語として捉えがちである。しかし、小児虐待の歴史は古い。特別な家族に限定される問題でもない。小児虐待は人間の歴史とともにあり、人間性に根ざす。
小児の歴史研究者である、de Mauseによれば、過去、ヒトの小児期は根拠なく美化され、小児の実際の生活の悲惨な状態は、研究者によって明らかにされることは少なかったという。史的資料は、紀元前1世紀から現在までの約2000年間の育児の歴史が、小児虐待の歴史であることを物語る。
育児は、古今東西、親にとって大きな負担である。それゆえ、育児を放棄したいという親の想いは、普遍性を持つ。ヨーロッパの上中流家庭では、長く育児を乳母〈wet nurse〉に委ねることが 一般的であり、1780年パリ警視庁の推計では、年間出生数21,000人のうち、17,000人は農村の乳母に預けられ、2,000~3,000人は乳児院収容、700人は住み込みの乳母により保育され、実母による育児は700人、3%に過ぎなかったという。乳児院に収容された2,000~3,000人の子どもは捨て子と推測されるが、実態は定かでない。
子どもが乳母宅から自宅に戻った後も、育児は親の役目ではなく、召使に委ねられた。また、自宅にとどまる期間は限られ、7歳までには就学、奉公、教会のいずれかの理由により施設に送りだされ、施設収容による、実質的な捨て子状態(institutionalized abandonments)が続いた。
上述の史実はヒトの育児行動の危うさを示す。言いかえれば、ヒトの育児行動を制御する遺伝的基盤が脆弱であることを示す。ヒトにおいては、子どもの成長・発達に適う育児行動が、それぞれの親に自然に発現するわけではない。岸田秀氏が喝破したように、ヒトの親は生んだ子どもを育てないことができる。殺してコインロッカーに捨てることもでき、お金を取って売ることもできる。
ヒトは育児行動を根拠づける規範、育児思想を必要とする動物である。しかし戦後社会は、伝統的な育児思想である家の継続・親孝行を全否定した。代わるべき新しい育児思想も生み出していない。この状況がどれほど危ういものか、最近急増する小児虐待は、我々に教える。
育児思想の再構築なしに、育児の社会化を進めることは、新しい小児虐待・ネグレクト〈institutionalized abandonments〉を生み、小児虐待増加のトレンドを加速することを訴えたい。
(転載終わり)---------------------------------
子供を育てることで親も成長する、というのは自分自身の実感でもあります。子育ては金がかかる、面倒くさい、自分の自由がなくなる、全てその通りですがそれを我慢して子供を育てなければヒトは子育て本能を持たせなかった神の設定上動物以下の存在でしかないことになります。親に育ててもらった恩は自分の子供を育てることで返す思想、「家庭の存在の必要性」などは子供をきちんと育ててゆこうとする先人の授けた知恵であって、怠け心をもっともらしい理由で権威付けした「子育ての社会化」などという現代の思想は親の責任放棄にほかならないと私も強く思います。