Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

並行処理の途上で

2007-06-12 00:33:35 | Weblog
いま,2つのPCでそれぞれシミュレーションと実証分析が回っている。いずれも Detecting Influential Customers の研究である。推定アルゴリズムがどの範囲で妥当かは,シミュレーションの結果大体わかってきた。問題は実証分析だ。データの範囲をどう切り取るかに膨大な数の可能性がある。それによって,得られた結果の意味が変わってくる。

現在,意外な結果が得られている。導入直後のツバキを選好したのは,他者に影響を与えるインフルエンサーだという予想が外れ,むしろ他者に影響を受けやすいインフルエンシーだというのだ。先日もらったコメントのように,(Bassモデルと違い)イノベータほど他者の動向に敏感だという見方もあり得る。

まだまだ追求する余地があるが,明日からはパリ出張の準備や,DM学会やJWEINに向けたシミュレーションにも着手しなくてはならない。したがって,この研究自体は7月にかけて,少しずつ進化させていくつもりだ。こういう並列処理的進め方は,正直いって得意ではない。「だらだら集中する」のが流儀なのだが・・・。


介護のビジネスモデル

2007-06-11 13:09:09 | Weblog
コムスンの問題で,介護で金を儲けようとする輩はけしからん,などという発言をよく耳にする。では,介護保険制度を廃止して,すべて国が行えばいいのか…そうなると,社会保険庁に象徴される,壮大な非効率(というかそれ以上の失態)が生じかねない。コムスンの不正行為が罰せられるのは当然だが,介護ビジネスが安定した収益を得られない制度的枠組みがあるとしたら,そちらも非難されるべきだろう。

あるTV討論会で,現場の介護士が,現在の制度のもとではコストを下げるしか利益を出す方法はないと語っていた。それはいうまでもなく,サービスの質の低下か労働強化に直結する。グッドウィル・グループは規模の経済性を追求しようとしたのだろうが,急速な拡大が管理能力の限界を超えたのかもしれない。

その番組で,介護が専門の大学教授が,大手の介護サービス事業者は,介護自体で儲からなくても,高齢者の顧客ベースを確保して,他のサービスや製品を販売して儲けるのが狙いだと批判していた。これは,CRMでいうクロスセリングであって,そのこと自体,通常の商行為である。問題は,顧客たる高齢者やその家族が,それにパーミションを与えているかどうかだろう。

介護保険からの収入では足りず,関連サービスで収入を得るのもだめだとなると,介護を民間に委託するという介護保険制度は行き詰る。しかし完全な国営化は財政的に難しいし,完全に市場原理に任せると,富裕層向けサービスしか実現しないだろう。まさに社会的な「サービスイノベーション」が待望される…本物の専門家の意見を聞きたいと思う。

IQ-based Segmentation

2007-06-10 23:55:36 | Weblog
郵政民営化のキャンペーンに当って,あるPR会社が内閣府に提案した企画書の一部とされるものが,ある本に紹介されている。横軸に「構造改革」にポジティブかネガティブか,縦軸にIQをとり,ターゲット戦略が論じられている。それによると,このキャンペーンのターゲットは「構造改革」にポジティブか中立であり,かつIQが低い層だという(具体的には主婦と子ども,シルバー層だと)。

真偽のほどはわからない。内閣府は否定するか,少なくともこれは政府の見解ではない,というだろう。だが,事の真相はこの際どうでもよい。「IQ」によるセグメンテーションという発想自体を考えてみたい。欧米のマーケティング/消費者行動の教科書では,階級や人種がセグメンテーション変数として登場する。しかし,IQが出てくることなど,聞いたことがない。

最近読んだある論文では,デジタル・リテラシーによる価格差別化が示唆されていた。消費の個々の局面について「経験」や「専門知識」が重要な変数となることは確かだ。とすると,その延長線上には「能力」という概念が登場しても不思議ではない。それがカテゴリを超えて存在するなら,たとえば「消費能力」(いわば「消費IQ」)について考えることができるだろう。

だが,それが一般的なIQに収束していくかというと,大いに疑問だ。というか,そもそも「IQ」と称するものが,人間の広範な認知的活動(消費行動も一部に含む)をどこまで一元的に集約しているのか,ぼくには疑わしく思われる。したがって,広告・PR業界においてごく少数であれ,IQによるセグメンテーションなどという露悪的な表現で得意になっている向きがいるなら,本人の「知性」を疑うしかない。

