流通経済研究所から『流通情報』No.481が送られてきた。このなかに,拙稿「消費者行動の複雑性を解明する―エージェントベース・モデルの可能性―」が掲載されたためである。ちらちらと眺めながら,「消費者行動研究の新フロンティア」という特集名に相応しいかどうかを改めて問い直してみた。力作揃いの他の掲載論文と比べると,いささか見劣りがするかなという気がしなくもない。
他の論文で特に目を引いたのが,新倉貴士「感染・転移・源泉,そしてリアリティの消費者認知」である。何と魅惑的なタイトルだろう!もちろん「感染」といっても,明示的にクチコミのような消費者間相互作用を取り上げているわけではない。ただ,潜在的には関連した話題だと思う。ヒトとヒト,モノとモノ,ヒトとモノとの相互作用はどこかで通底するのではないかと考えさせられる。
阿部周造「解釈レベル理論と消費者行動研究」と石井裕明「消費者行動研究と制御焦点理論」は,消費者行動研究の新理論を伝えている。竹村和久「ニューロマーケティングの可能性」は,わが国の第一人者による簡潔なサーベイだ。残念ながら,この雑誌は流通経済研究所の会員のみに配布され,市販されていない。大学の図書館にあればいいが,明大図書館にはかなり過去の分しかなかった。
Journal of Consumer Research の各号を眺めても,消費者行動研究のパラダイムは百花斉放・百家争鳴状態である。つまり,心理学・認知科学,経済学,社会学,人類学(最近では神経科学)などの諸分野の最新装備で武装したさまざまな部族が覇を競っている。「信仰」のちがいだから,その優劣を決めるメタレベルの基準は存在しない。したがって,この対立ないし多様性は永遠に持続する。
では,日本の消費者行動研究学会で部族間の抗争が繰り広げられているかというと,そんな様子は全くない。Association for Consumer Research は行ったことがないのでわからないが,日本固有のことだとしたら,異なる宗教の儀式を平然と取り入れている日本的風土のせいかもしれない。そこで思い出されるのが,加藤周一の日本=雑種文化論に丸山真男が対置した,日本=雑居文化論である。
雑居文化だとしたら,理論体系といっても道具箱にすぎない。消費者行動研究の雑居性は日本固有のものではなく,消費者行動研究という学際分野に特徴的なことかもしれない。いずれにしろ,雑居性は平和をもたらすが,進化にはつながらない。そこで,せめて雑種性を目指したいと不遜なことを思う。そのためには,「志ある」人々の間であえて対立してみる試みが生産的かもしれない。
他の論文で特に目を引いたのが,新倉貴士「感染・転移・源泉,そしてリアリティの消費者認知」である。何と魅惑的なタイトルだろう!もちろん「感染」といっても,明示的にクチコミのような消費者間相互作用を取り上げているわけではない。ただ,潜在的には関連した話題だと思う。ヒトとヒト,モノとモノ,ヒトとモノとの相互作用はどこかで通底するのではないかと考えさせられる。
阿部周造「解釈レベル理論と消費者行動研究」と石井裕明「消費者行動研究と制御焦点理論」は,消費者行動研究の新理論を伝えている。竹村和久「ニューロマーケティングの可能性」は,わが国の第一人者による簡潔なサーベイだ。残念ながら,この雑誌は流通経済研究所の会員のみに配布され,市販されていない。大学の図書館にあればいいが,明大図書館にはかなり過去の分しかなかった。
Journal of Consumer Research の各号を眺めても,消費者行動研究のパラダイムは百花斉放・百家争鳴状態である。つまり,心理学・認知科学,経済学,社会学,人類学(最近では神経科学)などの諸分野の最新装備で武装したさまざまな部族が覇を競っている。「信仰」のちがいだから,その優劣を決めるメタレベルの基準は存在しない。したがって,この対立ないし多様性は永遠に持続する。
では,日本の消費者行動研究学会で部族間の抗争が繰り広げられているかというと,そんな様子は全くない。Association for Consumer Research は行ったことがないのでわからないが,日本固有のことだとしたら,異なる宗教の儀式を平然と取り入れている日本的風土のせいかもしれない。そこで思い出されるのが,加藤周一の日本=雑種文化論に丸山真男が対置した,日本=雑居文化論である。
日本の思想 (岩波新書) 丸山 真男,丸山 眞男 岩波書店このアイテムの詳細を見る |
雑居文化だとしたら,理論体系といっても道具箱にすぎない。消費者行動研究の雑居性は日本固有のものではなく,消費者行動研究という学際分野に特徴的なことかもしれない。いずれにしろ,雑居性は平和をもたらすが,進化にはつながらない。そこで,せめて雑種性を目指したいと不遜なことを思う。そのためには,「志ある」人々の間であえて対立してみる試みが生産的かもしれない。