蛇足だが,この件で小泉政権を批判したい人々のなかには,「小泉劇場」を支えたのは「IQの低い」有権者だという思いがあるかもしれない。だが,事実としては,IQの高そうな経済学者たちが相当数この政権に参画したことを見逃してはならない。そして結果的にいえることは,ある種の「狂熱」に身を任せることにおいて,世間的に認められている「知性」の高低は全く関係がないということだ。そして,おそらくそれと相関していそうなIQなど,ごく一部の天才の判定を除いては,何の役にも立ちそうにない。

ともかく,このおどろおどろしいタイトルの本は,陰謀史観との差がぎりぎりの立場から,日米政府とその背後にいるとする勢力を非難する。だが,より興味深いミステリーは,この本が扶桑社から出版されていることだ。著者が,戦後教育を批判している点が評価されたのだろうか・・・しかし,その理由は必ずしも扶桑社的なものではないと思うのだが。

御礼の旅

2007-06-08 21:38:20 | Weblog
午前中,研究のサポートを頂いた企業を訪れ,中間報告。現場と研究の双方に詳しい皆さんから,貴重な助言をもらう。自信を失いかけていた一見理解不可能な結果に,意外な解釈の可能性があることを教わる。もちろん,正攻法の分析の方向性についても。帰り道,新たな研究の話もちらほら。

午後から一駅移動して別のセミナー。「サービスマーケティング」について。生煮えにつきあまり自信はなかったが,事務局から,聴衆の評判は悪くなかったと聞き,ほっとする。ぼくの話し振りはともかく,このテーマが持つ潜在的な可能性を見逃さなかった実務家がいたということだ。

夕方,新たな研究プロジェクトのために東京ミッドタウンを訪れる。美しいオフィス。そのあと,同行していただいたWさんと,地下のワインバーへ行く。ナパバレーの「ヘス」のシャルドネが最高にうまい(グラス一杯の値段が,ふだんぼくが飲むワインのフルボトル1本分より高いが…)。

こうして手を差しのべてくれる人々がいる。その好意に報いる仕事をせねばならぬ。

少数派たる矜持

2007-06-07 14:57:45 | Weblog
昨夜の懇親会(あるいは帰り道)で出た話で,いまなぜか印象に残っていること。一つは,社会ネットワーク分析(SNA)を長年研究してきた研究者に,現在のネットワーク・ブームに対して,10年後何人がそれを研究し続けているだろうという醒めた見方があるという話。SNAはおそらく社会学のなかでも長く少数派であったから,ブームには懐疑的な態度を見せるのだろう。確かに流行の手法を渡り歩いている人々は多い。マーケティングではむしろ,それが多数派といえる(ぼくが典型である)。

また,ベイジアンはどの学会でも団結力があって,国際会議の組織化などにも積極的だという話もあった。いま,マーケティング・サイエンスの一流誌では,階層ベイズが席巻している感がある。ただ,そうした空気のなかでも,長くベイジアンとして仕事をしてきた少数のハードコアな人々は,その他大勢にはわからない「少数派」意識を持っており,だからエバンジェリストとして動いているように思われる。

同じことがエージェントベース・モデリング(ABM)の研究者にもいえる。彼らはどこの学会でもベイジアン以上に少数派だ。学際的なABMの会議もあるが,そこではお互いが本来所属する学問領域の違いが感じられて(当たり前だが),手法だけで一体感が持てるわけではない(領域にこだわらない物理学者にとっては,そうでもないかもしれないが)。ABMを使う人間は,それぞれの分野で,少数の異端派として生きる決意が問われる。

研究者として活動できる時間が残り少ないと考えると,周囲からの評価はだんだんどうでもよくなる。むしろ,本当にやりたいことを,思い残すことなくやり遂げるかが重要になる。かくして,ABMでもっと仕事をせねばならぬと感じる。実行委員長の熱心なお誘いもあり,JWEINには何とか投稿しようと決意した(大丈夫か?)

だが,ABMは自分のやりたいことのうち,どちらかというと「最近」の部類に属する。高校生あたりからの長い「夢」を思い起こすと,むしろマーケティングや消費者行動を「社会科学」として捉えることがより原点に近い。その観点から,消費者選好とその進化についてアプローチすること。ただし,どうしても心理学の助けがいる。という意味では,あまりに一般的な言い方になるが「人間科学」といってもいいかもしれない。

昨夜出た話で思い出したことの最後が,研究者の価値を測るのは,査読論文の数なんですか,という問いかけ。そうなってます,他にいい方法がないんです,というのが無難な答えだろう。だが,ぼく自身はその一方で,社会的インパクトという,あまり客観的でない基準が重要だとより強く思うようになってきた(引用の多さという意味での「インパクト」ではない)。「社会科学」なんてことを言いたいのも,そこに関係する。その方向の仕事も増やしていきたい。

もう一本のワインは自制す

2007-06-07 00:45:05 | Weblog
消費者間相互作用の研究会。2ヶ月お休みし,久々に開催。20人近い参加者があり,関西方面からも数人…ありがたいことである。まず,ぼくが「顧客購買履歴データからインフルエンサーを発見する」手法の研究を報告。「いつものように」率直なコメントをどんどんいただく。

一つ何度も指摘されたのが,主要ブランドをすべて平板に並べて選択するという設定が,そもそも意味をなすかという問題だ。消費者間影響関係(典型的にはクチコミ)の材料としてシャンプーを取り上げるなら,ツバキは話題として欠かせない。そこに焦点を当てるという戦略もあるだろう。

そのあと,メインイベントして,佐藤さんから日経リサーチのブログ分析システムをご紹介を頂く。その他社にはない優位性は,コメントとトラックバックの分析機能である。それは実は,非常に厄介な世界に足を踏み入れることを意味する。技術的な難しさに加え解釈上の難しさがある。

だが,マーケターにとって,そこから得られる情報には,技術・解釈上の難しさや不確実性をはるかに上回る価値がある。情報の形式的な欠落に目を奪われ,潜在的な価値に目をつぶるマーケターは,とっとと現場を離れて大学に移ったほうがよい(…ぼくのように)。

二次会はこれまた期待通りに楽しかった。もっと深く話をしたかった(酒も飲みたかった)が,思いとどまる。このうち何人かとは,来週関学で会うだろうし,そうでない(つまり非マーケティング系の)研究者たちとも,今後この研究会や別の場で議論する機会はいっぱいあるはずだ。

蒔いた種から育った樹木の大きさに驚く日が,いつしか来ることを祈りつつ。

バーチャル連携大学院

2007-06-05 06:35:11 | Weblog
前々回のエントリへの続き・・・大学院への内部進学者比率の制限は,大学院進学者が7~8割にもなる理工系の世界で重要なインパクトを持つだろう。予想される反対意見の一つが,理工系ではいまや,学部(専門課程)から(少なくとも)修士までの期間を視野に入れた一貫教育をしており,それが分断されるのは困るというものだ。

徒弟制的にスキルを伝承している実験系や工学系の研究室では,せっかく使いものになりそうになった学生の大半が出て行く一方で,そうした基礎のない学生が大量に転入してくることを懸念するに違いない。一方,物理学や経済学のように,知識がかなりの程度,標準化・モジュール化されている分野では,あまり問題は生じないだろう。

内部進学者の制限は,学部と修士,さらには博士課程間の一貫した(悪くいえばなし崩し的な)関係を崩し,それぞれをモジュール化させるよう働くだろう。そうなると,学部・修士・博士課程の各層での教育内容が,大学を越えて標準化されなくてはならない。また,各層で,基礎から効率的に(再)学習させる仕組みも必要になる。

それぞれの課程が層として独立していくことは,少なくとも社会科学では可能だし,意味もある。そもそも多くの大学院の博士課程にはたいしたカリキュラムもなく,学位論文の個別指導を受ける(そして提出後は審査してもらえる)機会があるというだけだ。図書館や情報システムを使えることを除くと,大学に属しているメリットはあまりないのではないか。

日本では,別の分野を専攻してきた博士課程の学生は,学位をとろうとする分野の体系的な知識を身につけることなく,狭いテーマで「深い」研究論文を書くことで博士号を取得する。これが,米国への留学(あるいは教育)経験者から耳にする,日米の博士課程の決定的な違いだ。

だが,博士課程クラスの学生に,その分野の研究者・教員となるのに相応しい広範かつ高度な知識を集中的に教えることは,個々の大学レベルでは非常に難しい。特にマーケティングや消費者行動のようなマイナーな分野ではそうだ。いままでも他校のゼミに参加している院生はいたはずだが,それがシステム化され,むしろ普通になることはよいことである。

そんなバーチャルに連携する大学院ができればいいと思う・・・実は自分でもきちんと基礎から勉強してみたい分野はいくつもある。

睡魔が襲う,御免なさい

2007-06-05 00:44:27 | Weblog
睡眠不足と疲れで,今日のゼミではウトウトしてしまう。ゼミ生諸君申し訳ない。病欠や脱退者が出て,今日はぼくを入れて4人。しかし,みんな artisoc を真剣に勉強しており,教員のみが落ちこぼれそうだ。

7月末の合宿の打ち合わせ。会津に行く。それまで3つの学会,2回の海外出張,いくつかセミナー・・・。試験や××任務はしかたない。これでJWEIN向けの予稿が書けたら,自分を褒めるしかない(まだ望みを捨てていない)。

大学院進学の流動化

2007-06-04 13:14:53 | Weblog
教育再生会議が,大学院入学者のうち自校出身者比率を30%以下とする提案をしている。これについて,今朝の日経に電通大の益田隆司学長が寄稿している。確かに米国では,学士,修士,博士を取得した学校が別々なのは珍しくないし,教員の採用でも自校出身者を制限している。実はこの点で,中国も米国を見倣っているという。益田氏は,再生会議のようなハードなやり方ではなく,特別研究員の応募資格を内部進学者には与えないといった,ソフトなやり方を提案している。

原点に立ち戻って考えると,出身校以外の大学院に進学する学生が増えることで,どんないいことがあるのだろうか。益田氏は,学生の視野が広がり,優秀な人材が育つことをあげる。確かに視野が広がるかもしれないが,それだけがメリットなのだろうか。おそらく,学生が大学間で活発に移動することで,大学間の競争が刺激される,という期待もあるだろう。これまでも他校への進学はあったが,少数例に留まるため,「無理矢理」加速しようとするのが,教育再生会議の提案だと考えられる。

問題は「無理矢理」がいいのかどうか。上からの強制で,期待したような成果をあげられるだろうか。米国では,学生は進んで大学を移動し,大学も自らの方針として多様な出身校の教員を抱えている(はずだ)。お互いの行動原理が補完的なのである。日本では,お上が強制的に「流動性」を導入しようとしている。米国モデルが正しく,都合のいい部分だけ切り出して移植できるならいいが,果たしてそんなことは可能だろうか。

益田氏も指摘するように,有名大学では,自校の院に進学できないなら就職するという学生も出るだろう(そういう学問へのモチベーションが低い学生は進学しなくて結構,と言い方もあるかもしれないが・・・)。日本社会では現在でも「学位」より「出身大学(学部)」が重視されている(その典型が,日経「経済教室」の経歴紹介だ!)。こうした日本的土壌のなかで,ある部分だけ米国化させても,必ずしも期待通りの成果は得られない。

有名校にできた「空き枠」は他校出身の学生が埋める。そしてその連鎖反応で,志願者が集まらない大学院は崩壊する・・・。もちろん,提案されている制度によって,大学間で学生の水平的な移動が全く増加しないわけではない。しかし,米国ほど様々な一流大学が並び立つわけではないから,有名校での大学院進学者の減少あるいは海外流出は避けられないだろう。教育再生会議の狙いが,米国のような状況にしたいのだとしたら,順序が逆ではないだろうか。大学の水平的差別化を実現する前に大学院進学者の流動化を図るというのは,文革時の「下放」を思い起こさせる。

テレビ局崩壊

2007-06-02 23:48:35 | Weblog
夕食後寄った本屋で,週刊ダイヤモンド6/2号の表紙が目を引いた。「テレビ局崩壊」・・テレビ局社員の高給に羨望を持つ人々にとっては溜飲を下げることができるかもしれない。そして月刊アスキー7月号の表紙にも「放送と通信の決裂!?」・・・ついどちらも買ってしまう。一方で,藤原紀香の結婚披露宴のTV視聴率が,関西で40%を越えたという現実もある。

本や雑誌を買うものの,落ち着いて読んでいる時間は当分なさそうだ。昨日から,JIMSその他で発表予定の,影響関係を含む潜在クラス選択モデルの(再)分析に突入。ようやくモデルの妥当性検証のシミュレーションに目途が立った(現在計算実行中・・・)。

MATLABの最新バージョンはなかなか賢い。エディタにプログラムを書いた段階で,いろいろ注意してくれる。明日は実データへの適用へと進む予定。それにしても何だか目がかすむ。年のせいか・・・。